鹿児島市議会 1997-06-01 06月17日-04号
御存じのとおり、明治三十年に建立されました東京の上野の西郷銅像は、多くの国民に敬愛されていると思います。特に、台東区の「敬天愛人の会」の方々、また、台東区の住民の方々によって、年一回の清掃作業、イベントなど開催され、大変ありがたいことであります。私も過去参加したことがあります。明治維新の先覚者として敬天愛人の精神で公明正大な方であり、世界の偉人でもあります。歴史を大事にしようではありませんか。
御存じのとおり、明治三十年に建立されました東京の上野の西郷銅像は、多くの国民に敬愛されていると思います。特に、台東区の「敬天愛人の会」の方々、また、台東区の住民の方々によって、年一回の清掃作業、イベントなど開催され、大変ありがたいことであります。私も過去参加したことがあります。明治維新の先覚者として敬天愛人の精神で公明正大な方であり、世界の偉人でもあります。歴史を大事にしようではありませんか。
八田知紀先生は明治五年宮中お歌掛に任ぜられ、当時の宮中での和歌の指導者であります。ふるさとの桃ケ岡の地名をとり雅号を桃岡と号し、郷土の高崎正風や黒田清綱らの著名な宮中歌人を育成しています。先生の歌は華麗な桂園調の中に雄渾な歌風を持ち、有名な歌に「吉野山 霞の奥はしらねども みゆる限りは桜なりけり」また「いくぞたび かき濁しても澄みかえる 水やみ国の姿なるらむ」の有名な歌を詠んでおられます。
次に、多賀山公園の整備につきましては、多賀山公園改修計画基本設計報告書の中で、専門家によると、東福寺城は、多賀山を含む一帯の丘陵によって形成される山城であったとされ、石垣等は、明治期以降に築造されたものが多いとされております。
そこで、財団法人明治生命厚生事業団体力理学研究所で開発された生活体力の能力測定法を紹介しますと、まず高齢者の体力の概念を機能的に自立して日常生活を支障なく過ごすための身体的な動作能力と定義し、これを生活体力として客観的に評価する測定法であります。この測定は、日常生活の主要動作に関する四つの策定項目から構成されている。すなわち、起居能力、歩行能力、手腕作業能力及び身辺作業能力であります。
明治以来の我が国の行政スタイルに、根本的な変換を迫られるような行政手続法が平成五年に制定されました。この法律で地方公共団体に関する適用除外の分を今回示された行政手続条例で規定しようとするものであると存じます。 以下、数点お伺いいたします。 今回、行政手続条例を制定するに当たっては、どのような基本的考え方に立って策定されたのか。
平成六年度から八年度までの十三ミリから四十ミリまでの新規購入に係る各口径ごと、種類ごと、入札の指名業者、落札業者の実績を申し上げますと、六年度におきましては金門製作所、有馬虎夫商店、鹿児島リコー、大阪機工、東光精機、明治時計、東洋計器の七社を指名し、契約単価について入札をしております。
その二回の大変革とは、一つは、私たちの薩摩藩の先輩たちが、その改革の中心をなした幕末から明治維新にかけての時期であり、もう一つの変革の時期は太平洋戦争後の時期がそれに当たると言われ、この二回の変革の時期におきましては、日本は世界の流れに沿った方向で体制を整えたことから、その後の半世紀ほどは経済の成長と政治的安定を謳歌することができたと言われております。
地ビール製造業者である申請者からの貸付申請の理由でございますが、本県出身者が創業した明治初期のビールを再現することによる県内外への観光PRや、併設ビアレストランとともにウォーターフロント開発事業と一体となった地域振興に貢献したいとのことであります。
また、維新ふるさと館の魅力をアピールするため、企画展を開催するとともに、本年度は明治維新で活躍した先人の遺品等を常設展示することにいたしております。今後とも入館者の増加対策につきましては、さらに努力してまいりたいと考えております。 次に、桜島町と連携した観光行政について、私の方からお答えいたします。 本市と桜島町とは、歴史的にもまた地理的にも密接な関係を有しながら今日にいたっております。
鹿児島のまちは藩政時代、島津七十七万石の城下町として栄えてきており、明治になり、地方制度の施行とともに県庁所在地となり、以後、鹿児島県の政治、経済、文化の中心地として発展してまいりました。また、鹿児島市の発展は上町から始まったとよく言われております。しかし、市長も御存じように、本駅機能が鹿児島駅から西鹿児島駅に移行すると同時に、上町は衰退の一途をたどっております。
我が国の現存する土地に関する資料は非常に貧弱であり、登記所に備えつけられてある字図や登記簿も明治初年につくられたものを基礎として、これらに加除訂正を加えたもので不完全な箇所が極めて多く、特に地図は当時の幼稚な測量技術と課税に対する配慮等のため、実際の土地に比べて大きさも形も違っています。本市の場合もしかりです。
八田先生は明治の宮廷歌人として有名な高崎正風、黒田清綱など薩摩出身の歌人を育てた人物でもあります。寛政十一年に生まれ、明治六年に東京でお亡くなりになりました。その誕生の地西田村、現在の常盤町七百九十七番地に八田知紀誕生地碑があります。当局は昭和四十九年に八田知紀先生の筆による日本画「竹」を、市の指定文化財に指定しておりますが、その八田先生の誕生地碑のそばに史跡表示板を設置しております。
中島議員もお触れになりました地方分権推進委員会から提出をされました中間報告では、今回の行政システムの見直しを明治維新、戦後改革に次ぐ第三の改革というふうに位置づけておりまして、当委員会におきましては、今後政府が地方分権推進計画を作成するに当たっての指針勧告を提出する予定になっておるところでございます。
本市観光の魅力、特色についてのおただしでございますが、鹿児島市は従来から桜島や錦江湾に代表される自然や島津七百年を初めとする幕末から明治維新にかけての歴史や文化など全国に誇れる豊かな資源に恵まれた都市として発展してまいりました。これに加えて本市ではこれまでこれらの自然や歴史性、文化性を生かしながら国際観光都市を目指したまちづくりを積極的に推進してきたところでございます。
明治二十二年四月一日、五万七千八百二十二人の市民とともに誕生した私たちの鹿児島市も四月一日には政令指定都市に準ずる権限を有する中核市として、新たなる出発の時を迎えようとしております。郷土の先輩西郷隆盛や大久保利通らが築いた強力な中央集権の時代から地方がみずからの創意と工夫を凝らして行動を起こしていく地方の時代への幕開けを今まさに迎えようとしているわけであります。
このことはこれまでの国と地方とのシステムを本格的に見直し、二十一世紀にふさわしい新たな仕組みづくりを我が国の地方制度にとって明治維新、戦後改革に続く、いわば第三の改革を目指そうとするものであろうと思います。
鹿児島市も四月一日から中核市として新しい出発をすることになり、明治二十二年の市制発足以来、実に百九年目に新生鹿児島市として二十一世紀へ新たな飛躍の第一歩を歩んで行くことになりました。 ところで、今、赤崎市長は、中核市元年と言われる平成八年度の当初予算をみずからの手で作成されたところでありますが、現在の御感想をお聞かせください。
また、明治維新に活躍した先人の遺品等を常時展示するなど、その機能をさらに高めてまいります。 雇用対策につきましては、中小企業勤労者福祉サービスセンター及びシルバー人材センターの運営費等に対し、引き続き助成いたします。 次に、土木費について申し上げます。 道路及び河川につきましては、道路、側溝並びに河川の整備を行うとともに、橋りょう及び交通安全施設の整備を進めてまいります。
このことは、本市市制にとりましては、明治二十二年の市制施行以来の大きな変革と前進であると思っておるところでございます。そして、潤いと活気に満ちた南九州の中核都市として、本市がさらなる発展を遂げるための一つの契機になるものと私は認識をいたしております。
公園が最初に開設されたのは、明治二十三年の城山公園で、戦前までは天保山公園、祇園之洲公園、南林寺公園、現在の天文館公園でございます、鴨池公園の計五カ所しかありませんでした。 戦災により市街地の九三%を焼失した本市は、戦災復興都市計画事業によって、昭和二十三年から二十九年にかけて、運動公園七カ所、児童公園十九カ所、緑地二カ所の計二十八カ所を整備いたしております。