京都市議会 2015-02-26 02月26日-02号
そこから,水難に苦しむ関係する村々はようやく腰を上げて,組合をつくり,計画を立て,代官所の許しも得て,共同で水路開削に取り掛かったわけです。古川吉左衛門為猛が思い立ってから10数年が経ち,計画は起動に乗り,羽束師の里にも長年の悲願であった水難に打ち勝つ日もそう遠くないであろうと思われましたが,完成までの道のりは険しく,最大の難問は資金集めでございました。
そこから,水難に苦しむ関係する村々はようやく腰を上げて,組合をつくり,計画を立て,代官所の許しも得て,共同で水路開削に取り掛かったわけです。古川吉左衛門為猛が思い立ってから10数年が経ち,計画は起動に乗り,羽束師の里にも長年の悲願であった水難に打ち勝つ日もそう遠くないであろうと思われましたが,完成までの道のりは険しく,最大の難問は資金集めでございました。
また、22年度には文化財セミナーとして、「永浜宇平を語る」、「峯山班と近世丹後のすがた」を開催しておりますし、23年度におきましても、「久美浜代官所と丹後・但馬・美作」等の講座等を開催しております。 また、文化財博士育成講座につきましては、平成18年度から23年度まで81講座を実施しておりまして、京丹後市博士には46名の方を認定させていただいているところでございます。
太閤堤も久保田市長はこれから力を入れていかれるわけでございますけれども、あれも上林さんの代官所程度だというふうに解釈なさって、それはそれで残すとして、あそこに何億もということよりも、むしろ今、倒産の憂き目に遭って青息吐息の宇治川周辺の宇治橋通りのそういう旅館の方とか、いろんな方々をどうしたら援助できるかということをお考えいただき、また太閤堤におきましても民間から知恵を結集する、場合によっては第三セクター
江戸時代には幕府の代官所が置かれたり、明治時代には今の岡山、兵庫にまたがるような5カ国を束ねる久美濱縣の県庁所在地として栄えられたというようなすばらしい歴史、あるいは文化的な蓄積があるところだと思っております。
宇治橋通りは古来より明治時代まで代官所や茶問屋が軒を連ね、宇治の中心として大いに繁栄をし、以後伏見を除く京都府南部最大の商店街として昭和30年代ごろまで繁栄を続けてまいりました。 しかしながら、宇治橋通りは他の多くの商店街と同様に大型店の出店と流通形態の変化により、徐々に衰退を余儀なくされ、今日に至っております。