伊那市議会 2014-09-11 09月11日-03号
南信濃の代用教員たちの教員試験の受験のための指導を頼まれたとも言われ、西洋式算術や理学大義を教えたと言われております。 幕末に、安政5年、37歳のころ、上伊那にあらわれ、下伊那も含め放浪しながら俳句の添削・指導、連句をつくったり、神社へ連句を奉納する選者としても、それを書きつけることなどで生活をしておりました。
南信濃の代用教員たちの教員試験の受験のための指導を頼まれたとも言われ、西洋式算術や理学大義を教えたと言われております。 幕末に、安政5年、37歳のころ、上伊那にあらわれ、下伊那も含め放浪しながら俳句の添削・指導、連句をつくったり、神社へ連句を奉納する選者としても、それを書きつけることなどで生活をしておりました。
当時ですから正規の教員は少なく、代用教員という先生が多かったわけですが、それにも係わらず教員の指導力向上、資質向上を図ったということが基であります。 そんな意味で、指導者の指導力向上、資質向上を目指して、今回のような魅力ある指導者養成事業交付金というものを、校長裁量という形で各校に配付したわけですが、やはり今の先生方、優秀な先生が多くて、こういった期待に応えるような計画の内容を上げてきております。
旧制松本高等学校の廃止とともに退官し、その4月からは新村小学校の代用教員として、後に教諭となり4年間勤務しています。しかし4年後に、愛知学院大学の設立とともに助教授に迎えられ、新村小学校を退職し、松本を去っております。そして平成11年1月、95歳の生涯を閉じております。蛭川先生を知っておられる方も多いことかと思われます。
私の父は代用教員上がりと言われた小学校の教員でしたが、この戦争中、満蒙開拓義勇団に子供たちを送り、自分もすぐ後から行くからという中で終戦になり、行かずに、本当に亡くなる直前に満州へ行って教え子に謝らなければならないということを言い続けながら亡くなりました。
小山小学校の前進である止善校で学び、わずか10歳で同校の代用教員を務めるほどの秀才であったことから、16歳にして上京、大学予備門、後の一高、それから東京帝国大学とすべて首席で進み、明治23年農商務省に入省。
そうした中でも向学心に燃える晋平の学業成績は優秀であり、苦労の末、高等小学校を卒業し、一時は代用教員として延徳小学校を初め、近隣の小学校に勤めておられましたが、既にそのころから音楽への思いは燃え上がるばかりで、先生としての音楽の授業は体全体で表現するような魅力あふれるものだと当時の人から伝えられております。
平谷村は人口1,000人以下の小さな村ですが、この村で大正から昭和4年まで16年間、代用教員として一切の冥利には目もくれず、ひたすら清貧に暮らし、純粋に子供の教育に尽くした林芳弥先生の足跡を顕彰しようと、村長・助役・収入役、教育委員以下、村の有力者が編集委員となり、刊行されたものであります。林先生は短歌も詠みました。
県職であろうとなかろうと、昔は代用教員というような形での先生もいたわけですね。ですから、ただ若くて学校出て、成績がよくて、試験に受かって資格があるというだけが先生じゃないような気がします。それは資格があるだけであって、本当の教育者というのは、もっと違う観点から子供を教育するべきことではなかろうかというふうに私は考えています。