玉名市議会 2016-03-09 平成28年第 1回定例会-03月09日-04号
桑本先生あたりはもう大体向こうの天水町のほうに学校におられましたので、十分御存じですけれども、非常に観光の素材としても御存じのようにいろんなものがありますので、荒尾市の宮崎滔天とも連携しながら、前田案山子邸、草枕のほかにも前田案山子邸がありまして、連携が十分とれて、大きな広がりが見られると思いますので、ぜひ、そういうことも含めまして、観光行政にも、またこのフットパス、トレッキングコース、まず何をさておきましても
桑本先生あたりはもう大体向こうの天水町のほうに学校におられましたので、十分御存じですけれども、非常に観光の素材としても御存じのようにいろんなものがありますので、荒尾市の宮崎滔天とも連携しながら、前田案山子邸、草枕のほかにも前田案山子邸がありまして、連携が十分とれて、大きな広がりが見られると思いますので、ぜひ、そういうことも含めまして、観光行政にも、またこのフットパス、トレッキングコース、まず何をさておきましても
また、大正2年熊本県立済々黌で御講演をされた孫文の記念館を訪れ、辛亥革命に至る孫文の足跡や宮崎滔天との交友関係について館長から説明を受けました。 今後、中国との間では上海事務所を拠点として観光コンベンション、貿易、学術研究などさまざまな分野で交流が進むことを心から願っております。 次に、ベトナムです。
また、大正2年熊本県立済々黌で御講演をされた孫文の記念館を訪れ、辛亥革命に至る孫文の足跡や宮崎滔天との交友関係について館長から説明を受けました。 今後、中国との間では上海事務所を拠点として観光コンベンション、貿易、学術研究などさまざまな分野で交流が進むことを心から願っております。 次に、ベトナムです。
今度は中国になると、昔は宮崎滔天、中山孫文先生の記念館もあったけれども、今はつぶれてしまったが、滔天先生はまだ知っている、この中国とか。これもみんなで、熊本市だけが考えるのではなくして、私が昔言っていたように、荒尾市と熊本市と阿蘇市と観光部門で手を組んでしなさいと。熊本市は常に110円のお客さんばかりで、ジュース缶1本買わす。あとは、よそからつくった弁当殻を熊本城に捨ててきて、見物して帰る。
今度は中国になると、昔は宮崎滔天、中山孫文先生の記念館もあったけれども、今はつぶれてしまったが、滔天先生はまだ知っている、この中国とか。これもみんなで、熊本市だけが考えるのではなくして、私が昔言っていたように、荒尾市と熊本市と阿蘇市と観光部門で手を組んでしなさいと。熊本市は常に110円のお客さんばかりで、ジュース缶1本買わす。あとは、よそからつくった弁当殻を熊本城に捨ててきて、見物して帰る。
アジアで最初の共和国、中華民国を誕生させた孫文と深い友情で結ばれ、その運動を物心ともに応援した荒尾出身の宮崎滔天兄弟らの献身的な業績に触れてみたいと存じます。 孫文は、清朝への武装蜂起に失敗した後、日本へ亡命していた1897年と、革命成就後の1913年、大正2年3月、梅のころに宮崎を訪問しております。
アジアで最初の共和国、中華民国を誕生させた孫文と深い友情で結ばれ、その運動を物心ともに応援した荒尾出身の宮崎滔天兄弟らの献身的な業績に触れてみたいと存じます。 孫文は、清朝への武装蜂起に失敗した後、日本へ亡命していた1897年と、革命成就後の1913年、大正2年3月、梅のころに宮崎を訪問しております。
荒尾市は辛亥革命の立て役者孫文を支援した宮崎滔天と近代化産業化遺産万田坑で、中国人観光客の誘致を図っています。一方、市民団体は100万坪もあった旧陸軍東京第2造兵廠荒尾製造所、通称荒尾二造の歴史的検証と戦前戦後を重ね合わせた町歩きなどマニアックな観光を企画中であります。人吉市は、映画「北辰斜めに射すところ」でもわかるように、独自の気風を感じさせます。
◆紫垣正仁 委員 最後にちょっと確認事項もあるのですが、その前に今、鈴木委員がおっしゃった、熊本にそういう、張さんとかもそうですが、歴史がなかったわけではないので、そこはやはり自信を持って、孫文と孔子は中国、台湾でもずっと尊敬されていますけれども、宮崎兄弟であったり、宮崎滔天とか御存じでしょうけれども、あれも荒尾市が中心にありますけれども、そういう宝をもう一回掘り起こして利活用するというのは、我々
◆紫垣正仁 委員 最後にちょっと確認事項もあるのですが、その前に今、鈴木委員がおっしゃった、熊本にそういう、張さんとかもそうですが、歴史がなかったわけではないので、そこはやはり自信を持って、孫文と孔子は中国、台湾でもずっと尊敬されていますけれども、宮崎兄弟であったり、宮崎滔天とか御存じでしょうけれども、あれも荒尾市が中心にありますけれども、そういう宝をもう一回掘り起こして利活用するというのは、我々
加藤清正の朝鮮出兵はもとより、当時の沙也可などもおりますね、中国革命の父と呼ばれた孫文と深い交流のあった宮崎滔天や、明治時代において中国で日本語新聞の発行に携わっていたのは、大半が熊本出身であったことは、御存じのとおりであります。
加藤清正の朝鮮出兵はもとより、当時の沙也可などもおりますね、中国革命の父と呼ばれた孫文と深い交流のあった宮崎滔天や、明治時代において中国で日本語新聞の発行に携わっていたのは、大半が熊本出身であったことは、御存じのとおりであります。
翌三十一年には、皆さん方大変おなじみの名前でありますけれども、宮崎滔天が設立をした東亜会、これと合体をいたしまして東亜同文会を設立されました。さらに明治三十四年には東亜同文書院というふうな形で正式に開校されたわけであります。つまり言葉はよくないと思いますけれども、上海の東大と言われた東亜同文書院の創設者の一人であります。
翌三十一年には、皆さん方大変おなじみの名前でありますけれども、宮崎滔天が設立をした東亜会、これと合体をいたしまして東亜同文会を設立されました。さらに明治三十四年には東亜同文書院というふうな形で正式に開校されたわけであります。つまり言葉はよくないと思いますけれども、上海の東大と言われた東亜同文書院の創設者の一人であります。