いなべ市議会 2012-06-07 平成24年第2回定例会(第2日 6月 7日)
こちらのほうが実施しておりますバスによる岩手県山田町への文化、それから運動、教養を通じて被災地の復興に息長く寄り添いながら行う仲間のボランティアツアーというのがございまして、三重発ボラパックという催しについて、各種いろいろな団体に資料を送らせていただいたりして、そういう活動支援ができるように、こちらのほうも努力させていただいておりますし、市民センターの発行しております活センニュース4月号にもそういった
こちらのほうが実施しておりますバスによる岩手県山田町への文化、それから運動、教養を通じて被災地の復興に息長く寄り添いながら行う仲間のボランティアツアーというのがございまして、三重発ボラパックという催しについて、各種いろいろな団体に資料を送らせていただいたりして、そういう活動支援ができるように、こちらのほうも努力させていただいておりますし、市民センターの発行しております活センニュース4月号にもそういった
こちらのほうが実施しておりますバスによる岩手県山田町への文化、それから運動、教養を通じて被災地の復興に息長く寄り添いながら行う仲間のボランティアツアーというのがございまして、三重発ボラパックという催しについて、各種いろいろな団体に資料を送らせていただいたりして、そういう活動支援ができるように、こちらのほうも努力させていただいておりますし、市民センターの発行しております活センニュース4月号にもそういった
ちなみに、静岡県島田市も我が亀山市と同等の溶融炉施設を所有しており、島田市議会は、岩手県大槌町及び山田町の災害廃棄物、主に木材チップの受け入れに関する決議をされて、島田市長、桜井勝郎さんも正式に瓦れき受け入れの表明をされています。 このような中、我が櫻井市長のこれまでの答弁において、私との見解の相違かわかりませんが、溶融炉の長寿命化を優先し、瓦れき受け入れに対する姿勢が全く見られませんでした。
しかしながら、2月20日に静岡県島田市が発表しました、岩手県の山田町、一部大槌の処理した結果、スラグ、メタルでは放射物質は検出されず、排ガスのちりから集められた飛灰についても、放射性物質として扱う必要のない1キロ当たり64ベクレルということも報道されています。
岩手県の山田町の瓦れき試験焼却に対して、静岡県島田市は2月20日、一部放射線量を発表したと。というのは、姉妹都市を組んでみえるのかね。静岡県島田市の市長さんが議員を山田町まで同行していただいて、この瓦れきを見て、何とか島田市で、島田市というのは、我が亀山市と同じ新日鉄の高温処理をできる施設を持っておる。それで市長さんが市議会と一緒に行ってもらって、この瓦れきを島田市で処理しようと。
○8番(鈴木達夫君)(登壇) 情報保護の大切さを痛感したんだと、県内の他の市町とのバックアップ体制を今整備しているんだという答弁だと思いますけれども、実は私、昨年の10月に岩手県の山田町のほうに会派の皆さんと、本当に悲惨な状況を目にしてきました。 その後、山田町の南に大槌町というところがありますけれども、この大槌町を見たら、これまた一段と愕然としたんです。
そこで、ちょっとパネルを用意しましたけれども、これは岩手県山田町の被災状況です。これを見ていただいたように、ここで何百人、何千人の人が生活しておったが、一瞬の津波でこういうような状況になりました。その結果、これが瓦れきの積んである状況です。こういうような瓦れきの積んである状況が、私は宮古市と田老町の2ヵ所、それから釜石に行かせていただきました。すべてのところにこういうような瓦れきが積んである。
今回の大震災でも、恐らくたくさんの方が津波を見に海に行って、命を落とされているのではないかなというふうに思うんですが、岩手県の山田町というところで、実際に津波に海に行って、命からがら逃げたという方の体験を聞くことができました。その方は70歳ぐらいのおじさんですけれども、山田町は新しい6メートルぐらいの堤防ができておって、若い2人とその堤防の上で津波を見ていたそうです。
また、山田町の小学校チーム、山田ミニバスケットボールスポーツ少年団、ここも多くの児童が被災をされ、全国大会に行きたいという思いで、チームメイト15人のうち8人の自宅が全壊、今も4人が避難所生活を送っているそうです。多くの選手がユニフォームやシューズとともにすべてを失った。
これは入院中から生活訓練施設、例えば山田町にスマイルハウスという施設がございます。そうした施設への通所訓練や短期入所の体験なども積んでいるという状況がございます。 しかしながら、家族や地域での受け入れがスムーズに運ばないこともございます。
山田町政の引き継ぎもあるんでしょうけども、そういう行政の壁という部分でいきますと、山田町政からの脱却、一部自分で変えるよということも先ほどの施政方針の中で随所に見られますが、風通しのよい町政の推進をされるんじゃないかなと思います。それを期待しておるとこでございます。それで、2カ月たって町長自身が解決しなければならないと感じた問題点や課題は何でしょうか、具体的な問題点、課題をお伺いしたいと思います。
今の伊勢の山田日赤の要覧を見てみますと、明治34年に看護養成所構内で旧山田町が病院を建設したと、その後日赤さんにそれを寄附したというような経過がございます。そのとき診療の初診が20銭であったと、60日間は無料で、それを過ぎると20銭徴収されるということやったんです。そのときに、赤十字社の社員と旧宇治山田市在住の人は無料、度会郡の人は半額というふうなことがうたわれています。
山田町政発足後、はや12年が過ぎようといたしております。昭和34年9月24日の伊勢湾台風が上陸いたしまして、川越町が90%の被害に遭いました。その伊勢湾台風を機に50万坪の埋め立てを企業の協力を得まして町が実施したわけでございます。しかし、20年余りの間に企業の誘致が決まらず、先人の方々は大変なご苦労をされたようであります。
また、私が気づいた点ですが、町政側の職員は全部と申しませんが、山田町政になってから放漫財政があるがゆえに、事務による職員に気の緩みが感じられます。この時期を契機に、町長をはじめ職員一体となって町民の皆様に信頼回復のために努力していただきたいと思います。町長のご所見をお伺いしたいと思います。 それから2番目、先ほど安藤議員も申されましたけども、小学生の安全について。
その後、明治9年に三重県が発足し、先ほど述べました明治21年6月の内務大臣訓令が出され、翌明治22年4月に市町村制が施行され、そのときに宇治8カ村と山田22カ村により宇治山田町、また神社町、大湊町、宮本村など、それぞれの町村として成立いたしました。 宇治山田町は明治39年9月に市制をしき、昭和16年5月に神社町と、昭和18年12月には大湊町、宮本村、浜郷村との合併がなされました。
小山田地区は、山田町、小山町、内山町、西山町、美里町、堂ケ山町、和無田町、鹿間町、六名町と9町にまたがっております。私が申し上げておるのは、一番戸数の多い、400戸もある山田町でありまして、土地は南北に分かれて、その土地も起伏の多い田畑となって、住宅は南側に面した傾斜に家が建っている現状であります。