丸亀市議会 2017-12-06 12月06日-03号
ちょっとこれ絵なんですけど、1988年に瀬戸大橋ができましたけれども、この瀬戸大橋時代ということで、過去に頑張られた宇多津町は広大な塩田を持っとったんですけれども、その塩田を地域振興整備公団というところに委託しまして、いわゆる都市開発をするということで土地をどんどん開発しまして、インフラ整備等もしまして、そしてここに立派な瀬戸大橋時代に向けた都市をつくりたいということで準備をされました。
ちょっとこれ絵なんですけど、1988年に瀬戸大橋ができましたけれども、この瀬戸大橋時代ということで、過去に頑張られた宇多津町は広大な塩田を持っとったんですけれども、その塩田を地域振興整備公団というところに委託しまして、いわゆる都市開発をするということで土地をどんどん開発しまして、インフラ整備等もしまして、そしてここに立派な瀬戸大橋時代に向けた都市をつくりたいということで準備をされました。
次に、今後のさかいで大橋まつりをどのように取り組むかとの御質問でございますが、大橋まつりは本市が製塩、港湾を基盤に発展をなし、その後、瀬戸大橋時代を迎えて今日まで市民とともに築き上げてきた、まさに坂出の文化そのものと考えております。
その後、時代の流れとともに瀬戸大橋時代を迎え、現在の大橋まつりへと変遷をなしたものであります。 祭りには、多くの市民のそれぞれの思いがあり、親から子へ、子から孫へと受け継がれているもので、大切にしなければならない人々の暮らしの営みでもあり、文化の伝承でもあります。
そしてその後、土器線は瀬戸大橋時代を前に瀬戸大橋が完成いたしました昭和63年ごろまでには全線が開通いたしました。ところが、問題は土器町上分団地内の道路は計画道路では全体で2車線のところを自動車の交通を優先してやむを得ず幅員16メートルのままで4車線にしたものと思われます。その結果、歩道幅は1メートル程度と非常に狭いものとなってしまいました。
駅周辺整備につきましては、昭和50年代から瀬戸大橋時代の対応として、一連の鉄道高架事業がスタート、昭和63年3月の新駅舎完成に合わせ、丸亀駅周辺プロジェクトとして、駅前広場、駅前地下駐車場、ミモカ美術館、図書館などが順次整備され、新しい丸亀の顔づくりが進展しました。しかし、一方では、駅前再開発事業については、キーテナントの撤退などによりまして、停滞のまま現在に至っております。
かつては坂出も近隣の島々と人、物の交流に民間船舶会社が運航されていましたが、瀬戸大橋時代とともに廃止に追い込まれましたが、今まさに逆転の発想ではないですが、与島における温泉採掘に伴う観光島構想に乗っかって、かつての島々へのクルージングを復活させていただいて、風光明媚な瀬戸内の海と大橋と素朴な離島、それぞれの観光資源を生かさない手はないのではないでしょうか。
また、昭和60年前後からは、瀬戸大橋時代への対応といたしまして、市街化区域を中心に、連続立体交差事業を初めとする駅周辺整備事業や街路網の整備を重点的に推進してまいりました。
したがって、この中心市街地に対して、瀬戸大橋時代には、実は何の手も打てなかったわけでありまして、今その中心市街地についても手を打っていっておるわけでありますから、息の長い政策をとりながら、これを人口回復、いや食いとどめると、こういう方向につなげていきたいと思っております。 それから、情報公開制度の中で、市長の交際費を公開してはどうかということであります。私も透明度を高めると、こう言っております。
しかし、私は香川の玄関は瀬戸大橋時代を迎えた時点で、やはり地形上からいっても本市坂出であると思っております。一軒家で例えるならば、高松はよく人が集まるリビングルームであり、坂出は玄関であります。気のきいた家の玄関には必ず置物であったり、絵であったり、人が入ってきたときに印象に残るようなものが飾られております。
議員御承知のとおり、本市におきましては、昭和50年代後半より瀬戸大橋時代、さらには21世紀に対応した新しいまちづくりとして、丸亀駅周辺整備に全力を傾注してきたところであります。
坂出駅前の再開発は、瀬戸大橋時代の新たな四国の玄関口としての都市の顔づくり、都市環境の向上を図るために、坂出市第二次総合計画のときから重要な位置づけをされ、平成8年度を起点とした第三次総合計画においても瀬戸内の交流拠点、活力とふれあいの坂出の玄関口の再編整備として、また駅周辺主要プロジェクト11事業の核的事業として重要な位置づけをもって進められてまいりました。
瀬戸大橋時代に対応し、既存商店街の活性化を求めまして、昭和62年度に中央商店街振興組合連合会におきましてもコミュニティ・マート構想を策定し取り組んできたところでありますが、その後、モータリゼーションの進展による交通体系の変化、消費者ニーズの多様化、大店法の規制緩和等によりまして、大きく変化を来しているところであります。
まず、中讃20万都市構想につきましては、議員御指摘のとおり、瀬戸大橋時代の到来を控えました昭和60年の初めから、本市及び周辺市町の商工会議所や商工会を中心にその取り組みが開始されたわけであります。
時あたかもポスト瀬戸大橋時代に入ろうとしておる時期でございました。私は何回も申し上げておりますとおり、ポスト瀬戸大橋後の10年間こそ坂出市にとって命運を分ける非常に大切な時期であろうと思います。ポスト瀬戸大橋の大事業、鉄道高架事業も平成9年の完成に向け着々と進展をいたしております。
瀬戸大橋時代を迎え、観光丸亀のイメージアップがされなければ、環境の整備や駐車場案内システム等、市外の方のための整備は少しずつ前進しておることは非常に喜ばしいことであります。 私は、先般、議会の一般質問において、身体障害者用のトイレを整備してほしいとの発言を行いました。
市長が、市政方針で述べられましたとおり、今、中四国地方では、急ピッチで高速交通網が整備され、まさに瀬戸大橋時代から本州、四国三橋時代への移行期を迎えております。
同時に、瀬戸大橋時代・高速交通時代を迎えて、懸念されておりました国の出先機関や企業の支店も、ほかの都市への移動もなく、高松の支店経済を担っていることに救われる思いがいたします。 こうした中にあって、本市は、高松港頭地区の総合整備事業、そして、各種の都市開発事業、同時に旧空港跡地開発事業等、数多くの大プロジェクトを抱え、同時に、俗に言われます箱物各施設を整備中のものや新規計画も多く見られます。
瀬戸大橋時代とか、今の市長がとは言いませんけれど、市長がここで方針を述べますと、瀬戸大橋時代、高速道時代、21世紀に向けて、言葉だけ出てくるんであります。高速道時代とは何なのか、瀬戸大橋時代とは何なのか、21世紀とはどういう時代なのか、これが全部言葉ばかり出てくるわけですね、これ。だから具体的施策が何もできん。
本市は、これまで本州と四国を結ぶ交通の中心地という地理的な有利さにより四国の中枢管理都市という栄誉を担ってまいりましたが、瀬戸大橋時代を迎えた今日、かねてより危惧されていた、その拠点性の低下が各方面より指摘されており、このまま手をこまねいておれば、瀬戸内海に面した都市として、一通過都市として忘れられた存在になることは必至の情勢であります。
本陳情書の趣旨は、激動の瀬戸大橋時代を迎えた今日、豊かで活気のある住みよい町にするためには、中讃地区2市7町の合併による広域行政が必要であり、当市において合併推進のための何らかの機関を設置して検討してもらいたいというものであります。 陳情を受けて約2年になりますが、その間何回も委員会を開き、時には20万都市実現協議会のメンバーの方々と意見交換するなど、慎重に審査いたしました。