それでは、棚村
教授より第1
号請願に
賛成の立場から御意見を伺いたいと思います。
先生、よろしくお願いいたします。
6:
◯棚村政行参考人 本日はこういう機会を与えていただきまして、本当にありがとうございます。私自身、
民法を研究しておりまして、
委員方の審査に何とかお役に立てるような形で専門的な立場からお話をさせていただきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
まず、お渡ししました資料を簡単に説明いたしますけれども、実は右側のB4判のところは、
皆さんの手にも入りやすい、主婦の
方たちを対象にしました「暮しの手帖」という雑誌に、2月・3月号に私がたまたま
同姓や
別姓ということで連載したんですけれども、世界の動きについても表を載せて整理したものをお配りしました。ですから、もし諸外国では一体どうなんだろうかということがあれば、また改めていろいろな形で御質問いただければ簡単にお答えしたいと思っております。
左側の方のレジュメに沿ってお話をさせていただきたいと思います。
まず、1番目の、氏とか姓の法的な性格とか、
夫婦同姓あるいは同氏の原則の歴史的な変遷ということで、簡単にコメントさせていただきたいと思います。
今日私
たちは、氏あるいは姓、苗字、
名字と四つぐらいをあわせて使っているわけです。現在では、氏といっても姓といっても、あるいは
名字も苗字もほとんど同じような
意味で使われています。ところが、歴史的に見ますと、その
意味は随分異なってきたわけです。まず、もともと氏というのは、祖先や
血統を同じくする集団の
名称であったわけです。古代では、さらに祭祀だとか、つまり祖先を祭るということと、それから
居住地やあるいは官職、ついている職分や地位というのようなもので結合された
政治集団の
名称だったわけです。かなり大きな
政治集団の
名称だったわけです。ところが、中世になりますと、
名前の字という形でもって
名字と書かれるようになってまいります。これは、
血族集団の所領を中心とした、分けられた領地を中心として
名字と書かれてくるわけですけれども、
江戸時代になりますと草冠の苗字というのが一般的になりました。これは、血筋や種をあらわすということで、苗という字が使われたわけであります。古い時代は、氏というのは
政治集団の
名称であり、それから姓というのは「かばね」という呼び方をしたわけですけれども、これはむしろ天皇から賜る称号であったわけです。ですから、こういうような形で
血統や地位や身分というものをあらわすのが、氏のもともとの性格や役割だったわけです。それがだんだんと変化をしてくるわけです。
ただ、後で申しますけれども、では
個人の
呼び名とかほかの人と識別するような役割は一切なかったかというと、そんなことはないんです。常に集団に焦点を当てたか、それとも
個人が一体何者かというときに、たまたまそういうものを組み合わせて本人を確認するという役割は、古い時代からやっぱりあったわけです。だから、
名字を持っていない、つまり
江戸時代においてはほとんどの
人たちが
名字を持っていなくて、
明治の1年から3年までの間では、
日本国民の大体96%は
名字を持っていなかったんです。
名字を持っていた人は4%ぐらいであったわけです。
名字を公称することは許されなかったんですけれども、それは家名だとか何々屋の何べえとかという屋号で簡単に識別ができた。それからもう一つは、移動の自由が認められていませんから、そんなに人が頻繁にいろいろなところに移るということもないわけです。ですから、非常に閉鎖的な移動の少ない
社会では、別に
名字を持つ必要もなかった。ですから、やっぱりそういう時代的な役割や背景があります。
ところが、
明治の3年になって、名乗っていいよと
名字帯刀が許されるわけです。そうしましたら、いろいろな
エピソードがあるんですけれども、今
名字にこだわっている人は
血統だとか血筋だとか家をあらわすということをおっしゃっているわけですけれども、戸籍をつくらなくてはいけないからどうしても
名字を名乗れというのが
明治8年なんです。そのときにどうやって名乗ったかというと、私も調べてみたらいろいろな
エピソードがありまして、一体何を名乗ったらいいかわからないので村でみんなで
イワシだとかハマチだとか魚の
名前をつけたとか、そういうところも現実にあるわけです。また、お寺の住職に頼んで何とかつけてほしいということを言いましたので、住職がお寺から見て東は東野だ、北にあるのは北野だと、それから南は南野、そういうことで、ある地域は北野、南野、東野というような
東西南北に野がついている
名字が多いわけです。ですから、そういう
意味では、かつての
血統だとか血筋だとか、あるいは官職だとかという身分をあらわしたところから、
明治の
民法あるいは
戸籍制度が整備される中では、実はその性格はもう本当に変わってきているわけなんです。だから、そういう
意味では、
名字についていうと、権力でもって与えるとか、あるいは
身分特権を示すとか、あるいは
血統や由来を示すとか、あるいは公のお
墨つきだとかというような性格はどんどん少なくなっていったのが実情なんです。
これに対して、
明治31年の
民法ができたときには、これはもう
家制度あるいは
家督相続制度という当時の
武士階級の
家族倫理や
儒教倫理というものが
法制度の中に取り入れられたわけです。いろいろな問題が起こったわけですけれども、つまり、これは家の
名称になったわけです。ですから、
夫婦は同じ氏を名乗るといっても、これは家の
名称を家の一員になった妻が当然に名乗るというような形になったわけです。ですから、よく
明治以前から
夫婦は
同姓だったんだと、だからその慣行がそのまま
民法で追認されたんだということをおっしゃるわけですけれども、きちんと調べるとよくわかると思うんですけれども、やはり有力な家では女は非常に男よりも下であると、しかも腹の出所を示すためには、
女性はあくまでも嫁いだ身であって別の氏なんだと、
血統をあらわさなければいけないんだと、そういう家や
士族階級では所生の氏という旧姓を名乗らされたわけです。
明治の当時でもやっぱりそういうところはあったわけで、そういう
意味では
一般庶民は逆に家もない、継ぐ財産もない、
血統も別にあらわす必要はない、だとすれば、
夫婦が協力して平等に生活をするんだから、では夫の氏にしましょうかということになるわけで、それを残念ながら
法律というのは非常にむげなものでありまして、
一般庶民の慣行だとか何とかということではなくて、国が家ということをしっかりさせて、そして財産をきちんと下に継がせなければいけないという政策のもとで、家の
名称を全部が名乗るという形にしたわけです。
それともう一つ落としてはならないのは、
キリスト教の
夫婦一体感というものが当時非常に影響しました。これはなぜかというと、不平等な条約を
改正しなければいけない、そのためには
列強諸国に追いつかなければいけない、そのときに、
列強諸国から条件として出されたのは
法律を整備しなさいということで、
明治の政府になってから急いで外国のものを翻訳して、とにかくやらなければいけない、日本の事情もある程度考えなければいけないということで、やっぱりかなり
キリスト教の影響があってそういうことも盛られた。ですから、そういう
意味では、現代の
法律を考えるときにもそのことは少し
参考にして、やっぱり多様なものは依然としてあった、それを非常に権力的に整理をしているんだというのが一応
問題点としてあるんだと思います。
ですから、
個人の
呼び名なのか、それとも家の
名称なのかというときに、もう
法律が
改正されましたから、家の
名称ではなくなったんです。そうすると、
ファミリーネームだということを今おっしゃるんです。そうすると、一緒に住んでいる人でなくとも氏や姓が同じ場合が起こってくるんです。つまり、今言ったように、
共同生活をしていなくとも、例えば
夫婦が別々に
別居生活をしていても、姓は同じということは起こってくるわけです。それから、
共同生活をしていても姓は別だということも起こってくるわけです。そういうことを考えますと、やっぱり氏の性格とか
機能ということを一体どう考えるかということを、やはり現在でもきちんと押さえた方がいいと思うんです。これは私自身が考えるわけですけれども、やはり
名前と一つになって人の識別的な
機能、一体この人は何者なのかということを確認するための
機能というのは昔からあったんだと。そして、大昔からあった
血統だとか身分だとか地位だとか、そういうものをあらわした
機能というのはだんだん弱まってきている。もちろん、ないとは言いませんけれども、弱まってきているということを一つ押さえておきたいと思うんです。ですから、
夫婦の
一体性のシンボルとして
同姓をとるべきなんだという
考え方と、それからやっぱり
個人の
名前とか
個人がどう
社会から表示され、識別されるのかということに重点を置くと、
別姓を認めてもいいのではないかということになると思うんです。ですから、そのあたりを
委員の皆様もまず第1点として確認していただきたい。
それから、
同姓の
問題点なんですけれども、いろいろな
問題点の指摘が既にあるかと思います。実は一番問題なのは、端的に申し上げますけれども、今は結婚するときに夫か妻の氏かどちらかに決めなくてはいけないんです。そして、結婚している間は同じ姓をとにかく名乗り続けないといけないというところが実は問題なんです。
同姓にするのがよくないというのではないんです。とにかく
同姓しか選択の余地がないというところが、やっぱり一番問題だろうと思うんです。つまり、必ずどちらか一方がとにかく慣れた姓を捨てなければならない。卑近な例で言いますけれども、私のゼミの卒業生は500人おります。
女性が
家族法をやるというのは非常に多いんですけれども、そうしますと、電話がかかってきたり会ったときに「何々です」と言われたときに、正直言いまして結婚をしていますと旧姓を言ってもらわないとわからないんです。これは、姓だとか
名前が持っている
個人の
識別機能をきちんとするのは、
社会の中でそれが使われて、それによって親しまれてきたかどうかというのが非常に重要なことだと思うんです。ですから、そういう
意味で、今は結婚で改姓するのが選択できるとはいっても、実際には98%は
女性が改姓しています。そうすると、やはり今は若いカップルの大体67%がパートでも常勤でも仕事を持っています。これは厚生省の
人口動態統計の
社会経済面の調査で明らかですけれども、そうしますと、改姓をすることによって名札から名刺からいろいろなものを変えなければいけない。特に専門的な仕事をされていますと、
弁護士とか
司法書士とか───実は
弁理士だけはいい
制度ができたんですけれども、いろいろな公的な仕事についていたり、公務員の方はなかなか旧姓の使用が認められていません。それで、それについてはもう耐えざるを得ない。そうすると、続けてきた仕事、それから一々人に説明をしなければならないとか、それがまた定着するまでには時間がかかってしまうとか、やっぱりいろいろな不都合があるわけです。これをよく
個人の不都合だとか不利益なんかを言うのはエゴだと言うんですけれども、先ほどの話から続けて言うと、
自分自身がやっぱり
自分の
名前に対して誇りを持ったり、
自分を大切にするということを何かエゴだとかと割り切ってしまっていいのかという気持ちが非常にあります。
家庭裁判所でいろいろ
名前の変更とかのときも、例えば周りから見れば大笑いするような楽しい
名前でも本人にとっては非常に苦痛であったり、
名前というのは
自分が
自分らしく生きていくための基礎としてとても大事なものだと僕は思うんです。ですから、さっき言った
イワシという
名前でも、
自分が誇りを持ってそれで生きていく人にとってはすごくいい
名前だろうし、逆に言うと、あんな魚の
名前でもって本当につらいということを本当に一蹴できるんだろうか。ですから、そうすると少数だから、数が少ないからというのでそれを切ってしまっていいのか。むしろ、最後でもお話ししていきたいのは、やはり21世紀に向かって私
たちが目指す
社会というのは、一人一人がすごく大事にされて、少数だからといってそれが切り捨てられないで、そういう
考え方が尊重されて、異なるものに対しても非常に優しい
社会が、ある
意味では
グローバル化あるいはボーダーレス化してくるこれからの
社会を支えるような
考え方や哲学になっていかないといけないのではないかと思います。
3番目の方をお話ししますけれども、姓をめぐる意識も大分変わってきている。総理府がやりました
世論調査あるいは
新聞社のやった
世論調査、聞き方で若干違うところがありますけれども、一番新しいものとしては1996年、昨年の11月に公表された
世論調査であると思います。これもとり方がいろいろあると思うんです。
現行法を改める必要がないとするのが39.8%、法を改めても構わないというのが32.5%、そして通称として使えるような
改正をすべきだというのが22.5%となっています。いろいろな前のものと比べると、やはり
反対派が減っている、
反対の立場の人が減っていることは間違いありません。ただ、通称として使えるのを
反対の方に入れるか、それとも
賛成の方に入れるかで
読み方が随分違ってくるんです。ただ、こんなことよりも私自身が非常に注目をしているのは、20代の男性の68%が
賛成です。20代の
女性は79.7%が
賛成。30代の男性の75%、30代の
女性の83.4%が
賛成なんです。
反対をしている世代というのは、一番最高が60代の男性の71.3%、60代の
女性の59%、こういうような形で
世代間格差が激しいんです。ですから、そういう
意味では、年配の人の意見を尊重するなということは決して申しません。ただ、21世紀のこれからの
法律というのは、これからの
人たちが結婚するかしないかというときに中心になって適用を受けるんです。そういう
意味では、私もいろいろな
法律の
改正にかかわったことがあるんですけれども、日本の場合にはなかなか
法律の
改正は行われなくて、特に
民法という
基本法の場合には、50年とか30年とかはまず
改正されないだろう。そういうことになりますと、やはり若い
人たちの意見を少し尊重するような形で、将来にまたがる
法律の
改正を議論するということが非常に大事なことだと思っているわけであります。
それから、
民法改正を考える視点ということで用意しましたのは、非常に単純なことなんです。私は
法律の
専門家ですが、
法律が新しくできたり、あるいは既存の
法律を
改正する場合には、どういう目的と理由で行うのかというのは非常に重要です。ある理念を実現をしようとするのか、それとも現状がもう既にあるので、それを追認するような
法律のつくり方や
改正なのか、それともその原則をちょっと補正していくのか、それとも運用がどうもはっきりしていないからそれを明確にするのか、それとも全く外国の例を
参考にして
制度を新設するのか、いろいろなタイプがあるわけです。ある理念を実現しようとか、ある
制度を全く新設しようというのは、もうかんかんがくがく非常に議論があるわけです。これに対して、現状を追認したり修正をする程度のものであれば、
余り議論がない。今回の
別姓の問題というのは一体どこに属するかということなんですけれども、やっぱりある理念みたいなものを実現するという部分があります。ただ、それだけではありませんで、全く新しい
制度を新設するわけではなくて、もう一つは事実の方がむしろ
家族の変化の中で先行してしまっている部分がかなりあるわけです。ですから、そういう
意味で修正、補正型のものがあります。これも
民法でどこの部分が問題になっているかでいろいろあるわけですけれども、ただ
別姓の問題も、実は単に理念を実現するという革命的なものというよりは、さっき言った意識の変化や世論の調査や実態を見ても、働く人がこんなにふえている、それからそれぞれ個別に
社会的、経済的な活動を行う
女性もふえている、そういうような時代の中での
家族の変化というものをやはりきちんと受けとめて、
法制度、
民法の枠の中にそこからはみ出しそうな人もすべて受けとめていこうという
考え方がかなりあります。
大分時間が超過してきましたので、
世論調査の結果とか
読み方については少しはしょりまして、6、7、8と続けてお話をしていきたいと思います。
結局、私
たち民法の学者でこれに異を唱える
人たちというのはほとんどおりません。朝日新聞ほかにも3月の末に出ましたけれども、早く
民法を
改正してほしいと、2カ月ぐらいの間に
法律学者三百数十名が集まって署名を行いました。結局ここで今問題になって、私
たちが気をつけなくてはいけないのは、最近の議論はお互いを初めから黒く書いておいて、その黒さを批判しているような気がしないでもないんです。つまり、
別姓賛成派に対しては、
個人主義、
利己主義、エゴイズム、
家族解体、離婚、こういうような形の図式で議論がされる。逆に、
反対をする立場は、
家族主義、
家制度の温存、
個人の抑圧、
時代錯誤。だけれども、これは双方が双方の黒さを批判し合ってもいけないわけで、さっき言いましたように、
法律というのはいろいろな人に適用がありますから、いろいろな意見を聞いた上でどこに線を引くかということを決めなければいけないと思います。そのときに、そういう立場に立って私
たちが考えたときに、今の
法律の一番の
問題点というのは、とにかく選べない、画一的に同じ姓でなければならない。
皆さんにお配りした世界の動向を見ましても、今
同姓を法的に強制している国はインドとタイと日本だけであります。ドイツも長らくそういう立場をとってきたんですけれども、ここにも書きましたように、1993年に
法律が
改正をされました。そして、現在では選択の余地を認めるというふうになっているんです。やはり、
画一強制なのか選択を認めるのか、この争いであるということをぜひ忘れないでいただきたいんです。
画一強制でいきますと、とにかく多数をとっているんだから、
自分の信じるところに他人も従うべきだと。
福島瑞穂弁護士がよく言うんですけれども、
メロンパンを食べたい人がいて、
あんパンを食べたい人がいて、
カレーパンを食べたい人がいるとすると、
カレーパンが絶対おいしいからとにかくみんなが
カレーパンを食べるべきだと、多数の人が
カレーパンを食べるんだから、あなたは
メロンパンを食べてはいけないと、これだけは
法律はやっぱりやってはいけないのではないかというのが私の基本にある
考え方なんです。
最後に、まとまりませんけれども私の考えていることをお話ししますと、とにかく
反対論の
方たちは、極端な
個人主義になってしまう、
別姓を認めると
一体感がなくなる、
家族崩壊、
ばらばらになるんだと、それから老人の介護や
家族の扶養なんていうことは全く度外視されてしまうんだということを一生懸命言うんです。ただ、ここにも書きましたけれども、
夫婦別姓の
選択制を導入すると
家族が
ばらばらになる、崩壊が進むと言いますが、今
夫婦同姓あるいは
親子同姓を強制をしている法のもとでも、例えば
児童虐待は2,700件以上あります。それから、離婚も残念ながら毎年ふえて20万6000件、2分38秒に1組が離婚する。こういうものは一向に減る気配がないんです。これは、
法律がどうこうという問題ではなくて、むしろ急激な変化の中で
機能を弱めている家庭や
家族という大切な集団の
機能をできるだけ支えるように法や政治や経済や
社会がどう支援していくかということを考えない限り、一生懸命やらない限り、法を一ついじったからといって、減るとか減らないという問題ではないのではないかと思うんです。
それからもう一つは、
委員の皆様も御存じだと思いますけれども、何か
同姓の原則をとったり守っていれば、
社会の
夫婦や親子の秩序、それから
家族の秩序が守られると思っているようですけれども、残念ながら
法律はそこまでのことはできないんです。やっぱり
夫婦や親子という基本的な
家族の
人間関係は、
法律があれこれ言えるとか、あるいは愛情や信頼をつくり出すような
機能まではとてもないわけです。ですから、例えばお隣の韓国とか中国、台湾というのを見てみますと、伝統的な
夫婦別姓ということを韓国は今でも守っているわけですけれども、では別々の姓を名乗っていると親子や
夫婦の愛情や
結びつきというのが薄い国なのかどうか、僕は何回も行っていますけれども、決して薄いとは思えないんです。礼儀正しいです。だとすると、道徳とか倫理の退廃を本当に心配するのなら、姓とか氏とかという戸籍の記載ということだけではなくて、家庭の中で愛情とか信頼とかがどうやって豊かになるのか、教育のあり方とか、こういうことを本当は問題にする必要があると思うんです。
それから、日本の
高齢化ですけれども、2025年には
寝たきり老人、それから
ぼけ老人というのは失礼な話ですけれども、551万人、約3倍近くなると言われているんです。そして、今平均の
世帯人員は2.83人、それから
女性が子供を産む数は1.43人、終戦直後だったら5人ぐらい子供がいたのがもうそうなってしまっている。そうなると一体どういうことが起こるかというと、
家族の
介護力とか
家族が面倒を見る力がどんどん低下していってしまう。現在でも老人の面倒を見ているのは実は老人なんです。しかも
女性なんです。85%以上は面倒を見ているのは
女性なんです。そうすると、もう限界に達するだろうと思うんです。
反対する
人たちは、
夫婦別姓になると家庭崩壊になる、そして親も大事にしなくなると言うんですけれども、それどころではなくて、もう目前に迫っているのは公的、
社会的なサービスの充実なくして、いたずらに
家族やあるいは嫁さんとか
女性の負担を強化することを唱えるだけでは何の問題の解決にもならないんです。そして、私自身考えていきますのは、これから国際化も進んで、今女子差別撤廃条約とか国連の人権B規約とか、日本は国と国同士の国際協調ということを非常に強調して約束を結んでいます。女子差別撤廃条約にも、きちんと
夫婦それぞれが姓名に対する同一の権利を持つことを保障するんだという規定がありまして、国連の
女性差別撤廃
委員会から日本は勧告を受けているんです。ですから、そういう
意味では、国際
社会に対する責務という
意味でも、法務省も法の
改正をしなければいけないということを急いだわけです。
さっき言いましたことをまとめますと、国際結婚もふえてきました、それから地域の移動も激しくなって、
個人か
家族か、それから
一体性なのか自立なのかという選択肢は僕は誤っていると思うんです。つまり、
家族内の一人一人が大事にされ、尊重される、そして
家族としてのまとまりや連帯を大切にするということを目指すのが、やっぱり21世紀の健全な
社会だと思うんです。ただ数でもって、多数決でもってやるのが民主主義ではなくて、民主主義というのは少数の
人たちの意見や異なる
人たちの意見を尊重しながら何かを進めていく、話し合って進めていくというところにあるんだと思います。
舌足らずで後半いろいろ早口になってしまいましたので、後でいろいろ御質問でもって補っていきたいと思いますので、きょうのお話はとりあえずこれで終わりにさせていただきます。どうもありがとうございました。
7: ◯副
委員長 どうもありがとうございました。
それでは、皆様から何か御質問はありませんでしょうか。
8: ◯笠原哲
委員 夫婦の問題については説明でよくわかりました。
この資料の中で子供の姓についてほとんど触れられていませんでしたので、この辺がどのようになっているのかを教えていただきたいということが1点です。
それから、たしか最近の
世論調査で、結婚しない
女性というか、しない男性も含めて15%近くになっているんだと思いますけれども、一夫一婦制というものを中心にしてできている
社会で、
夫婦にならないで同棲状態で、非婚姻の状態で子供をなすという場合もあるのかと思います。その辺の
民法の相続権の問題もたまたまありますけれども、その辺の整備を私はむしろ急いだ方がいいのかなという感じがしているんですけれども、いかがでしょうか。
9:
◯棚村政行参考人 第1点の子供の姓については、実は子供の姓というのが一番難しいんです。一応、昨年2月の
改正要綱案という形で出ているのは、子供の姓については、
同姓を選んだ
夫婦は問題ありませんけれども、
別姓の
夫婦の場合には婚姻届のときにどちらの姓を名乗るかということで届け出をさせる、統一をさせるという扱いになっています。これに
反対をする立場の
人たちは、やっぱり子供の姓というのは出生したときにそれぞれに決めて、
個人の
名前なんだから兄弟姉妹が違う姓を名乗ってもいいではないかということを言うわけです。ところが、
世論調査の結果を見ても、どうも70%、80%が兄弟の姓、子供の姓はやっぱり統一すべきだということでもって、それを取り入れました。というのは、僕も徹底する
考え方は悪いとは思わないんですけれども、子供の場合には結局やっぱり
自分で選べないわけです。大人の場合には選べるわけですけれども、親がいずれにしてもそれをつけてしまう、あるいは親の姓を名乗るという形で選べないわけです。そうなると、やっぱり違っていると、今の日本の状況ではいじめというのは怖いもので、ほかと違っているからいじめられてしまうわけです。ですから、そういう
意味では、子供のことも考えるとやっぱり兄弟は統一させようという意見が占めて、そしてそういう形になりました。
くじを引けばいいのではないかという議論がドイツであったんですけれども、それだと逆になかなか決まらないと。子どもの権利条約の7条の1項で、出生と同時に子供は国籍も持ち、
自分の氏名も持つんだという権利が保障されていまして、やっぱり子供のことを考えると、いじめの問題もありますし、統一をしていこうということです。ですから、そういう
意味では、子供の氏というのは、実は
委員おっしゃったように一番議論をしたところですし、考えなければいけないことなんです。
それから、事実婚とか同棲という問題と
法律上の
夫婦の問題ですけれども、一つは、婚姻届を出せばどちらかの姓を名乗らなければいけないから、事実婚や届け出を出さないで事実上は
夫婦だというのはかなりあるわけです。そういう
人たちも、もし
別姓を認めていただければかなり結婚
制度という安定した安定というか、本来の関係の中に入っていただけると。もちろん、それでも
自分たちはそういうものを選択しないという
人たちに対しては、それはある
意味で昔と違いまして──昔は親の
反対があるから結婚できないという
人たちは本当にかわいそうだったと僕は思うんです。ところが、今の
人たちは
自分の意思で選択をしてやっていますから、僕はそんなに大人は過保護にする必要はないと思うんです。
自分たちでやっていることなんだから、
自分たちで合意をするなり契約するなりしてやればいいので、結婚と同じような保護をよこせという必要はないと思うんです。そういう
意味では、僕はやっぱり事実上の結婚と
法律上の結婚というのがあれば、
法律上の結婚を大切にしないといけないと思うんです。ただし、事実上の結婚の中でも、いろいろな事情があって子供ができたり、いろいろなやむを得ない事情でもって事実状態にとどまっている
人たちは、裁判所がそうですけれども、今までの判例とかで結婚に準じてできるだけ厚く保護するということはある。
自分たちで勝手に届け出を出せるのに出さないとか、事実上の結婚にとどまっている
人たちを、あえて結婚という枠の中で僕は保護する必要はないと思っています。そのあたりでもう昔と違って、
家制度があった時代は、長男と長女同士だから結婚できないとかかわいそうなのがありましたので保護しました。そういう
人たちは、基本的には相続権も認められません。ただし、2人で
共同生活をしていたことでのいろいろな責任とか権利なんかは認められる場合もあります。
ただ、やっぱり
法律上の結婚を大切にしないと日本は滅びると
委員の
皆さんも言われるかもしれませんけれども、僕も
法律上の結婚は大切にしなければいけないと思います。あくまでも結婚をしないカップルは、そのカップルの
人たちが
夫婦以上の実態を持っていて、私はこんなにきちんとやっているということを証明してくれれば保護される場合がありますけれども、それは
法律上の
夫婦とは違いまして、
法律上の
夫婦は登録していれば、中身がある、ないというのは見なくて、一律にいろいろな権利が与えられます、扶養の控除もみんなそうですけれども。ところが、事実上のカップルに関しては、一々中身を証明しなければ証明しても個々に保護が与えられる、決められる、そこに大きな違いがありますから、余り心配しなくても、何か
別姓夫婦、それから事実婚がふえて家庭崩壊と結びつける必要はなくて、今は
家族の形式ではなくて中身をむしろ問題にして裁判所も私
たちも議論をするんだと。だから、保護すべき
家族なのか、そうではない中身の
家族なのかで当然分けていくということだと思うんです。
10: ◯副
委員長 ほかにございませんか。
〔「なし」と呼ぶ者あり〕
11: ◯副
委員長 ほかになければ、第1
号請願についてはこれで終了いたします。
先生、大変どうもありがとうございました。
12:
◯棚村政行参考人 きょうは御清聴どうもありがとうございました。
〔
参考人 棚村政行退室〕
13: ◯副
委員長 それでは、ここで暫時休憩いたします。
休憩 午後1時44分
再開 午後1時55分
〔
参考人 岡田邦宏入室〕
14: ◯副
委員長 委員会を再開いたします。
本日は御多用のところ当
委員会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。
まず、私から紹介をさせていただきます。
日本政策研究センターの
岡田邦宏さんであります。岡田さんは、京都大学工学部を御卒業され、現在
日本政策研究センターにおいて月刊「明日への選択」の編集長をお務めになっておられます。また、執筆活動も活発になさっておりまして、前回の
委員会において資料として配付いただきました冊子「
選択制だからこそ問題だ」の著者でもいらっしゃいます。
それでは、岡田さんより第2
号請願に
賛成の立場から御意見を伺いたいと思います。
15: ◯
岡田邦宏参考人 ただいま御紹介をいただきました岡田と申します。今から30分ほどお時間をいただきまして、選択的
夫婦別姓制度の導入に
反対する立場から、請願の趣旨に沿って意見を申し上げさせていただきたいと思います。
まず最初に、こういう場をお与えいただきましたことを
委員の皆様に心から感謝を申し上げたいと思います。
私が申し上げたいのは簡単でございまして、三つございます。
一つは、我が国では
同姓制度-同氏と言った方がわかりいいかもしれませんけれども-が定着しておって、日常生活のみならず精神文化においても非常に重要な要素となっております。これを選択的
別姓を導入して大きく変えるということは、将来に禍根を残すことになり得る、もしくはなるという点でございます。
皆さん御承知のように、昨年の
世論調査で
別姓制度に
反対するという方が39.8%おられました。この39.8%のほかに、通称使用でよいとされる方が22.5%おられました。通称使用でいいという方をどう見るかという問題はございますけれども、通称使用でよいとする方々も、当然これは論理の必然でございますが、
同姓の原則ということを前提にしての回答でございます。同時に、
別姓を推進しておられる方々の意見は通称には
反対ということでございますので、当然
世論調査での通称使用派と見られる人々は原則
同姓派と見るべきであると思います。この二つを合わせますと、62.3%という数字が出てまいります。この6割を超える
人たちが現在の
同姓制度に
賛成、もしくは
同姓制度が前提だと考えておられるということであります。
家族制度に関する
世論調査というのは何度も行われておりますが、ほとんどこの数字は大きく変わってはおりません。これは、民間の調査でも一緒であります。
一方、
別姓を導入しても構わないという
人たちが32.5%おられます。しかし、この中でこの数字をどう見るかということでありますが、この中で
法律が
改正されてもみずから
別姓を選択するという方は、この内訳で16.3%、つまり全体では5.29%という数字になります。たしか平成6年だと思いますが、前回総理府が行った
世論調査でも、この5.2幾ら、小数点以下1けたまで一緒の数字が出ております。ということは、ほぼこういう数字であろうというふうに推定しても構わないと思います。ただ、6年と8年というのは大きな違いがございます。というのは、この間に、例えば法制審議会がこの選択的
別姓の答申をいたしました。また、マスコミも大きく取り上げました。そういう中で実は数字が大きく変わっていないということは、
同姓制度というものが国民の間に、いろいろ問題は指摘されておりますけれども定着していると見て差し支えない差し支えないどころか事実であろうと思うわけでございます。
次に、これは私は極めて自然なことであると思っております。何も
法律が規定しなくても、人間の集団というものには自然に集団の
名称というものがつけられて、それによって集団のアイデンティティーと申しますか、同一性、連帯性というものが確認されて、その集団の構成員の
一体感というものがつくられてまいります。その
意味で、人間が生活していく上で最小の共同体と言ってもよい
家族の場合、
家族の呼称-
ファミリーネームと申し上げていいと思いますが-があるということは、極めて自然なことだと思います。しかも、日本の
社会において、かつて家と言われるかぎ括弧つきでありますけれども、呼ばれるものがございました。それが戦後
民法の上からなくなりまして、そこから50年近くたっております。今は、核
家族という言葉がございます。これは正確な言葉ではなくて、正しくは近代的小
家族というそうでありますけれども、
夫婦と親子という関係だけで構成される
家族でございます。が、そういう核
家族が一般的になった今日でさえ、さきに申し上げたような
同姓制度というものが高い支持を受けているということは、注目に値すべきことではないかと思います。つまり、これはどのように見るべきかと申しますと、
民法が
同姓制度をとっているからというだけの理由ではなくて、人間一般の自然な感情に基づいて、またそれに加えて日本人の今日的な生活感情と合致しているということがあって、
同姓制度というものが受け入れられていると考えるべきであると私は思います。
こうした現状を前提といたしまして
夫婦別姓の問題を考えてみますと、
別姓導入は、そういう
意味では今ある自然な
家族感情にどういう影響を及ぼすんだろうかということが第一に問題になると思います。そこで私は、そういう
家族感情に深刻な亀裂ももたらすのではないのかと思います。現在、
夫婦の姓というものは共通でございます。それを結婚の当初から私は何がし、あなたは何がしとなることは、理由はいろいろとあろうかと思いますけれども、
家族としての
一体感、連帯感というものを拒否する-拒否するという言い方がきつければ相対化する、そういう意識が働いていると言っても過言ではないと思います。簡単に言うと、
ファミリーネームというものが前提としている我々という意識、信頼関係というものを損なうおそれがある。我々ではなくて、我と我という二つに分けた、そういう個別的な意識というものを、核
家族形成のスタートの時点から
夫婦関係、
家族関係に持ち込むと私は思います。
このことは何も抽象的なことではなくて、子供のケースを考えてみればより明白だと思います。
別姓というものを選択した場合、どのような方法をとっても必ず子供は両親のどちらかと違う姓になります。しかし、私の知る限り、両親のどちらかと姓が違うことをあえて希望する子供はいないと思います。もちろん、こういう調査が行われているわけではありません。ただし、ここで重要なことは、例えばその子供の姓を決める時点がいつであれ-今そういう議論がございましたけれども、例えばお母さんの姓と子供の姓を同じように選択したとします。子供が物心がついてきて、私はお母さんと同じ姓よりもお父さんと同じ姓の方がよかったということだってあり得るということであります。もしそうだとすれば、どんな形の
別姓であっても、子供にとっては
別姓の強要になるのではないでしょうか。よく
別姓というのは姓の選択とか選択の自由だと言われますけれども、確かに
夫婦の間では選択の自由かもしれませんけれども、皮肉なことに子供にとっては自由ではない、親の自由は子供の不自由と言ったら言い過ぎでしょうか、こういうことになるのではないかと思います。
こういうことを考えてみますと、
家族の
一体感、連帯感というものを損なわないとは私には思えません。現に、昨年の
世論調査でもこういう問いがあります。
夫婦の姓が違うと子供に好ましくない影響があるかと聞いたときに、そうだと答えた人が68.1%もございます。これは、いろいろな問題がこの背景にはあろうかと思いますけれども、少なくともこういう子供も含めた
家族関係というものを意識しておられる、そしてそれを危惧しておられる方が高い数字に上っているということも事実でございます。ですから、この問題をまず第一に取り上げたいと思います。
次、第2番目でございます。これは少し長くなりますけれども、
別姓導入という問題の事の本質と申しますか、その背景にどういう
考え方があるのかということを考えなくてはならないということを申し上げたいということです。と申しますのは、こういうことでございます。私は、この問題に最初から関心があったわけではございません。しかし、仕事上、毎日八つぐらいの新聞に必ず目を通しております。その中で、ここ四、五年、かなりこういう問題が取り上げられてまいりました。最初、新聞報道などを見ておりますと、この
別姓導入の理念、理由として取り上げられたのは、結婚改姓に伴う不利益、不便という問題でございました。これは私は理解をいたしました。ああ、そうだなと思いました。確かに結婚に伴う改姓というのは不便であり、不利益でもあるというのは、全面的にとは申しませんけれども理解できます。しかし、考えてみれば、結婚改姓によらずとも公的書類などの書きかえが必要になるケースはたくさんございます。これは結婚と同一の次元では論じられませんけれども、例えば転居一つをとっても幾つかの公的書類の書きかえは必要になります。とりわけ
社会活動をしている場合には、これはもっとふえるということになります。では、人生の新しい出発に際して、その書きかえの分量が多少多いからといって、
家族法、
家族の基本というものを規定する
民法という根本的な
法律の
改正の理由になるんだろうかというと、私はそうではないと思います。
また、もう一つの問題がございます。それは、
女性の
社会進出に伴う問題、不利益ということでございます。確かにそれもあろうかと思います。確かに、改姓の不便が生じているという指摘はたくさんございます。また、そういうケースも私も存じ上げております。しかし、これも
民法改正の理由になるんだろうか。例えば通称を使用する、呼称を使用する、これは単に会社の中で使えるというだけではなくて、例えば世界の例を見ますと幾つかそういうケースがございます。例えば、日本でも戸籍法の
改正によって、呼称、通称を
制度化するということも考えられます。そういうことによって、ほとんど解消可能ではないのかと思います。実は、これは私の勝手な思い込みではありません。
家族法に関する
世論調査を子細に見ますと、こういうことであります。結婚改姓に対して不便を感じるかという問いに対して、感じるという人は41.1%、感じないという方が53.9%でございます。感じないという方の方が多いわけでございますけれども、この不便を感じるという41.1%のうち、では通称この場合は結婚時の姓名、いわゆる旧姓でございますけれども、旧姓を使えても不便を感じるかという人はその数字はちょっと持っておりませんけれども、全体で申しますと約11%ということになります。これは、実は問いかけているのは今の状態のまま、
法律に根拠を持たない通称に対してどうかということの数字でありまして、また職場でそういうふうに使えればどうかという問いかけでございますので、もし
法律に根拠を持った通称とするならば、この11%という数字はもっと下がるのではないかと想像することは十分に可能だと思います。要するに、改姓に伴う不利益、不便というのは、
家族生活の基本にかかわる
民法の
改正の理由だとは言えないのではないのか、少なくとも国民はそうは認識していない、このことは押さえておくべき事実であろうと思います。
では、
別姓という問題をどうとらえるべきなんだろうかと思うわけです。しかし、
別姓問題の中心テーマというのは、どうもそうした不利益、不便の解消ということではないようでございます。実は、この五、六年の経過を見ておりますと、そういう問題から入って最初に議論されたということでございますけれども、どうもそうではないと思います。例えば、
別姓論の主張というものが幾つも新聞や本にも出ております。それを読みますと、姓は
個人のものだ、ファミリーのものではないんだということが強調されて、
別姓問題の本質は
個人の権利の問題ではないのかというふうなことが論じられておるわけでございます。例えば、これは民間で論じているというだけではなくて、平成7年に法制審議会の中間報告が出ました。この詳細は別として、そこではどういうことが論じられているのかということは、法務省の民事局参事官室がそのまとめを出しております。それを読みますと、
個人の尊厳とか
個人の権利が中心的なテーマとして論じられていて、その中で例えば国民の
世論調査で最も支持が多い-ここでは
同姓原則を維持するということも明確には選択肢としては挙がっていないんですけれども、
同姓原則、旧姓呼称・通称という選択肢に対しては徹底して評価が低い。例えば、
個人の氏に対する人格的利益を
法律上保護するという
夫婦別氏制の理念は、ここにおいては後退しているんだという評価が、
同姓原則、旧姓通称という選択肢に与えられているわけでございます。ですから、
別姓を論議した法制審議会の議論というものは、この当時どんな
世論調査をとっても国民世論とは大きくかけ離れていたと言わざるを得ないわけですけれども、この点は
別姓というものを推進する
人たちも、それだけではなくてマスコミも同様であります。例えば、読売新聞の社説の例を挙げますと、
別姓の導入というのは
個人の尊厳を完全に実現するためにも避けては通れないと論じております。つまり、不利益・不便論ではなくて、本質はここにあるのだと説いておられるわけでございます。これは、法制審議会の背景が、もちろん法案-
委員方にこういうことを申し上げるのは釈迦に説法だと思いますけれども-というのは思想がそのままストレートにあらわれてくるわけではないということを前提にしてお話を申し上げたいと思いますが、少なくとも不利益・不便論ではなくて、
個人の権利、
個人の尊厳、
個人の自由という問題が中心テーマとして論じられているということは押さえておくべきだろうと思います。だとすれば、
夫婦別姓・別氏
制度の導入を考えるのであれば、ここでは
個人と
家族、
個人の自由というものとファミリー、
家族というものがどんな関係に立つのかということを考えなければならないと思います。
しかし、では
個人の尊厳を完全に実現するためには、
別姓の導入がどうしても必要なのかということであります。私はそうは思いません。
個人の尊重というものは、本当に氏を
個人のものとすることでなければ徹底しないものなのか。私はそうは思いません。現代の
家族というのは、先ほども申し上げたように、これ以上分解しようのない近代的小
家族でございます。また、氏というのは、かぎ括弧つきの
家制度でございますけれども、そういうものではなくて一種の
ファミリーネームとなっております。それをさらに
個人に分解しなければ、
個人の尊厳というものは徹底しないものなのかということであります。問題にしたいのは、こうした
別姓論の背景にある
個人に関する理念、議論、主張でございます。
別姓を主張する方々は、盛んに
個人の
家族からの解放を主張されます。確かに
個人の解放というのは心地よい響きの言葉ではございますけれども、しかし、それは同時に近代的小
家族さえも解体をする、もう少し
意味を広げて言えば、ある種の共同体だとか中間共同体と申しますけれども、そうした共同体と呼ばれるものを解体するリスクを負うということを
意味しているわけです。
個人の尊厳というものをどう解するかによっても違いますけれども、少なくともここで意識されているような
個人の尊厳、
個人の自由というものは、そうした共同体や中間団体のようなものを解体するリスクを負う-そうだとは断定を申し上げませんけれども、リスクを負うということを
意味しています。
そういうことを考えたときに、実は思い当たることがあります。というのは、憲法学の上では、
個人の尊厳を貫徹すると、実は
家族は解体するんだと主張される方がたくさんおられるわけです。例えば、
個人の尊厳を非常に強調される樋口陽一先生という方がいらっしゃいます。この方は、非常に有名な憲法学者でございます。こういう方の議論の中では、既にこういうリスクがあるのだということは自明の理でございます。ちょっと引用させて読ませていただきます。
個人の尊厳というものを本気で追求していったならば、ワイマール憲法のような-これは戦前のドイツの憲法でございますけれども、
家族の保護ではなくて、-ここからが重要なことなんですけれども、むしろ
家族の解体に行き着くかもしれないというリスクをあえて背負いこんでいるんだと書いておられます。そして、
個人の尊厳の行き着くところは、場合によっては
家族の解体にまでつながっていく、そういう論理を含んでいる 私もそのとおりだと思います。しかし、ここからがこの先生とは結論が違います。この先生はこうおっしゃるわけです。「そのことを承知の上で、なお人権という
考え方が擁護されなければならない、守らなければならないということを申し上げたいのです」、こうおっしゃっておられるわけです。私は、それでもなおかつ人権擁護をしなければならないとは思いません。もちろん、こうした理論が、先ほども申し上げたようにストレートに今日の
民法改正案に反映しているとは思いません。また、
民法改正をしても構わないと
世論調査でお答えになった方々、そういうふうにお考えの国民の
皆さんも、そこまでは考えているとは想像いたしません。しかし、
別姓推進論者の主張には、これは明示的でない方もいらっしゃいますが、これと非常に類似した主張があることは指摘できると思います。例えば、
家族をどうとらえているのかということであります。つまり、ここで解体するリスクを負うという延長線上に、ではどういう次の
家族像を描いておられるのかということであります。それを幾つか指摘させていただきたいと思います。
例えば、どういうふうに
家族というものが意識されているのかということであります。例えば、二宮周平さんという方がいらっしゃいます。この方は立命館大学の
教授でいらっしゃいますが、こういうふうに書いておられます。有名な、
別姓を推進しておられる学者の先生でございます。たしか「変わる『
家族法』」という小さな冊子でございますけれども、その中に
家族をこう書いておられます。「私は
家族を血縁、地縁、人の縁、職場の縁などの多様な
人間関係のネットワークの一つとして位置づけてみてはどうだろうかと考えています。人は一人で生まれて一人で死んでいきます。その過程でいろいろな人と出会い、世話になったり世話をしたりする、
家族はそうした出会いと世話の場の一つであり-ワン・オブ・ゼムということであります、それ以上でもそれ以下でもないのではないでしょうか」。この先生は、
別姓というコインが表側であれば、その裏側にこういう
家族の像を描いておられるわけでございます。
もう少し別の例を引いても構いません。例えば、この方も推進論者でありますけれども、大学の
名前はうろ覚えですけれども、成蹊大学だったと思いますけれども、安念潤司という憲法学者の方がおられます。この方は、こういうふうに書いておられます。もう少し理論的ですけれども、「
家族が平等で自由な
個人間の結合であるならば、それは原理的には当事者の自由な意思によって解消可能なものと考えるほかはなく、したがって
家族とそれ以外の形態の諸
個人の自由意思に基づく結合体との本質的な差異は結局消滅するであろう」。つまり、
家族とほかの例えばサークルとか職場の仲間、それと本質的な差異はないのだと、そういう
家族像を想定しておられるということであります。
3番目、これはテレビにもよくお出になられますけれども、福島瑞穂さんという
弁護士がいらっしゃいます。この方は、盛んにこういうことを言っておられます。これは、幾つも例を挙げられますけれども、21世紀の
家族は
個人のネットワークになるということをおっしゃっておられる。また別のところでは、
家族というのは
個人のネットワークであって、ネットワークというのは緩やかな関係という程度の
意味だと思いますけれども、それと同時に
個人が
個人として大切にされ-ここまでは私も
賛成なんですけれども、縦の関係が絶たれるような
社会になればよい-縦の関係というのは親子の関係だということなんですけれども-ということです。ですから、この方は別のところで、たしか
女性雑誌の「ミセス」だったと思いますけれども、子供が18歳になったら
家族の解散式を行って、
家族がみんな別居するんだということを書いておられる。私は、別にそういう生き方を否定しようとは思いません。しかし、こういう
考え方に裏打ちされた
法律の
考え方を
社会全体に持ち込むということに関しては異議がございますということです。この点は、引用した方々に対しては私は別に
個人的に何もありませんので、それは念のために申し上げておきたいと思います。
こうした
考え方を
家族解体だと言うと、まだ正確ではないかもしれません。私はそう思いますが、この場では言い過ぎかもしれませんということに抑えておきたいと思います。しかし、少なくとも
別姓を推進しておられる方々は、そうしたリスク、危険性というものを自覚されて、
個人の理念が貫徹した後に出てくるものとして、ネットワークの
家族だとかサークルの
人間関係と変わらないような
家族関係というものを想定しておられると指摘しても言い過ぎではないと思います。むしろ、そういうものが望ましいものだと、そういう
家族関係が望ましいのだとお考えだということでございます。
実は、ここで私はこういうふうにお話しを申し上げて、あるジャーナリストがお書きになっておられるアメリカのことを思い出しました。それを探しましてお話しさせていただきます。実は、ホーン川嶋瑤子という方がアメリカの
家族の現状について書いたレポートがございます。その中で、非常に印象に残った言葉があります。それはどういうことかといいますと、アメリカは1960年代に、日本とは形は違いますけれども、また
家族の伝統、その他いろいろあり方は違いますけれども、大変化がございました。その結果どうなったかということをレポートに書いておられます。念のために申しますと、この方は私と立場は正
反対でございます。しかし、こういうことを書いております。アメリカ-1960年代からでございますけれども、男女は伝統をかなぐり捨て、男女の理想的結合を模索し、シリーズ結婚、シングルペアレント、同棲等さまざまな新しい関係を試みた。その結果、
家族の最後の形態であろうと思われた核
家族も崩壊した。どのような生き方をするかについて、各
個人の選択の範囲が拡大したことは確かだ。しかしながら、これらの試みが人々をより幸福にしたとは必ずしも言えない。伝統的
家族を壊した後、それに取ってかわる新しい
家族のビジョンとは何かという基本問題にすらアメリカでは回答が見出されたわけではないのだ。その結果、いろいろな問題が起こっているのだというふうなことを指摘されておられます。このことは踏まえておくべきことではないかと思います。確かに今、伝統的
家族の問題がいろいろと幾つか指摘をされております。しかし、それを壊した後に何が来るのか。それは、サークル的
家族なのか、職場の
人間関係と変わらないような
家族なのかということであります。私は、それがいいとか悪いとかと言っているわけではなくて、少なくともそれを議論しなければならない、そういうことを想定において御議論をいただきたいということでございます。
時間がなくなりましたので、第3点目に参ります。
次は、
選択制という問題でございます。
選択制だから、
同姓だって選択できるんだ、
別姓だって選択できるんだという言い方をされますが、私はこの
選択制に問題があると思っております。実は、この
選択制というのは、
同姓が原則だからとか、
別姓が例外だといった内容の
選択制ではございません。では、
同姓と
別姓が原則・例外の区別なく全く等価値、等しい価値のものとして同じであるというのはどういうことなんでしょうか。
別姓を推進される方の講演なんかを聞いておりますと、
あんパンを選ぶかクリームパンを選ぶかという選択なんだと、そのほかお店に行ってリンゴを選ぶかミカンを選ぶかという選択なんだという例を、そういう程度の選択なのだと言う方もいらっしゃいます。だから、選択というのは
個人の自由なんだという言い方をされるわけです。しかし、そうでありましょうか。ここで問題にしなくてはいけないのは、確かに
法律が
個人の選択に介入するというのは余り芳しいことではないし、少なくとも今日的風潮ではない、トレンドではないと思います。しかし、では
法律は全くそういうものに関与していないのかというと、決してそうではないと思います。最低限ではありますけれども、少なくとも
家族の秩序を維持したり、
家族の倫理を維持したりという
機能を果たしております。それはどういうことかと申しますと、例えば
民法は「1組の男女が婚姻して」と書いています。これは、例えば男と男とか女と女は
法律婚ではないよということでございます。その間で子供をはぐくみ、また
夫婦が同居し、扶養し合うことを一つの価値あるものとして法的な保護を与えております。これは、長い歴史の間で形づくられてきた倫理、もっとかたい言葉で言えば道徳ということになるんでしょうけれども、倫理や道徳というものを反映してのことであります。逆に、それに反するような他の選択肢、例えば一夫多妻のようなものは重婚罪で罰せられるという形で禁じられたり、法的な保護が与えられなかった-例えば一部法的な保護が与えられていない事実婚の場合はそういうふうなケースでありますけれども-わけでございます。つまり、
家族制度において
法律自体が、非常に最低限、ミニマムでありますけれども、ある一定の価値というもの、枠組みというものを示しているわけであります。
では、こういう
家族秩序を維持したり、
家族の倫理を維持したりという
機能を持った
法律、もっと言えば、そういう倫理、
家族秩序を維持したり、
家族間の倫理を維持したりという倫理や道徳と
個人の選択の自由はどういう関係に立つのかということであります。もっと直截に申し上げれば、そういうものとぶつかった場合どちらを選択するんだということでございます。これは、
選択制の本質的問題であろうと思います。そこで、実は
別姓を推進しておられる方々の本をたくさん読みました。そうしますと、実は今、選択の自由という中に、こうした倫理や道徳、少なくとも今の
法律が法的保護を与えなかったり禁止をしていたりという問題にまで
個人の選択の自由を広げるべきだという主張が見られます。これは、論理としては当然のことだと思います。
個人の選択が絶対だという立場に立てば、極端なことを言えば-極端なことでもないんですけれども、これはそういう本を拝見をいたしますとたくさん出てまいりますけれども、例えば何も男が結婚相手として男を選択する、選択肢が女だけでなくてもいいではないのかという主張というのはざらに出てまいります。例は幾つも挙げられますけれども、そういうことは、例えば非嫡出子の問題でございますとか、近親婚の問題ですとか、近親婚の禁止の範囲をもっと狭くしようかとか、幾つかこういう主張として出てまいります。しかし、そういう主張というのは、何か突拍子もないような主張とだけは言っていられないわけでございます。なぜなら、もし
個人の選択こそ絶対であり、
法制度というのはその選択に介入するなという御主張であれば、
同姓でも
別姓でも選べるというのは
選択制の発想そのものでございます。
別姓を推進しておられる中心的な方々がお書きになられた「
夫婦別姓の正体」という本がございます。この本の最後の結論はこういうことでございます。
夫婦別姓選択制度というものをこういうふうに位置づけておられます。婚姻に際しての氏の選択の問題を超えて、日本
社会が多様なライフスタイル-多様なライフスタイルというのは私が先ほど挙げたような
個人が何でも選択できますよということでございますけれども-を受け入れることにつながる可能性を持っていると結論づけておられます。ということは、つまりこの言葉にこだわって言えば、
別姓導入は
個人の選択の自由を
家族制度全体に導入する突破口のような形で位置づけを与えておられるということでございます。もちろん、
別姓を導入したら直ちにこうなりますよというのは言い過ぎでございましょう。しかし、
同姓、
別姓を完全な
選択制にするというのは、実は世界でも非常にまれな例でございます。日本大学の百地章さんという
教授が指摘しておられることでございますけれども、日本の法制審議会が示したような等価値の選択を日本以外で選択しておられるのはスウェーデンしかないということでございます。では、そのスウェーデンはどうかと申しますと、これはまさに1960年代に、私が申し上げたような、でき得る限りこうした
個人の選択に法が介入しないという原則を定めました。それでどうなったかというと、その一環として、
夫婦は完全に
同姓、
別姓、ヨーロッパにあります結合姓というものを選べるようになりました。それだけではありません。例えば
法律婚という
制度もございますけれども、事実婚、同棲というものもほとんど差別がなくなりました。それだけではなくて、例えば1995年、今から2年前ですけれども、パートナー法というのができました。これは、例えば男と男が結婚をしても、これは正式な結婚とは認めませんけれども、登録をして事実上の
法律婚と変わらなくする、こういう
法律も可能になりました。これは、先ほど申し上げましたように、
個人の自由を最大限に尊重して、それがたとえそれ以前の-もちろんスウェーデンも
キリスト教社会でありますから、当然歴史的な背景に基づいた伝統的な倫理、道徳というものはございます。そういうものに基づいて今まで
法律があったんでございますけれども、それを打ち破ってそういうことをしてもよいということになったわけでございます。
ここで最後に一つ申し上げたいのは、
別姓を導入するといっても、何も実は
別姓というのはそういう
制度だけではなくて、ドイツモデルというのがございます。原則は
夫婦別姓で、相互が話し合って同意したら共通姓、
同姓にすればいい。どうしても合意できないんだったら例外的に
別姓にできる、こういうシステムもあるわけです。ところが、今議論されているのはこういうドイツモデルではなくて、実はスウェーデンモデルなんでございます。だったら、スウェーデンモデルの延長線上に何があるのかということを考えてもおかしくはないのではないかと思います。
時間が過ぎてしまいましたので、これで一たん終わらせていただきます。
委員各位には、こういう場をお与えいただきましたことを感謝申し上げますとともに、何とぞ御高察のほどをお願い申し上げたいと存じます。
以上でございます。ありがとうございました。
16: ◯副
委員長 どうもありがとうございました。
それでは、皆様から何か御質問はありませんか。
17: ◯阿達孝治
委員 私は、両方に
賛成も
反対も意見を書いていないんですけれども、これはやはり今の日本では時代の波によって考えなくてはならない重要な問題になってきていると思うんです。どうしてかといいますと、子供が少ないものですから、長男と長女が結婚してどちらの
名前を名乗るんだというのはどこにでもある問題です。そして、それが旧家だったりした場合、その祭祀の問題、お墓の問題、いろいろ出てくるわけです。そうした場合、やっぱり結婚させて、両方のことを考えて、祖先を敬うことも継承するならば、必ず同一の
名前でなくてならないと固執すること自体が
家族制度を壊すことになるのではないのかと。だから、時代の変化に従って、そういうことも考える必要があるのではないかと。先生の方の立場の
人たちの陳情書を見ましても、
民法897条によって祭祀継承
制度というものが書かれていますけれども、こういうふうなことを考えた場合でも、
同姓ということばかりで頑張っていられない時代に実際になってきているのではないのかということがまず一つです。これに対する御意見をまずいただきます。
それから、やっぱり今まで日本では
女性の
社会参加が少なかったですから、
夫婦同姓というのは定着しておりまして、多数の
人たちは今のままでというふうに育ってきたわけですからよかったかもしれません。しかし、今から
女性も同じように活躍してもらう時代になってくれば、
女性の立場を考えて、やっぱり別にしてくださいという意見も私は尊重しなければならないと思うんです。やっぱり少数意見も尊重して、ともに立つような方法を考えていくのが日本の今の民主主義
制度でなかったのかと思いますので、余り
賛成だ、
反対だとごちゃごちゃになっているよりも、現実の問題をきちんと重視して
改正するということにした方が、私は国民の声がまとまるのではないかと思いますけれども、先生の御意見をお伺いしたいと思います。
18: ◯
岡田邦宏参考人 1点目につきましては、基本的にと申しますか、阿達
委員のお気持ちと私は一緒でございます。ただ、それは
民法改正の問題になるんだろうか、
別姓、
同姓の問題になるんだろうかということでございます。私は
法律の実務の
専門家ではございませんので申し上げられませんけれども、別の方法というものは十分あり得るというお話は承っております。要するに、
別姓、
同姓ではなくて、今手元に資料がありませんので、不正確なことを申し上げたら失礼になりますのでこの程度にとどめさせていただきますけれども、例えば戸籍法の問題ですとか養子縁組の問題ですとかということによって解決すべきだという方も実はいらっしゃいます。この点は、少なくともこういう問題があるということは同感でございます。ただ、そういう方々も実は
別姓に
賛成という中に含まれているというのがちょっと不思議なんでございます。私が今申し上げたような論理でいけば、そういう方々も
家族を大切にしたいということでございますので、十分そういう議論というのはこれからしていかなくてはならないと私は思います。
2番目でございますけれども、これは私はこう思っております。最初に申し上げましたけれども、確かに
女性の
社会進出というのはたくさんございます。その中で、結婚改姓に伴う不利益は確かにございます。私の身近にもそういうケースがないというわけではございません。ただ、これは法の建前として、実は日本の
民法というのは、ある方に言わせると柔軟過ぎるくらい非常に柔軟だと言われています。それは、例えば白紙主義だということを指摘される
民法学者もおられます。それはどういうことかといいますと、例えば確かに97.8%-数字は正確でないかもしれませんけれども、大半は
女性が改姓をされるということでございますけれども、実は法の建前というのはどちらかでいいわけでございます。例えばこれは、財産の処分とかということに関しても、白紙主義というのは、当事者が話し合ってお決めくださいというのが実は今の
民法の
考え方でございます。ただ、これと
社会通念とが合わなくて、マッチしなくて、こういうことになっておるわけでございますけれども、実はこれは例えば私が先ほど申し上げましたように、
ファミリーネームというものをなくさずに、戸籍法のある一部を
改正して、いわゆる呼称として旧姓、改姓しない姓を名乗るということは十分可能ではないのかという
専門家もおられます。もちろん、これはそうではないという方もおられますので、どちらが正しいかはわかりません。しかし、少なくとも
委員がおっしゃった二つ、1番目の、少子化に伴う長男、長女の俗に言う家名の問題と、2番目の、少子化を踏まえて
女性の
社会進出があるという二つの問題を同時に考えるというのであれば、
同姓を原則として今日の
制度に多少とも手直しを加えるという方向性が見えてくるのではないのかと私は思います。
ここでついでに申し上げておきたいことは、実はそうした現代の
同姓制度の理念と選択的
別姓という主張はかなりかけ離れているということでございます。ですから、現代の
同姓制度のいい点を生かして、現在問題になっている点を
改正するというのであれば、これはいろいろな議論の仕方があろうかと思います。私が考えているのはそういうことでございます。
19: ◯副
委員長 ほかにございませんか。
〔「なし」と呼ぶ者あり〕
20: ◯副
委員長 ほかになければ、第2
号請願についてはこれで終了いたします。
岡田先生、ありがとうございました。
〔
参考人 岡田邦宏退室〕
21: ◯副
委員長 それでは、皆様にお諮りいたします。
本請願の審査については、本日のところはここまでにとどめ、皆様からの御意見等については次回の
委員会において伺うということにしたいと思いますが、これに御異議ありませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
22: ◯副
委員長 それでは、まず第1
号請願については、継続審査とすることに御異議ありませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
23: ◯副
委員長 第1
号請願については、継続審査とすることに決定いたしました。
次に、第2
号請願については、同じく継続審査とすることに御異議ありませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
24: ◯副
委員長 第2
号請願については、継続審査とすることに決定いたしました。
《閉会中継続審査について》
25: ◯副
委員長 次に、「学校教育について」であります。
本件について、当局から報告願います。
26: ◯教育長 継続審査事項「学校教育について」、教育局から御報告申し上げます。
今回は、院内学級の現況について御説明させていただきます。
院内学級につきましては、院内学級の開設によって、入院中の児童生徒の教育の空白が解消されるとともに、治療上の効果が期待されるという趣旨から、その設置につきましては、かねてから本市教育
委員会内において種々検討を重ね、また関係機関とも開設に向けて協議を行ってまいりましたが、今年4月、仙台市立病院内と東北大学医学部附属病院内に開設することができたところでございます。
本日は、院内学級が開設されて7カ月を経過いたしましたので、これまでの状況あるいは検討課題につきまして御説明させていただきたいと存じます。