宮古市議会 2002-06-10 06月10日-02号
言うなれば、当市は震源域の西側に位置し、今までに明治、大正、昭和、平成と、マグニチュード7以上の地震を体験し、被害にも遭ってきております。 1960年(昭和35年)5月24日未明には、南米チリ沖地震による津波被害を受けたことは記憶に新しく、地震がなくても津波が来ることの教訓を残しております。
言うなれば、当市は震源域の西側に位置し、今までに明治、大正、昭和、平成と、マグニチュード7以上の地震を体験し、被害にも遭ってきております。 1960年(昭和35年)5月24日未明には、南米チリ沖地震による津波被害を受けたことは記憶に新しく、地震がなくても津波が来ることの教訓を残しております。
我が国の町村は、その数は明治21年末に7万1314あったと言われております。江戸時代の自然発生的な字や村を受け継いだものとされております。明治22年末には1万5820、明治の大合併と言われております。約5分の1に減少いたしました。近代的な地方自治行政の実現のための基礎条件づくりでありました。
法の組織が固まり、自治組織が固まったからでも明治からずっと一つだったところであります。ほんのわずかの50年の間それぞれ独立はしておりましたが、その歴史、文化、ほとんど似通っておることに御理解をいただきたいと思います。一体化はそんなに難しいことではないと私は思っているところであります。 次に、合併がかなり強行に進められたとの御発言でありますが、これは極めて民主的に進められたところであります。
しかし、我が国のスポーツクラブは、明治時代末期に主として学校の運動部活動として導入され、その後企業スポーツクラブが誕生し、競技力向上という観点で見れば、歴史的に日本のスポーツクラブはいびつな形態で、この二つのクラブに支えられ発展してきたと言われております。
明治23年の開業以来、110数年の歴史を有する花巻駅は、在来線駅ではありますが、通学・通勤の人波が往来する本市の一つの顔でありますし、現在は駅舎のバリアフリー化や売店や軽食店の新配置などで現代的な施設改善が図られており、喜ばしく感じておりますが、問題は西口改札所の設置や東西自由通用路の改善など総合的な駅舎の改善整備であります。
第51条第1項第4号中「民法」の次に「(明治29年法律第89号)」を加える。 第55条中「もしくは」を「若しくは」に、「看護婦、准看護婦」を「看護師、准看護師」に、「助産婦」を「助産師」に改め、「(明治29年法律第89号)」を削り、同項第1号中「其の用途」を「その用途」に改める。 附則、この条例は、公布の日から施行する。 続きまして、議案第19号でございます。
七ツ森小学校の前身を調べてみますと、明治37年の7月21日に私立小岩井小学校として認可をされております。設置者は、三菱の岩崎久弥であります。同年11月3日に、私立小岩井尋常小学校と名前が変わっております。その後火災によって焼失をしたり、いろいろな経過をたどるわけでありますが、私が申し上げたいのは、昭和59年に現在のところに移転をいたしております。そのときの生徒数は27名であります。
若干乱暴ではありますが、時系列に検証してみるに、貴族を中心とした平安時代から武士・武家の統治する鎌倉幕府成立への移行期、戦国時代を経て江戸幕府の成立期、そして一番近い江戸時代から明治維新への変革期、いずれも古い社会システムから新しい社会システムへと行政システムを中心に変革をしております。また、混乱から収束まで40年から50年かかっているのも共通しております。
これまでの合併の歴史は、明治の大合併と昭和の大合併の2つの大きな変遷を遂げて現在に至っているわけでありますが、その目的はいずれも行政上の基本的事務量や新たに追加された事務を能率的に処理するために規模の合理化が必要となったためであり、その規模も従来からの自然集落的な自治体や人の移動手段と移動可能な距離から、日常生活圏内での自治活動を基本とした規模を想定したものでありました。
滝沢村は明治22年4月1日、明治の町村大合併によりそれまでの大釜村、篠木村、大沢村、鵜飼村、滝沢村の五つの村が合併して滝沢村となって以来人口3万人の規模の市制施行を求めた昭和の合併特例法にも動ずることなく営々と単独の滝沢村として村制施行して113年を経過いたしております。
次に、国・県機関の庁舎問題等を含めて、岩手中部広域圏事務組合内で総合的に将来を見据えた意見交換との質問でございますが、国や県の多くの機関が当市に設置されていることは、明治以来の歴史的背景や、先人のたゆまぬ努力のたまものであり、今日においても岩手中部圏域の利便性や地理的条件は変わっていないと存じております。
明治の初期、そして第2次世界大戦後に次ぐ第3の大改革と言われる平成14年実施の教育改革がいよいよ目前に迫ってまいりました。現在は、その前段期間としていろいろな取り組みが既に各校で始まっていると承知をいたしておりますが、その内容と状況、そして反応などについてお聞きをいたします。
秋田沖の場合には、地震が起きまして5分ほどで第一波が到達しておりますから、大地震が起きてこれまで昭和8年、あるいは明治の際には20分なり30分あったと思われるわけですが、そうじゃない津波もやはりあるわけですから、近年秋田沖がそうであったようにですね、地震が起きて時間があるからというのは、そういう危機意識の持ち方、あるいはそのような危機意識の植えつけは私は間違いだろうと思うんですよ。
五葉山地域のホンシュウジカは明治時代から昭和初期にかけての乱獲により、著しく個体数が減少したため、県では地域の関係機関と協力し、捕獲禁止を初めとする各種の保護施策を実施したと聞いております。その結果、個体数が増加の一途をたどり、農林作物への被害が社会問題化したものであります。
ちなみに、我が国は明治以来上水道の普及率と平均寿命の伸びが重なっております。隣のロシアでは、現在平均寿命が58歳と聞いております。我が国は80歳超えております。 さて、我が国について考えますと、我が国は昔から低い平らな土地、低平地につくり上げた稲作文化の後に世界でも類例のない高度な都市型文明をつくり上げた。そのための宿命を背負っているため、治水対策はまた永遠の課題であります。
ここは気象を観測する場所でありますけれども、歴史が古く、明治16年、1883年、今から 117年前に建設されております。当時全国で12番目の測候所だと、このようになっておりまして、非常に宮古地方が、宮古の市が気象観測、あるいはそのような宇宙、そういうような天体に対して貴重な場所であると、こう認識されたことだと思っております。加えて県立水産科学館がありますけれども、入場者が相当減っております。
日本書紀から明治維新、世界大戦を経て現在に至る中で、漢文、カタカナ、平仮名、ポルトガル語を主体とした外来語、英語を主体とした外来語など、言語の文化は長い間に確実に変化をしております。日本古来の文化は全くすばらしいもので、私たちは誇りにしております。しかしながら、その時代、時代に的確に対応できる日本人像も歴史が教えてくれます。
そしてまた、歴史をひもとけば、12月12日は明治時代の大文化人であった福沢諭吉が生まれた日でもあるそうです。そういう福沢諭吉は、日本は世界の文明国だということを唱えて頑張ったそうでありますが、きょうの記念すべき日に、皆さんとともにこの森を大切にしながら海を育てていきたいなと思っております。これで終わります。
近世以前の釜石の風景を知るもう一つの手がかりといたしましては、明治8年に横浜で発行された英字新聞の紙上に釜石と題する記事が掲載され、その中で外国人が観察した釜石の風景に関する記述がございます。それによりますと、釜石について全くこんなよい土地を見たことがない。湾に入ると全面に半円状の砂浜があり、その右方山の懐に村落が抱かれて位置し、その背面の緑濃き山によってやわらげられている。
この20世紀を振り返ってみれば、明治後半より大正、昭和20年までは世界列強に肩を並べるために、農業農家は国のもとともてはやされ、米、農産物の強制拠出、また働き手の男性は兵役と苦渋の農家生活と国策に翻弄された前期でございました。大東亜戦争終結後は、農地開放により農民は自作農となり、疲弊し切った国民のために食糧増産に日夜懸命の努力を傾注いたしました。