松本市議会 2016-03-03 03月03日-05号
財政課長 中野嘉勝 ------------------------------事務局職員出席者 事務局長 栗原信行 事務局次長 小林伸一 次長補佐兼議会担当係長 議会担当係長 伊藤佳子 逸見和行 主査 滝澤 修 主査 金井真澄 主任 高橋千恵子 主任 吉沢武士
財政課長 中野嘉勝 ------------------------------事務局職員出席者 事務局長 栗原信行 事務局次長 小林伸一 次長補佐兼議会担当係長 議会担当係長 伊藤佳子 逸見和行 主査 滝澤 修 主査 金井真澄 主任 高橋千恵子 主任 吉沢武士
また、虫湯につきましては武士の湯、または蒸し風呂という説もあるところでございます。お話の中にございました国道20号線沿いの史跡、虫湯跡の石碑でございますけれども、地元要望を受けて教育委員会で設置したものですが、このたびビルの解体工事に先立ちまして、過日撤去されたところでございまして、石碑は教育委員会で保管をいたしております。
政策課長 横内俊哉 財政課長 中野嘉勝 ------------------------------事務局職員出席者 事務局長 栗原信行 事務局次長 小林伸一 次長補佐兼議会担当係長 主査 滝澤 修 逸見和行 主査 金井真澄 主任 高橋千恵子 主任 吉沢武士
高遠町の武士の師弟として、藩校進徳館で学んだ伊澤修二は、1851年に生まれ、今の東京大学大学南校で学び、24歳で愛知県の師範学校の校長になりました。明治8年にはアメリカに留学し教育学を学びます。帰国後、音楽教育に取り組んだことは皆さんよく御存じのことと思います。1917年に亡くなりますが、来年度は没後100周年になります。そこで以下2点の質問をさせていただきます。
特に、長野県では武士だけではなくて、商家とか農家の子供たちも対象にしていたという部分が1点挙げられるというふうには思います。
陣羽織は戦国時代に武士が陣中で用いたことが名称の由来とされ、敵、味方にその威光を誇示する意味があると言われております。これから真田丸イヤーを迎えるに当たり、真田信繁公のふるさとであり、ドラマの舞台となる上田市が一丸となって地域を盛り上げていく意気込みを陣羽織を羽織って市内外に力強く発信したいと考えております。
盛信を慕う地域の人々が遺骸を丁寧に葬り、盛信の武士としてのあり方を後世に伝えたのが伊那市の史跡となっている五郎山でございます。高遠小学生の1年生は、五郎山を遠足の目的地として、事前学習で盛信について学ぶ機会となっております。 高遠城落城から16日ごろ、3月18日に織田信長が高遠城に入り、戦績を見聞しております。
その幾つかのキーワードとして武士道などのいわゆる道、自然の美しさ、親子のきずな、助け合い、国家への敬意を上げております。作家の曽野綾子氏も、よき国際人であるためにはよき日本人であれと言っております。人を愛し、家族を愛し、家庭を大切にし、郷土を愛し、国を愛する、こういった子供たちを育てていきたい、私たちは。そんなふうに私は思っております。
ぜひまた、市長にもそんなことを御理解いただきたいと思うことと、それから、武士は食わねど高ようじという言葉がありますけれども、高遠の住民というのは非常にプライドの高い人種かなというふうに思っています。
その前半30年ほどについては武士とも言われますが、諸説ありますが、詳細はわかっておりません。幕末、江戸か東京で俳諧を学んだと言われております。 また、漢学や日本の古典、西洋の学問にも知識があり、松尾芭蕉を崇拝し、いつも芭蕉の句などを持ち歩いていたといいます。 南信濃の代用教員たちの教員試験の受験のための指導を頼まれたとも言われ、西洋式算術や理学大義を教えたと言われております。
なお、歴史小説家の江宮隆之氏は、堀 直虎が幕府から水戸浪士による天狗党の乱の鎮圧を命じられた際、自身の意見を述べ50日間の謹慎を受けたことなどの気骨ある言動などから、自刃は堀 直虎自身の信念と武士としての大義を貫いたものとして描きたいとお聞きしております。 2点目、児童、生徒に期待するものはについて申し上げます。
◎教育部長(古屋博康君) これまで議会一般質問でもお答えさせていただいておりますけれども、武井武雄先生の生家の文化財的価値としましては、江戸時代に建てられた中級武士の家としての部分であると考えております。
考えてみまするに、武士の子弟中心の藩校とか、それから各地に寺子屋がございました。それから私の住んでおります穂高には、私のおじも出ましたが、研成義塾という私塾もありました。
そこに働く武士たちも、当然そういう形になろうかと思っています。そして、2年後の明治4年7月15日、廃藩置県に入り、官軍にお城を引き渡します。そして、本丸建物や足柄門、黒門などを競売にかけていく事実がここでございますが、この2年間、版籍奉還から廃藩置県の2年間がターニングポイントとなったことは、また違う問題がありますので、この2年間は、皆さんの記憶にとめておいていただきたいと思います。
もう少し古い更級郡史では、日本地名辞典の著者で吉田東伍氏が「この建部大垣を今の牧郷村竹房の人なるべし」として、武富佐神社、これは武士の「武」に「富」と「佐」と書くんですが、その裏手の古墳が大垣のであると断定しております。これが信州新町竹房の有力な決め手になったのではないかと私は思っております。 そこで百聞は一見にしかずということで、過日、信州新町の竹房へ行き、武富佐神社周辺を調べてみました。
でも、これ市長は行かれたことあるかどうかあれですけれど、磯屋旅館さんですか、あそこへ行くと、昭和50年前半のころですけれど、当時の神津武士市長さんですか、あの当時なんか高速もないもので、海の家の開設式というと、市の車に乗って、18号を何時間もかけて行って、向うへ行って開設式をやって、一杯やって、また帰ってくるという、何か一日がかりの開設式をやっていたということで、あそこへ行くと懐かしい写真が本当に飾
飯綱信仰は庶民や修験に加えて、武将、武士層もこの信仰の有力な担い手となり、武田信玄が飯綱社に社領を寄進したり、議員さんが御指摘のように、上杉謙信がかぶとの前立に戦勝の神として飯綱権現像を使っていたことなどが知られております。 また、飯綱山の山霊、山の霊ですけれども、その使いがキツネとする飯綱信仰は、農民の間では農業神--農業の神様として信仰されており、またつきものの信仰の側面も有しておりました。
志の教育の志とは、武士の士の下に心を書くものであります。また、この私立学校は学力だけでなく、学校生活の中でさまざまな体験をしながら人格を築き成長していくとして、開校以来この大切な期間を常に子供たちと向き合い、高い志を持った社会のリーダーを育てる教育を実践してきていると言っておられます。
1867年、今から144年前、上田藩の下級武士である赤松小三郎先生は、幕末に議会政治を提唱し、「建白七策」で新時代の創造を目指されました。上田の地にご縁のある夢を語り、実践しようとしている両教授の提言や研究の成果を市は進取の気性で受けとめ、地域活性化の原動力としていただきたいと思います。
武者溜りは武士の集合場所として、石垣、堀、広場で構成されていたものですが、公園としての使いやすさを考慮しながら、今後市民会館の解体工事に合わせて発掘調査を行った上で整備を進めていく予定でございます。 また、ご指摘の櫓の復元については、その大きさや外観の分析資料とするための幕末当時の写真や図面が不足しており、整備への道筋に至らないのが現状です。