飯田市議会 2019-12-04 12月04日-02号
松澤市長4期、田中市長4期、そして今、牧野市長も4期目を務められていますが、社会の変化の激しい現在において、市政を取り巻く環境も大きく変わってきていますので、リーダーシップのとり方は、その時々で違ってしかるべきと思います。
松澤市長4期、田中市長4期、そして今、牧野市長も4期目を務められていますが、社会の変化の激しい現在において、市政を取り巻く環境も大きく変わってきていますので、リーダーシップのとり方は、その時々で違ってしかるべきと思います。
また、行政経験の時代から今日まで清水市長、松澤市長、田中市長、牧野市長と4代の理事者とかかわり、すばらしいリーダーのもとで市民福祉の向上に懸命に取り組んできたつもりであります。この間、御指導いただきました理事者、部課長初め、職員の皆様に感謝の一言でございます。 さて、20年前とは時代の流れが大きく変化しております。
田中市長は、地方の都市の資源である環境に視点を当てました。環境は、当時は、当地域はもちろん、全国的にも、一部の社会運動家や専門家の間でしか注目されていなかったテーマでしたが、第4次基本構想に「環境文化都市」を目指す都市像として掲げ、先進的な発想を持ったスタッフの支えもあって、「人も自然も美しく輝くまち飯田」のサブタイトルを携えて策定されました。
冒頭紹介した会議の議事録を読みますと、まさに私が今回お伺いしようとしていることが、既に10年前から、田中市長のころから動き出しているということに大変うれしいことを感じるわけでございます。 機関誌が出ておるようで、それも読ませてもらいました。地域ぐるみ環境ISO研究会発行のぐるみ通信ですね。まさに企業サイドから、非常にこういった方針について熱いスピリットが伝わってきました。
次に、これまで質問してきました都市計画道路の改良とも大きくかかわってくるわけなんですが、丸山羽場第3、第4地区区画整理事業というのが計画されておりましたけれども、前市長、田中市長だと思われますが、平成16年3月に定例議会で白紙の状態というふうに答弁されております。その後、9年が経過しておりますが、この事業の今後について、牧野市長のお考えをお聞きしたいと思います。 ○議長(林幸次君) 牧野市長。
田中市長には、本当にいろいろなところへ御一緒させていただきましたし、いろいろなところへ行かせていただきまして、「百聞は一見にしかず」という言葉がありますが、本当にいろいろな勉強をさせていただきました。それらの成果をもとに牧野市長のもとでという覚悟でございましたけれども、どの程度お役に立てたのか心もとないところでございます。
田中市長のときには、外見は鉄筋コンクリートですので、まあまあ耐用年数があるとか何とかかんとかで逃げられてというか、なかなかできませんでしたけれども、そういうような活動の中で民営化の問題で民営化にすれば予算的措置ができるというような形のものが見えてきて、公立とか民営とか、それはそのときの先生たちの努力によって、決して差別はないというふうに私は思っておりますので、まあ民営でもいいかなあというふうに思いまして
歴史研究所は平成13年7月20日、当時は田中市長でありましたけれども、飯田市の市史編さん事業有識者会議に諮問をかけているんですね。1点目、市史編さん事業の基本的視点、2点目が教育・学術・文化振興・行政寄与を目的とした地域研究センター構想、3点目、飯田市市史編さんの具体的編さん方法の3点をかけておるんです。
環境文化都市を目指す都市像として掲げた第4次基本構想は、今から15年前の平成8年、当時の田中市長のもとに先進的な発想を持ったスタッフの支えをもって、「人も自然も美しく輝くまち飯田」のサブタイトルを携えて策定されました。
先ほど申し上げましたけれども、私も24年の議員生活の中で松沢市長、そして田中市長、そして牧野市長と、それぞれの立場で議会の一員として務めさせていただいてまいりました。特に牧野市長になってからは、理念と共有できる部分も感じられたし不満に思うところもありました。 私の最も苦しみやりがいのあった活動は、長年かかった治水対策事業であります。
そういう構造でずっと来て、私は今までのそれぞれの、前の田中市長その前の松沢市長いろんな政治的やいろんな政策をとってきたと思うんですけれども、とにかく民間のプロジェクト、そういうものをこれから生かしてきておる、私は牧野市長にそういう意味では本当期待しているわけですよ。そうでないとこの間の3年間というのは評価まさにそこに行きますから。
市民の負託を受け、市民の代弁者として市政参画をし、昭和、平成と時代を重ね、田中市長、永井市長、三木市長の3代の市長とともに、須坂市の発展と市民福祉の向上に微力を尽くしてまいりました。 昭和62年9月、北部体育施設運動広場の竣工、昭和63年6月にはサマーランドがオープンいたしました。
それに対して当時の田中市長は、「行革は職員のためにやるのではなく市民のためにやる」と。むしろ職員には協力してもらうという、こういうことで答弁をされておりますが、そのあと当時の助役が市長答弁を補足して、「職員には協力はしてもらうけれども、職員を犠牲にしてまでやるという考えはない」という、こういう答弁を実はされております。
市民の大きな期待を背負い、市民の代弁者として市政参画への決意を新たにし、以来、田中市長、永井市長、三木市長の3代の市長とともに、須坂市の発展と市民福祉向上のために微力ながら尽力をしてまいったところでございます。 この年の11月に、県下に誇れる文化の殿堂、メセナホールが完成し、田中市長の一番太鼓でオープンし、芸術文化の発展に大きな力となりました。
このことにつきましては、前の田中市長が種をまき育ててきているわけでありますが、私ども議員も議会もこの議案には賛成をしてきた経緯はあるわけであります。しかしながらこういうような状況の中で、議員としてやっぱり検証はしていく必要があるのではなかろうかというふうに思い、取り上げたわけでございます。
牧野市長の前の田中市長、県知事の田中県知事と同じ名前だったもんですから、建設事業が、先ほどどなたかからも質問があったように、県の事業がだんだん遅れてきたり、縮小・廃止になってきておると。そうすると時の田中市長は、ああいうお方ですから減りましたと。牧野さんもああいう方という言葉をちょっと使ったことがあるね、一回どこかで。そのときに僕は指摘したんです。
今までは田中市長、古井助役との長いやりとりでしたが、今回からは牧野市長、小木曽助役と理事者、議会側の立場でかかわりを持たせていただくことになったからであります。 牧野市長が誕生してから、何回か議会の場で接してきたわけですけれども、私の感触としては、今までとは明らかに違った雰囲気を持った方だなという感じを持ちました。
田中市長。 ◎市長(田中秀典君) 9月7日に開会いたしました本定例会におきまして、本会議並びに各委員会を通じまして、ご熱心にご審議をたまわり衷心から感謝を申し上げます。
まず冒頭に田中市長におかれましては、4期16年の長きにわたり飯田市政にご尽力をたまわりました。2つの世紀をまたがった激動の時代に飯田市のみでなく、飯田下伊那のリーダーとして変革期の地方自治を支えてこられました。心からその労をねぎらいたいと存じます。
田中市長。