松本市議会 2020-09-14 09月14日-02号
日本列島の長期的人口分布資料と将来人口推計値を合わせたグラフを見ますと、江戸幕府が始まった1603年は、約400年前になりますが、1,227万人。明治維新1868年は3,330万人。昭和に入り終戦時、昭和20年の1945年は7,199万人。その後、高度経済成長とともに増加し続け、ピークは平成20年、2008年の1億2,808万人。前回の国勢調査、平成27年、2015年は1億2,709万人。
日本列島の長期的人口分布資料と将来人口推計値を合わせたグラフを見ますと、江戸幕府が始まった1603年は、約400年前になりますが、1,227万人。明治維新1868年は3,330万人。昭和に入り終戦時、昭和20年の1945年は7,199万人。その後、高度経済成長とともに増加し続け、ピークは平成20年、2008年の1億2,808万人。前回の国勢調査、平成27年、2015年は1億2,709万人。
日本の近代国家への道は、江戸幕府から大政奉還、五箇条の御誓文により、合議制、官民一体の国家形成、欧米列強に追いつく改革を明治新政府が打ち出したことに始まります。
また、先日御講演いただきました浅田次郎先生は、江戸幕府は実は地方自治を非常に大事にしていたと、各藩に任せていたということでありまして、江戸幕府が長く平穏に、平和に続いたのも地方のそれぞれの諸藩に任せていたことが大きな理由ではないかということをおっしゃっておりましたので、非常に参考になる講演でありました。 以上であります。
加えて、婚活の御利益があるとされる周辺の弥栄神社、湯福神社、妻科神社、武井神社、美和神社等々、それらとのつながりの紹介や松代藩が善光寺造営の任に当たったときに、江戸幕府から派遣された普請奉行を迎え、大工を交えて接待した座の杯事の北信流についても、それらを盛り込んだものを併せてPRすることで、来訪者アップしたらいかがというふうに考えますけれども、御所見を伺います。
東海道に比べ大回りをするルートにもかかわらず、渡し船が許されず、川越人足であった大井川や安部川や険しい箱根峠など交通難所が多く、江戸幕府による取り締まりの厳しかった東海道を避けて、中山道を歩く通行人も多かったと言われております。旅費となる中山道筋の旅籠の宿代は、東海道よりも2割ほど安かったとも言われております。このことから、当時の一般庶民にとっては重要な生活道路だったことがうかがえます。
その後、江戸幕府は滅亡し、製糸業は明治時代も殖産興業として注目されました。模範工場として政府は、明治5年10月、先日、世界遺産となった富岡製糸場を建設しました。実は富岡製糸場が建設される2カ月前の明治5年8月に、長野県では既に器械製糸工場が建設されていました。
高札場には、日常生活の基本的なおきてなどがしっかり立てられていて、江戸幕府成立当時は現在の法令らしいものではなく、徳川家康が下した決済とか注意事項が書いてあったというのが歴史に残っているようです。 下諏訪宿の高札場の高札の高さというのは、高さ2間、長さ3間3尺5寸、横幅が7尺と結構大きなものでありました。
国土交通省の資料によりますと日本の人口は鎌倉幕府成立時に757万人、その420年後の江戸幕府の成立した1603年には1,227万人、さらに約260年後の明治維新のころの1868年には3,330万人、その後約100年の間に8千万人が増え1億2千万人を超えました。
なぜなら江戸幕府は各藩に多額の納入金を容赦なく取り立てましたが、一方で特産品の開発を認め、今となってそれが地域の特産品となって文化や産業につながって地域おこしなどにつながっているそうであります。そう考えれば、財政もそういった文化、財産、知的財産あるいは地域経済にと、多くを使っていけるのではと思います。いかがでしょうか。その結果を公会計で示す、そんなことだろうと思います。
続きまして大きな5番、初期中山道についての(1)2市2町連携による開発の経過と状況についてでありますが、中山道は東海道、奥州街道、日光街道、甲州街道とともに江戸幕府の定めた五街道の一つとして、東京都の日本橋から滋賀県の草津宿まで129里、約500kmを結ぶ重要な路線でありました。
江戸城中での自刃については、自刃の理由が諸説あって、いまだに定説化されていないことや現代社会とは全く異なった当時の武家社会においての江戸幕府の終えんといった極限状態のもとでの行動でありますので、その点についての評価は差し控えたいと考えております。
村芝居は江戸時代に盛んになり、当時の江戸幕府や高島藩のたび重なる禁止令にもかかわらず、各村々に舞台がつくられ盛んに行われておりました。明治、大正に入ってからも盛んであったようでございますが、戦争による若者の流出や戦後の新しい娯楽により、次第にすたれてまいりました。それでも昭和30年代初めごろまでは行われていたようでございます。
歴史をさかのぼると、鎌倉時代は約700万人、江戸幕府成立1600年ごろは約1,200万人、江戸時代1750年ごろは3,100万人、明治時代の日露戦争ごろは、急速に増加し4,780万人に、以後、大正、昭和、平成と増え続けて、最多は2005年で1億2,777万人と記録されております。しかし、それ以降は減少状態に入り、世界でも例のない人口減少時代に向かっております。
ご承知のように、江戸時代、将軍吉宗公が朝鮮ニンジンの国産化に上田の地を選び、成功し、江戸幕府の薬草栽培所が菅平にありました。また、1980年代では、上田の朝鮮ニンジンは輸出品として世界じゅうに名をとどろかせております。残念ながら円高や、中国を初めとする東南アジア諸国での低価格供給体制の確立などにより衰退し、現在では市内に4軒ほどのニンジン栽培農家が残るのみとなっています。
ちなみに、参考なんですが、江戸幕府時代、私、1万石以上の各藩を調べさせていただきました。これも不確実な、資料がございませんので、北の蝦夷地の松前藩が3万石から南の薩摩藩77万石を含めて、国内にその当時、約274城、274藩あったんですが、つい最近までは犬山城が4万石、彦根城が35万石、小諸藩、小諸城が1.5万石、それが民間地として、自治体でなく、民間地で残っていたと聞いておりました。
今から百七十一年前、一八四〇年、当時、清国は人口四億人、英国は人口一千万人でアヘン戦争後の南京条約、不平等条約を踏まえて、佐久間象山は「海防八策」を江戸幕府の海防掛であった八代藩主の真田幸貫公に提言するなどにより、第一の開国である明治維新が実現し、第二の開国は太平洋戦争の敗北であり、第三の開国は三月十一日、東日本大震災の二〇一一年の本年である。
特に北国街道は、江戸幕府により、今から400年前の慶長16年、1611年に制定され、松代街道との分岐点となる屋代宿は、加賀、前田家の常宿であったために、文化・経済の中心として大いに栄えました。 この街道が幹線、国道として、現在は高速道路へと変貌してきました。
それから、今の人権啓発費の問題でございますが、この問題におきましても2月に県が公表いたしました長野県人権政策推進の基本方針ですか、我が国の社会の歴史的発展の過程の中でつくられたこの江戸幕府における身分制度、こういったものが営々と今日まで引き続いているということは事実でございます。
1192年から戦国時代を経て1603年江戸幕府成立までが武士の時代。江戸幕府ができてから今日2010年前後までが官僚の時代であるという考え方であります。権力の移動が400年置きに到来するという考え方です。そして、この権力の移動が今まさにされているという思想であります。
3年後に江戸幕府が設立しまして、そして、家康はこの大事な地を自分の子供、6男の松平忠輝に治めさせましたが、1616年に改易となり、同年幕府直轄地、幕府領が初めて北信に誕生いたしました。