京丹後市議会 2013-03-06 平成25年総務常任委員会( 3月 6日)
韓国での捉え方は、日本の歴史を見ると中世に豊臣秀吉が朝鮮侵略をしましたね、朝鮮半島の侵略。それから明治初期には、当時の政府が征韓論、韓国を制圧しようという。そして実際は、明治の末に韓国を併合して、いわゆる36年間、暴力的な支配を行ったと。こういう捉え方を韓国の国はしているわけですね。
韓国での捉え方は、日本の歴史を見ると中世に豊臣秀吉が朝鮮侵略をしましたね、朝鮮半島の侵略。それから明治初期には、当時の政府が征韓論、韓国を制圧しようという。そして実際は、明治の末に韓国を併合して、いわゆる36年間、暴力的な支配を行ったと。こういう捉え方を韓国の国はしているわけですね。
例えば、これは町が主催したものではありませんが、真鍋町長の後援団体が主催した取り組みの中で、大山崎町での自治というものについて、中世にさかのぼってこれらを後援し、油座の権益を守るために、当時の商人がどんな取り組みを行ってきたか、こういったことを講演の中で示されたこともありました。
中世には、一色氏や細川氏の城郭、江戸期には京極氏の城下町移行など、京丹後市には数えきれないほどの名所旧跡がございます。 その文化財は、私たちの財産であり、その保護は、この地に住み、延々と歴史や文化、伝統を引き継いできた私たちの先祖に対する責務、義務でもあり、次世代に引き継いでいく責任があります。京丹後市の文化財保護に対する基本方針は果たして私たちの心に沿ったものになっているのでしょうか。
そういう中で、提案に当たっての最後、あえて発言をさせていただくわけですけれども、自分のこととして発言をさせていただくわけですけれども、中世の軍規物語である太平記には、1日生き延びるために義を捨てて逃げ惑い、結局、捕まって殺され、後世に永遠の汚名を残す武士がいることはなげかわしいことだと書かれています。
大山崎町としましては、地域と深いかかわりを持つ伝統文化に触れる機会が国民文化祭という一過性のイベントとして終わることなく、形を変えながらも、今後も継続的に地域の皆さんに受け継がれていくことを期待するとともに、中世から戦国時代を中心として、長い歴史の中で培われてきた魅力ある大山崎町の文化を時代に即した形で、今後も広くPRしていきたいと考えています。
京田辺市には古代・中世・近世まで、豊富な歴史や遺跡、昔話、天井川や、立体交差する川など、先人の工夫や知恵などがいたるところにある。「ふるさと京田辺」を市民が共有できるようにしたい。広報紙やHPを活用した取り組みが大切だと考えるが、市長の考えを問う。 (5)未来を支える人づくりについて ①普賢寺小学校の特認校制度について。
それからふるさと、あるいは歴史資料館、名称はともかくとしまして、そういう問題提起もいただきまして、私もこういった歴史、歴史言いながら、何とか今日までのやっぱり先人の皆さん方が築いていただいた今、近世中世まで含めた。何とかそういった資料館ができないかなと、実は思っております。そういったことで何とか、私にすればやっぱり欲しいです。
これはもう中世の法律です。こんな法律を許して、しかもそれについて現在きちんと検討もせずに、これによって命を失わなかった人はそれでいいのかということではないというふうに私たちは思いますし、なんとしても早い検討が必要です。先ほど、奥野さんが言われたようにもう亡くなられていっている。お母さんも結局は悲しみを抱いて亡くなられたわけです、和田さん。
本市は、古代の遺跡だけでなく、中世・近世において、そしてこの請願のように昭和初期にも貴重な文化財は多く、何となく知られていながら、意識されていない有形・無形の文化財や、まだ知られていない貴重な有形・無形の文化財があることは予想できます。
その業績として、日本中世史の分野で、中世日本に自治都市的な性格を見出すとともに、歴史の中で女性を浮き彫りにするなど、商業史、都市史、女性史など広範囲にわたり業績を上げた。また、石見銀山の07年のユネスコ世界遺産登録にも尽力したということです。脇田晴子先生は、橘女子大学教授を経て、滋賀県立大学名誉教授、現在は石川県立歴史博物館館長を務めておられます。
昭和42年に町制を施行してから四十有余年、はるか中世の時代には、油商人たちが築いた富によって、例を見ない自治都市として栄え、さらに戦国時代には、日本の歴史の流れを変えた山崎合戦がこの天王山のふもとに広がるこの町の一帯で繰り広げられました。
1980年、昭和55年6月25日に最初に発行されたのが第2巻、中世、近世編でありますね。それから次に発行されたのが、1984年、昭和59年3月20日、これは第3巻が発刊されています。中身は近代と現代なんですね。3番目に、1986年、昭和61年1月21日に第1巻が自然環境、先史、古代と。ということで、3巻発行されてですね。ただ、資料編ですね。資料編が未完のまま今日に至っているわけです。
そして、中世、近世まで、多くの名所旧跡に恵まれた地でございます。私は、現在の文化、市民の文化の皆さん方が、先ほど申し上げた、まさに文化力の向上、スポーツ力の向上、しかし、文化財といいますのは、これまで、過去の文化をあらわすものだというふうに思っております。
また、この大仏鉄道の遺構につきましては、我々といたしましても中世の遺構として大事に思っておりますし、大仏鉄道がいかにあったかということをこの歴史に残す、そういうようなことを我々としても頭に入れながら開発協議を進めていきたいなというふうに思っております。 以上でございます。 ◯議長(中野 重高) 曽我さん。
これは中宇治地区の都市計画された街区が中世から現在まで継承されていること、またなりわいとしての茶業についても高く評価をされ、そこでは本ずなどによる覆い下園や手摘みなどの生産過程の部分が宇治の独特の景観として認められております。
中世、高野山参拝のための信仰の道として栄えた東高野街道は、他市町村から本市へリュックを背負ってこられ、歩いておられる方が本当にたくさんおられます。その方々は、東高野街道を歩いてどのように感じておられるのか。次回も八幡市に来て歩きたいと思っておられるのか、八幡市を知人に紹介したいと思っておられるのかと考える中、道路の舗装や周囲の形状などは統一されておらず、本当に残念です。
エゴマ油は、中世末期に菜種油が普及するまでは、植物油といえばエゴマ油であり、灯明にもこれが主に用いられていました。しかし、菜種油の普及とともに次第にエゴマ油の利用は衰退をしていきました。近年、エゴマ油にリノレン酸を初めとして体脂肪の燃焼を助けるなどの効果がある成分が含まれていることがわかり注目をされております。
中世末期のイギリスでは、粗放農業生産から限界化やペストの蔓延で1340年から100年後には160万人へ実に4割も減ったと。にもかかわらず、労働者階級の実質賃金は2倍に上昇したと。江戸中期でもこういったことがあったということで、1730年から60年後には、3,250万人が3,000万人を割ったと。ところが、1人当たりの実質穀量は1.02穀から1.23穀へ20%も上昇した。
弥生時代の方形貼石墓や古代・中世の遺構・遺物が多数出土した府中地区難波野遺跡と、奈良時代から中世の山岳寺院である成相寺旧境内においては、遺跡の範囲、内容を確認するため発掘調査を実施することとしており、丹後国府が所在し、古代丹後国の政治・文化の中心であった府中地区の歴史文化遺産の新たな発見を通じ、天橋立の世界遺産登録に向けての登録資産の拡充につなげてまいります。
また、中世でも勝竜寺という居城があったといったようなこと、今に至るまで、非常に貴重な歴史をたどり、ここに残されてきたものが非常に豊富にあるということ、私も痛感しております。