亀山市議会 2010-09-21 平成22年産業建設委員会( 9月21日)
それから石井兄弟のあだ討ちの石碑と言ったらいいのか、ありますわね。あそこ、いつ行ってもあの周辺は草がそのままで刈ってない。2,000人の方がウオーキングで見えられておって、あそこもコースに入っていたはずなんですけれども、そういうところがこんな大きなイベントのときに、対応が十分できていないというのは、非常に恥ずかしいんじゃないかなと感じがしたんですね。
それから石井兄弟のあだ討ちの石碑と言ったらいいのか、ありますわね。あそこ、いつ行ってもあの周辺は草がそのままで刈ってない。2,000人の方がウオーキングで見えられておって、あそこもコースに入っていたはずなんですけれども、そういうところがこんな大きなイベントのときに、対応が十分できていないというのは、非常に恥ずかしいんじゃないかなと感じがしたんですね。
さらに、兵舎跡地については、1995年に千種西財産管理組合が「不戦の決意を新たにしよう」の思いから、元陸軍兵舎跡に石碑を建立しており、石碑の裏には「平成7年8月吉日 戦後50年不戦の記念」と刻まれております。この兵舎跡の活動をされた皆さん方によりまして、千種小学校においては、千種西財産管理組合の方によって、平和についての講習も開かれていると私は聞き及んでいるところでございます。
大きな地震が来た後、余震がしょっちゅう来て、もう家は半分ぐらい倒れているところもありますし、こけているのはなかったですけども、お墓の石碑が全部倒れたり、大きな被害でした。余震が続きますので、家の中におれませんので、畑とか、空き地にわらで家をつくって、そこで生活している人たちも私もその中に入れてもらったりして、余震のすごさにはびっくりしております。
鈴鹿市内における戦没者顕彰施設は,忠魂碑,殉国碑,平和之礎など,呼び方はさまざまですが,一般的に慰霊碑と言われる石碑が,それに当たると考えております。 市で,それらをすべて把握しているわけではございませんが,先ほど原田議員のお話の中にもありました三重県の遺族会のホームページによりますと,市内に30の施設がございます。
次に,神戸城跡内についてでございますが,鳥居,石碑,狛犬などにつきましては,地元自治会関係者と現地も確認し,後々の管理も考えまして協議,相談しました結果,城跡内にございます鳥居,石碑,狛犬などは,撤去,移設の方向となりました。 その内訳につきましては,鳥居,灯籠,商標,旗竿石は撤去処分となりまして,石碑,狛犬につきましては,神戸神社への移設となっております。
40: 7番(伊藤惠一)(登壇) 市民会館の問題に関しまして、鋳造報国の石碑を今もありがたく温存する感覚の問題も聞いております。御答弁をお願いいたします。
まず、そこでお尋ねしたいのですが、私もちょっと勉強不足でございますが、桑名の鋳物ということでございますが、市民会館の東の北側の角に大きな石碑がございます。「鋳造報国」という石碑が建っております。見てのとおりでございますが、鋳物を通じて桑名が国に報いるということ、読んで字のごとしでございますけども、建立の歴史と、そしてその意義を市当局はどのようにとらえてお見えになるか、所見をお伺いいたします。
また,この土地に建てられております表忠碑でございますが,碑の現在の状況を現地において確認しましたところ,石碑の表面に「表忠碑」と太く掘られており,その裏面には,「昭和三年十一月三日建立 玉垣村」とあり,経過は不明でございますが,玉垣村が昭和3年に建立したものであると思われます。
上野公園の駐車場は、私の見る限りシーズン時には観光バスが満車の日が多い、私はこの観光バスの駐車場を考えるときに、上野高校側からの市役所側の公園の入口付近までの直線道路だけにして、今は観光バスの通ってる道も道路になっておりまして、その前に石碑がございます。どんな石碑かといいますと、「芭蕉の山里は 万歳遅し 梅の花」の石碑でございますので、あの石碑を、入口の所で公衆電話であります。
御存じと思いますけれども、当センターの入り口には松寿園という昭和48年4月から石碑が設置してございます。既にセンターの看板の役目を果たしているところでございます。では、条文に沿って御説明申し上げます。
しかし、神戸でも水害というのはありまして、私も、私の通う小学校でも大きな石碑なんかも立っておりまして、常に備えよと、こういうことなんですが、防災計画等、私も特別の事情でこれ出席できないケース多々あって非常に残念に思ったりしているわけですけど、そういった部分の中でも、大規模災害時の体制はできてると、こういうお話はいつでもお尋ねしている件ではありますが、例えば区画整理等も、消防自動車が入っていけないというような
また、各学校におきまして古くからある樹木や卒業記念等での植樹を初め、石碑などが存在している場合、学校を含め、地域のシンボル的存在として親しまれ、大切に今日まで引き継がれているところでございます。
視察の過程で、ある寺院を訪ねたとき、石碑にこう書かれていました。「師いわく、我三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順う、七十にして自分の心の欲するところに従えども、のりをこえず」まさしく孔子ではありませんか。論語の中の一節であります。これこそ日本に伝来したときから、まさに心の教育、心を育てる教育の原点だったのです。改めて私の胸が熱くなりました。