加賀市議会 1999-03-10 03月10日-02号
「瀬越、片野から塩屋に至る海岸地帯は海上からの強風で砂が飛び、村々は次第に内側へと移動させられ、浜中の部落などは消滅している。これを防ぐにはなかなかの難事業であった。」この仕事の詳しい内容はわかりませんが、今日よく知られているのは、小塚藤十郎秀得によるものであります。
「瀬越、片野から塩屋に至る海岸地帯は海上からの強風で砂が飛び、村々は次第に内側へと移動させられ、浜中の部落などは消滅している。これを防ぐにはなかなかの難事業であった。」この仕事の詳しい内容はわかりませんが、今日よく知られているのは、小塚藤十郎秀得によるものであります。
熊坂部落には立派な公民館があるにもかかわらず、高速道路の入り口の加賀セントラル仮事務所に集合しては、酒食をともにして反対者の対策を協議するような日課でした。この協議の様子は加賀市当局者も十分承知していると思うのであります。 次に私は、加賀市農協幹部の役員の手紙であります。「山下さんの主張されていることは同感であります。
また、元加賀市助役であった西要一氏などは、国有林の払い下げを受けて安く買ったのだから部落に戻せと脅迫され、だれのおかげで市の助役になったなどとおどかされて、脅迫されて、ついに屈服して賃貸し提供をせざるを得なかったそうであります。このようなことは山代ゴルフ場、黒崎の百万石時代村構想も同じ手順と轍を繰り返した結果であると思うのであります。
そのとき発掘のトレンチをさらに進めていくと、杉ノ水部落へ行く道路に突き当たり、中止しなければならなかった。この箇所はちょうど第1号窯の真下にあるところで、上絵窯のあるべきはずのところである。有田においても、また近くは松山窯においても、上絵窯は素地窯のすぐ下方に築造され、それが一般的通例をなすのである。2、現在古九谷の数は全国で10万個と言われているが、それは多過ぎる。2万個ぐらいではないか。