雫石町議会 2021-03-04 03月04日-一般質問-05号
その内容につきましては、先日の答弁で申し述べておりますので、詳細は省略させていただきますが、昭和30年代後半から実施された本町の土地改良事業から半世紀以上が経過し、農業を取り巻く情勢は大きく変化していることから、高規格圃場を整備する時期であると判断し、土地改良区との強固な連携体制の下、本町の農業、農山村の継続的発展に向けて農業者の支援に取り組んでまいります。
その内容につきましては、先日の答弁で申し述べておりますので、詳細は省略させていただきますが、昭和30年代後半から実施された本町の土地改良事業から半世紀以上が経過し、農業を取り巻く情勢は大きく変化していることから、高規格圃場を整備する時期であると判断し、土地改良区との強固な連携体制の下、本町の農業、農山村の継続的発展に向けて農業者の支援に取り組んでまいります。
次に、網張地区宅地造成地の現状についてですが、議員ご指摘の地域につきましては、昭和40年代に民間事業者が長山岩手山地内に造成を行い、宅地分譲が行われたものであります。大自然の中の高原の景観や、夏場の避暑地として、冬場はスキーリゾートとして、また網張温泉や岩手山登山など、多くの観光客を迎えるペンション経営が主体の地域であります。
これまでの本町の唯一の実績としては、昭和45年10月に創業した盛岡セイコー工業株式会社が最初であり、同社は県の誘致企業第1号として、現在でも130名以上の町民を雇用するとともに、近隣自治体からも500名以上の従業員が通勤しております。同社周辺には、複数の焼肉店をはじめとした飲食店、コンビニエンスストアなどの事業所が立ち並び、休日を中心に利用客でにぎわっております。
このように、縁辺革命とも言うべき人口の取り戻しが縁辺部の数十の小規模町村で同時に起きていることは、昭和40年代初頭に過疎が始まって以来の約半世紀以上なかったことであり、大規模、集中、専門化、遠隔化に基づく規模の経済から、循環の経済へのパラダイム転換が起きていることを意味していると思っております。
記 住 所 雫石町七ツ森16番地159 氏 名 菅 原 徹 生年月日 昭和30年9月10日生 以上で同意第1号の説明を終わります。よろしくご同意賜りますようお願い申し上げます。 ○議長(前田隆雄君) 提出者の説明が終わりました。 本件は人事案件でありますので、質疑、討論を省略して直ちに採決したいと思います。
主要地方道盛岡横手を結ぶ県道1号線は、難所山伏峠を越えて開通したのは昭和13年の秋と聞いておりますが、そして山伏峠のカーブの難所を、御所沢鉱山がございましたが、ここを経て盛岡、湯本温泉を結ぶ路線バス運行は昭和25年であります。私もこれを知っております。地域創出の歓迎式典も行われたことも今のように思い出されます。そして、時を経ること70年。
町では、公金取扱いの迅速化、公金取扱いに関する事故防止、公金取扱いに要する経費の節減等に資することを目的に、昭和55年に同組合を指定金融機関に指定しており、これには当時の諸先輩方が築き上げてきた農協と行政の信頼関係が大きく関係していることも事実であり、ここで指定金融機関の変更をすることは今までの信頼関係の一翼と農業を基幹産業とする本町の発展に影響を与えることにもなりかねず、私は望んでおりません。
記 住 所 雫石町七ツ森16番地159 氏 名 菅 原 徹 生年月日 昭和30年9月10日生 以上で同意第1号の説明を終わります。よろしくご同意賜りますようお願い申し上げます。 ○議長(前田隆雄君) 提出者の説明が終わりました。 本件は人事案件でありますので、質疑、討論を省略して直ちに採決したいと思いますが、これに異議ございませんか。
昭和の時代までの農山村においては、確かに農林業イコール基幹産業でありました。単に所得形式の手段が農林業であっただけでなく、人々の生活基盤が農林業に支えられていたからであります。農林業イコール生活基盤産業でありました。食べ物、住居、燃料だけでなく、郷土芸能や唄、祭りなど様々な行事も農林業に根差していた時代であり、紛れもない農村、農業社会でありました。
昭和40年に農業基本計画というのをつくりました。これに基づいて、実際に数えたことはありませんが、100本ぐらいの実施計画をつくっております。全部手作りです。調査も、当局が現在コンサルに出しているような資料も、全部職員が手作りでつくっております。分析もしております。人口推計も職員が二、三の方式でつくっております。私はそこのところを申し上げたいわけです。
また、高校再編につきましても1学級なので、それはそれで当面はよかったなと思っていましたけれども、私的に思うことは当然ながら盛岡圏域の話ですけれども、これ前から言っているとおりですけれども、昭和23年に必然性があるから置いた高校の必然性は消えない、その理念は揺るがない。
団塊世代と呼ばれる昭和22年から24年までの3年間の出生数は806万人であり、単純計算すると団塊世代の3年間で生まれた子供は、現代ではその数に達するには約10年かかるという計算になります。当町においても国勢調査の資料によると、2000年の1万9,750人をピークに人口減少に転じ、2010年には1万8,033人、そして昨年の2019年9月末現在で1万6,452人となっております。
岩手県のホップは、昭和20年代に国分知事が県内の主要なところに試験地を設置して、農村の振興を図ったものです。遠野の冷害試験地、大迫の工芸作物試験地、雫石町の東町にあった工芸作物試験地、奥中山の高冷地試験地、陸前高田の園芸試験地、江刺の県南試験地、軽米の県北試験地です。その中で、ホップが生き残っているのは遠野だけです。
一軒家だから、金かかるから1軒のために電気引かないから、発電機か何かやる分で補助金出すから我慢してくれと、こういうのは昭和30年代あたりから、それまではそんなことでも通用したかもしれませんけれども、この町水道というものが普及するようになってからは、ましてやもう令和の時代です。
次に、昇瀬橋についてですが、昇瀬橋の現状や、かけかえに係るこれまでの経緯については、平成31年雫石町議会3月定例会でも答弁しておりますので、詳細は省略しますが、昇瀬橋は昭和39年に架橋されてから既に55年経過し、老朽化が著しい上、幅員4.6メートルと狭く、平成23年度に策定した橋梁長寿命化計画の中では、かけかえを行う橋梁と位置づけております。
記 住 所 雫石町西安庭第15地割89番地50 氏 名 吉 田 博 輝 生年月日 昭和50年4月17日生 以上で同意第1号の説明を終わります。よろしくご同意賜りますようお願い申し上げます。 ○議長(前田隆雄君) 提出者の説明が終わりました。 本件は人事案件でありますので、質疑、討論を省略し、直ちに採決したいと思いますが、これに異議ございませんか。
そして、多額の国費もつぎ込んでやられていますけれども、それは昭和40年代の後半のあたりがピークで、最近の雫石町の原型ができている圃場整備は、そのころ各地区でやられているわけです。 それで、御所地区ですけれども、御所地区は結局低いところにございました、農地は。
町と農協と農家にとって大事なことは、一度立ちどまって、昭和30年、新生雫石町誕生以来の本町の農業政策がその時々の難問題を解決しながら、自立農家の育成と生産性の向上を図ってきた経緯をしっかり総括、検証するとともに、現状を見詰め直し、今後のあり方を行政主導型で構築することであると思います。 一方、地方圏は少子高齢化、人口減少、過疎化の最前線に立たされ、その克服への懸命な取り組みが行われております。
50地区は、ご承知のように昭和30年代からずっと40年代まで120カ所ぐらいの大小のポンプ、揚水、あるいはため池ということで水田経営がなされておりますが、その延長として片子沢の大型ポンプ揚水があったわけです。これをさらに、今戸沢もそうですし片子沢もそうですが、水利費だけでも1万円かかると、電気料金が上がったことによって。
記 住 所 雫石町長山上小林27番地1 氏 名 小 田 純 治 生年月日 昭和33年4月2日生 以上で同意第1号の説明を終わります。よろしくご同意賜りますようお願い申し上げます。 ○議長(前田隆雄君) 提出者の説明が終わりました。 本件は人事案件でありますので、質疑、討論を省略し、直ちに採決したいと思います。これに異議ございませんか。