大崎市議会 2022-09-30 09月30日-05号
ですから、小さい頃からすごく水害ということについては、非常に敏感でありまして、私が生まれる2年前、このころはかなり台風が頻繁に日本に上陸しまして、昭和22年にはカスリーン台風、そして23年にアイオン台風、そして24年にはキティ台風、この当時は台風何号というのではなくて、台風に名前をつけていたようでございますが、私が生まれる2年前には、そのアイオン台風が私のうちを襲いまして、床上浸水の被害があったというようなお
ですから、小さい頃からすごく水害ということについては、非常に敏感でありまして、私が生まれる2年前、このころはかなり台風が頻繁に日本に上陸しまして、昭和22年にはカスリーン台風、そして23年にアイオン台風、そして24年にはキティ台風、この当時は台風何号というのではなくて、台風に名前をつけていたようでございますが、私が生まれる2年前には、そのアイオン台風が私のうちを襲いまして、床上浸水の被害があったというようなお
終戦後、本市には、昭和二十二年カスリン台風、続く二十三年にはアイオン台風、さらに昭和二十五年には台風十一号が襲来、その被害の合計は、死者、行方不明合わせて十一名、家屋の浸水、流出は一万戸以上で、鉄道、農作物の被害も大きなものであったと記録にあります。
関東・東北豪雨による七北田川上流域の広範な被害は、昭和二十三年九月に襲来したアイオン台風による被害に匹敵するという話もよく耳にいたします。奥山市長は、このたびの災害に当たって、災害対策本部に張りつき、陣頭指揮をとられたと言われております。 ところで、被害の現地調査はされたのでしょうか。百聞は一見にしかずと申します。
108: ◯庄司俊充委員 二度ほど修理をしていただいておりますけれども、このたびの関東・東北豪雨によりまして、本市の泉ヶ岳に観測史上初めてとなります433ミリ、たしかアイオン台風、五、六十年前にあったのか、353ミリとかなんとかと聞いていますけれども、それよりも100ミリ近い数字が示されました。
この雨量は、昭和二十三年九月に襲来したアイオン台風の三百五十一ミリを上回る大雨となりました。この豪雨により、七北田川の上流域で氾濫や浸水により多大な被害が生じました。 被害のあったインフラや公共施設については、行政が復旧に全力を傾けなければなりません。また、個人の財産であっても、救済制度があるものについては円滑な運用が図られるよう、行政が積極的に支援をする必要があります。
また、翌年の昭和23年にも、これはアイオン台風が来た。このときの古川市史を見ますと、江合川、鳴瀬川、北上川、いずれも氾濫をして大水害になったというのが、実は古川市史の自然災害というところに載っております。 私どもの地域でも、自治防災を含めてですが、防災訓練を実施しております。
仙台は、実は、宮城沖地震、そして今回の3・11の大震災、こういうもの、あとは昔はアイオン台風とか、そういうものぐらいでというと、もっといっぱいあると思いますけれども、歴史に残って、また、市民の中に、いささか印象で残っているというのは、ここで、アイオン台風とか何かと言っても、わからない人が結構いるかもしれませんけれども、広瀬川が氾濫をしたり、仲の瀬橋が流されたりとか、そういうようなことがあったんですけれども
昭和22年のカスリン台風で22名が亡くなり、昭和23年9月のアイオン台風では42名のとうとい命が犠牲になりました。この甚大な被害を受け、昭和24年洪水時の治水計画が変更され、社会情勢に対応しながら北上川の改修が進められてまいりました。
そういうふうに思いながらあの一般質問しているわけなのですけれども、市長も答弁にあるとおり積極的に検討するということですので、これ以上聞くつもりはないのですけれども、ただ被災を受けた自治体として市長もなかなか言いにくいのではないのかなと思っていますけれども、ただ大崎市、美里町も吉田川と鳴瀬川ですか、これのはんらん、特に鹿島台なんかはアイオン台風なんか、当時そのころでしょうね、私五、六歳のころかな、すごい
大雨が降って、堤防が切れないけれども50センチ未満だというときと、昭和23年のアイオン台風のときのように堤防が決壊して1カ月半も水が引かなかったとき、同じ50センチ未満ということがありますか。こんなことはないでしょう、どうなのですか。 ○議長(三神祐司君) 横山危機管理監。 ◎総務部参事兼危機管理監(横山静雄君) お答えを申し上げます。
さらに昭和23年 来年定年を迎えられる方々が生まれた年でございます 9月15日から17日にかけ、コースも同様のアイオン台風が追い打ちをかけるように来襲し、カスリンより大型の台風により42名のとうとい命が奪われてしまったのであります。この甚大な被害を受け、昭和24年、洪水時の治水計画が変更され、社会情勢等に対応しながら新北上川の改修等を進められてまいりました。
その後、昭和22年9月、カスリン台風、昭和23年9月、アイオン台風と立て続けて宮城県、そして鹿島台は甚大な被害をこうむったのであります。61年8.5豪雨は、昭和61年8月5日、茨城県沖で台風10号から変わった温帯低気圧が太平洋沿岸を北上し、宮城県平野部を中心に豪雨をもたらしたのであります。
さて、本題の旧北上川分流施設は、昭和22年、23年のカスリン台風、アイオン台風での大水害や昭和61年のあの8.5豪雨を受けて、新北上川と旧北上川の分岐点、旧北上川入り口、登米市・柳津に平成8年着工から平成19年末までの12カ年の国営事業として、120億円の巨費を投じて完成し、私たちは安堵し喜んだところであります。 今は迫川、旧迫川及び江合川の各流域の水害はなくなるものと思っておりました。
2つの河川は大正10年から国の直轄工事として進められ、カスリン・アイオン台風の後で見直され、新江合川が掘削されました。江合川の洪水時には、毎秒1,800トンのうち800トンを新江合川を通して鳴瀬川に流す計画になっています。しかし、鳴瀬川の河道掘削がまだ不十分なために、江合川の洪水の心配や鳴瀬川の治水安全度もまだ10分の1であります。
それから、もう一つ擁壁タイプといいますか、カスリン台風、あの辺のアイオン台風とか、昭和23年、昭和24年に起きた当時の増水しまして浸水した予定を想定しますと、今の現況から70センチメートルから80センチメートルの高さの擁壁タイプに考えているようでございます。
昭和22年のカスリン、昭和23年のアイオン台風で甚大な被害を受けてからことしで60年を迎えます。壊滅的な被害を重く見た国土交通省は、北上川の大がかりな改修計画を進めました。上流域ではダム及び遊水地等が建設され、山地部からの流出や下流域への洪水流量を抑制し、また下流域においては堤防の決壊や浸水を防ぐため、堤防の改修、新設、拡張及び掘削など、洪水防御の工事が次々に行われ、強化してきました。
さて、ことしは戦後の大水害をもたらしたカスリン・アイオン台風から60年目となります。カスリン台風は昭和22年9月、350ミリの降雨。翌23年9月のアイオン台風は3日間連続の大雨であり、9月17日に江合川左岸、遠田橋下でも約40メートル堤防が決壊し、私どもの地域でも甚大な被害を受けたと記録がございます。
中でも、昭和22年のカスリン台風、昭和23年のアイオン台風、昭和24年のキティ台風による被害は甚大なものであるというふうに記録に残っているところでございます。 このようなたび重なる大被害に、人々は安心して生活できるようにとの願いから「国破れて山河あり」の思いから、治水対策、治山工事をしてほしいと国や県に強く働きかけたのであります。
昭和二十三年九月、アイオン台風の被害は、名取橋の下流で家屋の流出、浸水が出ており、このときの雨量は三百五十一ミリ。昭和二十五年八月、台風十一号崩れの熱帯性低気圧が北上により、雨量が二百三十三ミリでしたが、被害は死者六人、行方不明者四人、家屋の流出・崩壊三百十三戸、浸水家屋四千五百四十二戸。昭和三十三年、熱帯性低気圧の北上により笊川沿川が浸水。
また、一時間当たりの最大降雨量は、昭和二十三年九月十六日のアイオン台風の九十四・三ミリであります。名取市の大水害では、仙台航空測候所で、一時間降雨量が百三十四ミリを記録していますが、連続降雨量は雨量計が水をかぶりはかられておりません。 太陽の国の連続降雨量は、実に八・五水害の約三倍の降雨量なのです。八・五水害の三倍の雨が仙台に降ったならばと考えただけでも、恐ろしい結果になると思われます。