小松市議会 2011-03-07 平成23年第1回定例会(第2日目) 本文 開催日: 2011-03-07
それを播磨の港へ出してきて、いろいろと輸送をしたというそういう道筋がございまして、それがこの銀の馬車道ということで、その中のいろんな伝統的なものだとかいうものを組み合わせまして、江戸時代の面影、明治時代の面影をつくっておられました。 まさしくこの産業観光、今回のテーマは伝統でございます。小松にもそんなものがございますし、先ほど来の方の質問にもございました。九谷焼もそうでございます。
それを播磨の港へ出してきて、いろいろと輸送をしたというそういう道筋がございまして、それがこの銀の馬車道ということで、その中のいろんな伝統的なものだとかいうものを組み合わせまして、江戸時代の面影、明治時代の面影をつくっておられました。 まさしくこの産業観光、今回のテーマは伝統でございます。小松にもそんなものがございますし、先ほど来の方の質問にもございました。九谷焼もそうでございます。
その報告書において掲載されたこの図面でありますが、一つは、明治時代、いわゆる土地台帳と言われる古いものであって、もう一つは、それの部分図と言われるもの、そしてもう一つは、市が公図を合成したものというふうに説明がついているものであります。 その報告書において幾つか疑問がありますのでお聞きしていきたいと思います。 真宗大谷派福井別院橋立支院が所蔵していたとされる記帳図、「順記帳」と言われる図です。
これは昨日の一般質問にもございましたが、現在の土地の現況に関する資料は、明治時代の地租改正の際に作成された成果を基礎とするものが多く、不正確なものが多くあり、そのため、土地取引や相続に支障が生じたり税収の正確性に担保がされないといった問題が生じておるわけでございます。
既に明治時代から学校と家庭と地域は、常に相一致し、互いに力を合わせ、同じ方向に進むことが大切であると説いた先人の炯眼には驚かされるところであります。 しかしながら、現在の学校教育は、「学校でしないのはふろに入れることだけ」と言われるまで、子供たちの生活すべてにまでかかわっていると言っても過言ではありません。
明治時代に入り、加賀藩の保護はなくなりましたが、多少の変動はあれ、和紙の需要は長らく続いてきました。かつて、私が小中学生のころには、まだ二俣町や田島町では非常に多くの家で紙すき生産を続けていたことを記憶しています。今でも、二俣町や田島町に住んでいる人で、現在70代以上の年配の皆さんの大半は、コウゾやニレの栽培や紙すき生産作業の経験を持っています。
明治時代の旧村の単位で一つ一つの施設が全部要るというのは、私もちょっと理解はできないわけでありまして、移動サービスをこれはみずからエンジンを運ばれるのか、あるいはお迎えに行くのかはいろいろあるかと思いますが、すべてが今までどおりというのはいかがかというふうに感じております。 それから、市の長期的な財政施策、今林議員が引用されました計画を遂行すれば、市の財政対策としては極めて大きな効果がございます。
古総湯については明治時代の総湯を復元した建築物であります。古総湯は観光振興の一助になると聞いておりますが、経済的に申し上げますと、料金体系、収容人数、それからふろとしての機能など勘案しますと多少苦労するものではないかと考えております。
公民館というのは旧明治時代の小学校単位のところに公民館があるわけですから、市民が一番利便性があるというところにあるので、そういうふうにしていくことを、来年度からは無理かもしれませんが、市長の任期の間に力強く改革をしていただきたいというふうに思いますが、そのあたりの答弁も求めて再質問といたします。 ○議長(杉本典昭君) 市長、角光雄君。
この北陸学院ウィン幼稚園の園舎は明治24年に建てられたもので、一部改築の手は入っておりますが、やはり明治時代に建てられた西洋建築スタイルを残す建造物として、市指定保存文化財にも指定されています。
一方、湯の曲輪の中心に整備する古総湯のモデルとなる明治時代の総湯は、外観の趣だけではなく、日本で初めて浴室にタイルを使った公衆浴場であり、そのタイルが九谷焼であったという史実が確認されております。 このことは、タイルの研究に関して日本第一級と言われております「イナックス世界のタイル博物館」の学芸員竹多氏にも確認をしていただきました。
実は、偶然にも、同じ明治時代に「旧吉野屋旅館」で使われていた九谷焼タイルが残っております。これらの史実を、愛知県常滑市にあります「イナックス世界のタイル博物館」の日本第一級と言われる学芸員の方々に見ていただきました。その方の見解では「一般的に公衆浴場でタイルが入れられるのは大正時代からであります。明治時代の公衆浴場でタイルが使われていたことは全国でも類がなく、日本で初めての可能性が強い。
次に、明治時代の豪壮な建物である明治の館についても修繕を望むものであります。 現代では建築困難な遺産と言われ、平成元年に建物が旧中島町に寄附され、平成6年から一般公開され、観光施設として多くの参観者が入館されております。
今後、この市民向け湯、明治時代の総湯を復元した体験型博物館的な復元湯を、そして街路を含めた景観整備を一体的に行ってまいりたいと思います。そして、皆様のご協力を得ながら、これらの整備によって、全国で唯一と言われる湯の曲輪を再生し、温泉情緒漂う魅力あふれる日本一の温泉街を目指してまいります。 次に、勅使、東谷口地区の乗合タクシーについてであります。
北前船といえば銭屋五兵衛と言われますが、木屋藤右衛門は13代続き、兼六園の徽軫灯篭を献上し、江戸時代には、当時の長者番付で「東の三井、西の木屋」と言われ、明治時代には加賀藩と共同出資で北陸銀行の前身である金沢第十二国立銀行をつくられた方です。また、木屋一族の木谷吉次郎は、幾つもの産業を築き、育英基金を設立し、多くの研究者・学者に援助を行い、いまだその思いを語る人もおられます。
共同浴場では、唯一国指定重要文化財に指定されている道後温泉本館の圧倒的な存在感や、山代温泉の復元湯と同時期の明治時代の共同浴場を復元した飯坂温泉の鯖湖湯の脱衣所と浴室が一体となった趣のある空間に感銘を受けました。 飯坂温泉鯖湖湯を初め、酸ヶ湯温泉、鳴子温泉滝の湯、渋温泉大湯、別府の竹瓦温泉などの歴史ある温泉地には、源泉かけ流しで、シャワー、カランのない共同浴場が今もなお多く存在しております。
まず、セイタカアキノキリンソウの駆除・対策についてのお尋ねでありますが、セイタカアキノキリンソウは、別名セイタカアワダチソウとも言われ、北アメリカ原産の帰化植物で、明治時代に鑑賞用に栽培されていたものが戦後になって河川敷や空き地を中心に日本の西から東へ急速に広がりをし、野生化し、そして非常に生命力が強く、また根から植物の発育を妨げる物質を分泌するため、在来植物の生育に大きな影響を与えるというのが特徴
さて、食育という言葉ですが、福井県出身の石塚左玄という人物が、100年前の明治時代に書いた「食物養生法」という著書の中で最初に使ったそうです。その中で「学童を養育する人々はその家訓を厳しくして、体育・知育・才育・徳育は即ち食育なると観念せざるべけんや」と食育という言葉をここで初めて使い、家庭での食育が最も大切であると訴えています。
それと、山代の場合は、総湯とその周辺に江戸時代とか明治時代とか大正、昭和の建物が残っておる、湯の曲輪というイメージが完全に残っておるところであります。こんなところは日本じゅう探してもどこにもない、オンリーワンですね。片山津の場合は、その湯の曲輪の雰囲気が全くない、すべてが新しくなっておるというような形だと思うんです。
明治時代の総湯については、当時の文献や書物に数多く紹介され、また旅館の引き札にも多く使われている温泉情緒あふれる建物として、有識者だけでなく地元の人たちからも高く評価をされております。 そこで、「湯の曲輪」の中心には、温泉のシンボルとなる明治時代の面影を残し、将来、国宝級財産となるような「復元湯」を整備いたします。
初めに、岩見沢市につきましては、平成17年3月に、明治時代に岩見沢市から分離した栗沢町と北村を編入合併し、人口は約9万3,000人となりました。近隣自治体の人口減少が著しい中、旧岩見沢市は若干の減少にとどまっている自治体であります。