東松島市議会 2007-12-10 12月10日-一般質問-02号
この網かけやった時点が昭和30年代後半から40年代、50年代の前半にかけて、あの地域の干拓事業をやったわけです。手樽から東名、宮戸にかけて。これでもって、大きく規制がっちりかけられたなというふうに私は思っているのです。農業、食糧増産ということで始まった事業が、将来自分たちで首締めるような網かけの対象になったというのが、これがやっぱりその当時の失態だったのではないかなと。
この網かけやった時点が昭和30年代後半から40年代、50年代の前半にかけて、あの地域の干拓事業をやったわけです。手樽から東名、宮戸にかけて。これでもって、大きく規制がっちりかけられたなというふうに私は思っているのです。農業、食糧増産ということで始まった事業が、将来自分たちで首締めるような網かけの対象になったというのが、これがやっぱりその当時の失態だったのではないかなと。
南部は旧品井沼の干拓地であり、標高2メートル前後の低平地が広い面積を占めております。低地帯は、過去幾度となく水害に見舞われており、昭和61年8月には約2,670ヘクタールが冠水し、被害総額は110億円にもなっております。このように、水害との闘いの歴史はまだ続いているのであります。そのため、昭和63年に、国交省が水害に強いまちづくり事業モデル地区に指定しております。
この丘陵地から流れ出る水は、一級河川吉田川や鶴田川を流れ、干拓で有名な品井沼耕土を潤し、カキやノリの名産地松島湾や仙台湾に注いでいることから、環境破壊はもとより、農水産物への直接的被害や風評被害も想定される。 このような状況の中、低レベル放射性廃棄物最終処分場の誘致や建設を看過することは、地域の未来に対する冒涜と言わざるを得ない。
遠く、藩政時代、1,000ヘクタールにも及ぶ蕪栗沼は、伊達藩直轄領ということもあって、新田開発と言われる大干拓事業が進められ、明治の干拓、昭和の干拓などなど、徐々に沼の面積が狭まり、現在は150ヘクタールの沼となりました。
及川甚三郎など83人は、1906年、水安丸で荻浜港から新天地を求めてカナダに向け出航し、帰国後宮城県に対して広渕沼の干拓を提案した人であり、いずれの人々も石巻から世界に雄飛し、海に扉を開いた人たちであります。
これ、赤井堀、いわゆる干拓堀からずっと西側に向かってでございますが、まず南赤井の第2公園、有明に行くところの部分でありますが、その丁字路でございます。ご案内のとおりとまれの標識、いわゆる法定の標識等はございません。
それと、これ赤井の部分の干拓堀の部分の土地改良区の問題もありますけれども、堰の内東54号線、いわゆる干拓堀の堤防の上です。大森町長のとき整備やりますと、あるいは通学路になっているのだからというふうなお話もございましたが、これも全然先が見えてこないというふうな部分で、恐らくもっともっとあるのではないかと。ちなみに、今お話ししましたのは、旧矢本の分だけでございます。
当然、既存の処分場が満杯になることが見込まれていたので、名古屋港西一区藤前干拓というところを新たな処分場にする計画を立てましたが、多方面からの反対、加えて焼却場が老朽化のため操業停止に追い込まれ断念した経緯によるものでした。
品井沼干拓について、賛成派と反対派が対峙し、工事中止のやむなきに直面した折、県議会議員から衆議院議員として二期、その後、国際化時代を先見し、外国に渡っていた三之助のもとに一通の電報。おのれの置かれた立場と使命を自覚したのか帰国。
長良川河口堰や諌早湾干拓事業、各地のダムや港湾整備問題等はその典型であります。 しかし、国の財政赤字の膨張の中で、ことし六月、財政構造改革会議は歳出削減目標を掲げ、公共事業の対前年度比七%、六千三百億円の削減を決め、九八年度予算の概算要求でも主な歳出項目ごとに上限を設定する、いわゆるキャップ制が採用されました。
ここは、例えば中海の干拓のような事業については、30年も40年も、下手をすれば50年ぐらいかかるわけですね。ところが、干拓は今や必要ない時代になってきて補助事業を中断いたしますと、それまでもらった補助金は全部返さなければいけないということに現在の法律ではなっておりますので、各地方公共団体は必要がないと思ってもやめるわけにいかないわけですね。やめると返さなければいけないと。