箕輪町議会 2020-09-08 09月08日-03号
これから後の世代ですね、大正期にスペイン風邪というのがあったとかですね、それまでにそういう感染症とか、ペストの問題とかですね、かつていろいろあるわけですけれども、やはり今回今本当に経験したことのない出来事ということで、この辺についてですね、やはり一定程度の段階で検証をし、議会とも議論をもちろんさせていただくということだと思うんですけれども、そういう中でですね、後世に伝えていくということが大事ではないかというふうに
これから後の世代ですね、大正期にスペイン風邪というのがあったとかですね、それまでにそういう感染症とか、ペストの問題とかですね、かつていろいろあるわけですけれども、やはり今回今本当に経験したことのない出来事ということで、この辺についてですね、やはり一定程度の段階で検証をし、議会とも議論をもちろんさせていただくということだと思うんですけれども、そういう中でですね、後世に伝えていくということが大事ではないかというふうに
須坂市が株を所有している会社は、長野電鉄株式会社につきましては大正15年10月から、信越放送株式会社は昭和43年2月から、須坂温泉株式会社は昭和35年12月から、株式会社北信食肉センターは昭和48年6月から保有しており、当時どのような経過で保有したか詳細な理由については確かではありませんが、当時の情勢等を振り返りますと、長野電鉄株式会社は市民の利用する公共交通発展のため、信越放送株式会社は当時、県内唯一
今から97年前の大正12年に関東大震災があり、10万5,000人もの方が亡くなられたと聞いております。 今日も台風9号が沖縄近辺に来ておりまして、自然災害は常に身近にあります。 では、通告に従って、質問させていただきます。 件名1、新規就農者、移住定住者、地域おこし協力隊。 新型コロナウイルス感染症の感染者拡大に伴い、日々の生活様式が大きく変わっております。
また、平成28年度から大正大学との調査研究を行ってきましたが、平成30年度から大学主体の授業である地域実習の受け入れに発展的に移行しました。1年生7人がおよそ40日間箕輪町に滞在し、地域住民と交流を深めながら、地域資源の調査や地方創生に寄与する研究を行っています。これら大正大学との連携事業により、学生の中から1人が移住し、今後関係人口のさらなる広がりが出るものと考えます。
山岳博物館におきましては、先月18日から来月27日にかけ、大正登山ブームや信州理科教育の先駆けとなった、明治から昭和初期にかけての博物学と登山の関わりに焦点を当てた「博物学と登山」展を開催しております。 また、この企画展の関連行事として、今月1日には、小学生向けに「山のミニ科学実験教室」を開催し、山と里の気圧や空気の薄さの違いなど、自然科学の不思議について体験講座を実施いたしました。
一方、本多静六博士は林学博士で、造園家、株式投資家としても有名で、大正15年には臥竜山公園を設計した人物でもあります。彼の設計案を見てみると、全山を松にするとは書いてはおりません。山を区分けして、場所によっては山桜を植えると書いてあります。観音さんが祭られている山を観音山と称し、しだれ桜を植栽したり、自然のままをめでる場とするようにとなっています。
4年間続いた第1次世界大戦が終了した大正7年、西暦でいきますと1918年になります。11月、当時の平野村、川岸村、湊村の人口約6万人の6割に当たる3万6,000人が感染をいたしました。男性49名、女性146名、計195名の死亡者が出たと報じられている記事が残ってございます。この女性146名は主に製糸工場の女工さんではないかというふうに想定されております。
当地の南側には、大正天皇が皇太子時代にお手植えされた松を含む日本庭園が広がっておりますが、景観が良い割には市民からなじみの薄いエリアと思われます。行政による公園改修と民間事業者による施設整備で、観光客等の滞在時間を延ばしたり、市民との交流の機会も多くなるのではないかと考えます。交流の丘ゾーンの早期着手はできないか伺います。
ただし、霞堤は、堤防へかかる水圧を減ずるための大昔からの方式ですから、またまたかつてのように戸倉の大正橋の上、白鳥園とかあの辺は、もともと千曲川の水を止めたくてしょうがない、それを大正の末期に堤防を作って封じ込めてあるということから無理があるわけですよね。これは絶対またあそこが破れれば、もう五加から埴生にかけて、屋代も全部水没することは、今までの経験から作り話でなくて、これ現実なんでね。
ここから佐良志奈神社前交差点--大正橋の西詰です。この間が本年1月に50キロメートルに引き上げられました。 こうした見直しは、全国的な施策として、警察庁からの通達に基づき、実勢速度が規制速度より高い路線において、交通事故の発生状況、道路構造、沿線状況等を勘案して実施されました。 県内では、87路線370キロ分が選定され、23路線で速度が引き上げられたと聞いております。
現在、教職員住宅としては使用されておりませんで、大正大学の学生さんが年に1回地域実習で宿泊をされているところでございますけれども、今回あわせて修繕することによりまして災害の影響、またそういったことによりまして住宅を失った方、また住宅を退去を余儀なくされた方が緊急的に入居できるような恰好の中で進めてまいりたいということで整備をするものでございます。おめくりいただきまして16ページでございます。
先人が守り遺した小諸城址懐古園、そして、大正15年に開園し、令和8年で100年を迎えようとしている小諸市動物園の再整備は、計画に沿って着実に実行します。特に喫緊で飼育環境の改善が必要な施設や来園者が快適に過ごせるための施設は、国の補助金や企業、個人からの幅広い支援を受けて優先的に整備を進めます。 5つ目は、安全・安心で暮らしやすいまち、生活基盤整備の分野であります。
物理学者であり随筆家の寺田寅彦は、大正12年の関東大震災後、天災は忘れた頃にやってくるとの明言を残され、以後、災害を語る際に引用されております。日本列島の自治体では、台風等の災害を教訓として捉え、英知を結集し、今後の防災活動に生かすため、備えあれば憂いなしの取組が行われております。
下高井農林高校の前身は、明治39年に開校した下高井郡乙種農林学校で大正13年に甲種昇格、昭和18年県立移管、昭和22年の学制改革での新制高校への昇格を求めて地域を挙げて県と県議会に大運動し、やっと昭和23年、現在の下高井農林高校となりました。114年という長い年月にわたって地域住民が築きあげてきた私たちの宝のような存在です。
野沢は、甲州街道と富岡街道が交わる位置にありまして、明治の終わりから大正にかけ繁栄し始めました。そして、昭和の初期に全盛期を迎えた佐久地方きっての商業地的な大きなまちでございます。大正4年には中込駅が出来まして、中込も新興のまちとして発展の一途をたどりました。成田山界隈、今のぴんころ地蔵がある一帯には、当時、多くの料理屋とか、料理屋さんに芸者さんを手配する検番、置屋などもあったようです。
大正2年には、千曲川流域の小諸以北の地域の関係団体による千曲川治水会の設立。このような団体においての積極的な行動に対して、県においても大正6年に知事を中心とした長野県治水会を設けるなど、治水対策に関する数々の取組経過が記されておりました。 その沿革誌の結びに、治水対策は息の長い仕事である。成し遂げなければ先人たちの血のにじむような努力が水泡に帰してしまうと警鐘を鳴らしております。
ややまだその抽象的な部分があって、しか説明できなくていけませんけれども、一つは地域に住んでいらっしゃる若者や女性に対して町の魅力や行事、ボランティアへ参加機会の情報を届けさせていただいて、町への関心とか関わりを創出するということが1点、また大正大学の学生などの協力を得まして都市部の住民と町出身者へ関心の創出をしていくということが1点、町内の集い、学ぶ場を設置をして若者の支援をすることによって、若者の
これは大正の3年、大正の御大典です。即位の御大典を奉祝して初めて行われました。明治の盛大を受けて、国民意識の高揚していた時代であったため、この御大典は津々浦々に及ぶ正典でありました。山寺もこの踊りを取り入れて奉祝をしたものでありますし、また国民皆様それぞれ御大典で、ちょうちん行列だとかまた奉祝踊りだとか、いろいろのことをされたと聞いております。
また、ちなみに私が調べたところ、河川整備を行う上で重要な計画高水流量は、大正6年、昭和24年、昭和37年、そして昭和49年に改定されています。犀川と合流する前の千曲市杭瀬下地籍の千曲川の計画高水流量はそれぞれ毎秒2,285トン、3,250トン、4,000トン、そして5,500トンで、小市地籍の犀川はそれぞれ2,285トン、3,250トン、3,500トン、4,000トンであります。
大正7年に現在の千曲川の堤防ができましてから、この地域におきまして大きな災害がなく、今回の台風19号で発生した危険氾濫水位を1.4メートル超える水位上昇、あるいは霞堤からの逆流は到底想定できるものではございませんでした。 しかしながら、被災された市民の皆様には、被災直後から市としまして住まいと暮らしに関する支援、あるいは各種相談窓口の開設、支援金の交付など、幅広い対応を全力で注いでまいりました。