須坂市議会 2006-09-29 09月29日-06号
市役所の職員が、心ならずも市民の皆さんに赤紙を届けなければならない、そんな時代に逆戻りさせないために、住民の暮らし・福祉・教育・環境を守る地方自治体の果たす役割が一層強く求められています。 さて、今月9日、札幌で夕張問題を考える集いが開かれました。赤字債権団体となった夕張市が、今、全国的に話題となっておりますが、私たち須坂市民にとっても人ごとではありません。
市役所の職員が、心ならずも市民の皆さんに赤紙を届けなければならない、そんな時代に逆戻りさせないために、住民の暮らし・福祉・教育・環境を守る地方自治体の果たす役割が一層強く求められています。 さて、今月9日、札幌で夕張問題を考える集いが開かれました。赤字債権団体となった夕張市が、今、全国的に話題となっておりますが、私たち須坂市民にとっても人ごとではありません。
私の父は、他の多くの犠牲者の皆さんと同様に当時、政府の大東亜が日本の生命線の年、アジア諸国に侵略戦争を強行したもとで、赤紙1枚で28歳の妻と2歳の私、当時母親が身ごもっていた妹や祖父母を置いて戦争に、1944年徴兵され、翌年の1945年6月10日、フィリピンで戦死しました。父は、みずからの子供の顔を一度も見ることはありませんでした。残された若い母親はもちろん、家族は途方に暮れました。
「オラホの憲法9条」をですね、つくりながら、ずっと前から気になっていたんですけれども、一体私たちの千曲市ではですね、あの昭和の15年戦争ですね、中国の侵略から始まって、米英との戦争、そして敗戦に至る、あの15年戦争で一体どのくらいの若者が戦争に行って死んでいるのかな、戦死した兵隊を小泉首相も心ならずも戦争に行き死んだというふうに言ってますけれども、赤紙1枚で招集されて死んだというよりも殺されたと言っていいと
私の父も赤紙で戦争に行ってきました。痴呆が進み施設に入っておりますが、施設に訪問したときに、また戦争する国になりそうだという話をしましたら、痴呆の父親が戦争のことは思い出したのでしょうか、戦争は人間を狂わせる、戦争はだめだぞと、正気に戻ったようでした。
私は国会議員でも何でもないから、ただ世論としては、あるいは私どもとしては、おやじもそうでしたが、赤紙1つで行って、決してそれを賛成、反対と、中国に行きたくなくても、赤紙来ればやむなく中国、おやじも行きました。そのとき、上條前議長さんもお父さんが行かれて戦死されたというお話を聞きながら、感慨深くして……。これも個人的です。
私も大東亜共栄圏のため、お国のためと赤紙1枚で戦争に借り出された父親を持っております。出征し1年も経過しないで乳飲み子と2歳の私及び妻、そして祖父母などを残して戦死いたしました。私はこのみずからの体験を通じても、自衛官の20歳代の妻から、夫は何も言ってくれない、もし派遣されたら何か起こったらきょうのイラクで殺害された日本人の映像を夫の姿とダブってしまうのです。
◆12番(牧内信臣君) 私の兄貴は赤紙1枚で学徒動員で戦死をしました。皆さん、いま立ち上がりましょう。21世紀こそ戦争による解決をする手段、これを地球上からなくしてしまうこと。 日本共産党の牧内信臣でございます。 さて、早いもので、もう12月になりました。寒さが一段と感じられるようにもなってまいりました。
長門町の町長さんの、自治体への強制が大きくなり過ぎる、赤紙召集につながる発想は回避すべきだとのコメントや、四賀村の村長さんの、出征した体験から、一たび有事となれば自治体も機能しないと考える。今この時期になぜ必要なのかのコメントは、自分自身の体験と合わせ、説得力ある発言と受けとめました。
国民に対しては戦争方針への協力義務を定め、自衛隊の公用令書の交付--現代版赤紙と考えてもいいと思うのですけれども、こういう命令一つで国民の施設、土地、家屋、物資が収用され、保管を命じられます。
須坂市はかつて、アジア太平洋戦争の時期に、役場職員が赤紙配りに動員させられたり、多数の住民を戦場に送り出してきました。また、多くの住民を満州開拓移民に動員し、そして、少なくない少年を青少年義勇軍、青少年義勇隊として中国東北部に送り、多数の犠牲者を出しました。私たちは今こそ、ここから教訓を学ばなければならないと思います。
また、ある患者さんは2月に難病患者の医療費一部自己負担を告げる通知が送付されてきたとき、戦時中の赤紙、召集令状が送られてきたような思いで受け取ったそうです。難病を抱え、生涯療養生活を送らなければならない患者さんや家族にとって、医療費の一部負担導入は大変過酷なものです。
自分のおやじをだね、一銭五厘の赤紙でだね命を奪われたんです。それは私だけではないんです。中野市で 1,000人前後の人たちがそうなんです。
しかも、これらの皆さんの多くは、当時の政府の進める侵略戦争の本質を見抜けないまま、多くの方々が1銭5厘の赤紙で戦場に駆り出され、生死を受ける塗炭の苦しみを受け、また夫や兄弟を戦争に出征するもとで厳しい労働や生活を強いられた皆さんであります。
時あたかも国情は、戦争へのアプローチとなり、村人の若者は、赤紙召集により、反対の声はいつしかなし崩しとなり、最終的にはゴーサインにより、面積約二十五ヘクタールが、昭和十二年十一月十八日、起工され、市の直営事業で進められたと聞いております。当時、多くの市民の勤労奉仕による作業の様子も、「信毎・昭和の記録誌」に掲載されております。
戦後間もなく今のシャウプ勧告による税法が施行されまして、私どもまさに小さいときですから本当にいろんな思い出がありますけれども、赤紙を張ってたんすを持っていかれるとかいろんなことがありました。税というのはすべてそういう面で払う方の立場からは大変厳しいものがあるということも現実でございます。