尼崎市議会 2007-02-28 02月28日-03号
さらに、地方自治改革として、三位一体の地方分権政治の流れも相まって、明治維新以来の激動期の真っただ中にいるのが今日であります。そういったことが言える時代だと私は思っております。 白井市長は、1期目、火中の栗を拾うように、尼崎を変えようと、情報公開と市民参画を柱として、当選後、「夢、アシスト、あまがさき。」の方針を示し、行財政改革に取り組み、ここまで持ってこられたことにつきましては敬意を表します。
さらに、地方自治改革として、三位一体の地方分権政治の流れも相まって、明治維新以来の激動期の真っただ中にいるのが今日であります。そういったことが言える時代だと私は思っております。 白井市長は、1期目、火中の栗を拾うように、尼崎を変えようと、情報公開と市民参画を柱として、当選後、「夢、アシスト、あまがさき。」の方針を示し、行財政改革に取り組み、ここまで持ってこられたことにつきましては敬意を表します。
神戸の水道は,明治33年に給水を開始して以来,お客様に安全で良質な水を安定的にお届けするため事業を推進してまいりました。水道は,お客様が健康で快適な生活や産業活動を営むために欠くことのできない都市基盤であり,今後ともより安心いただける水道を目指して,サービスを提供してまいります。
私たちの国では、明治の昔から「教育の道というのは、家庭の教えで芽が出て、学校の教えで花が咲いて、世間の教えで実がなる」、こういった教育のあるべき姿がありました。 今こそ、原点に回帰し、低下した、家庭・学校・地域の教育力の回復と、相互の連携協力を目指さなければなりません。 時あたかも、今、教育改革のうねりが高まりつつあります。
長年本市は国際都市神戸と標榜をしてまいりましたが,確かに国際港──神戸港を抱え,明治開港以来多くの外国人の方々も居住しておられます。しかし,海外からやってきて,どこでも簡単な英語が通じるかといえば現実には難しいようであります。 医療産業のみならず,今後海外からの企業誘致や投資を促進することを目標としております。観光施策においても海外からの集客アップを期待しております。
次の岡本家文書整備活用事業は、江戸時代から明治にかけての大都市近郊における農業経営などの実態を示す未整備の岡本家文書を整理、保存、活用するため、平成19年度は薫蒸処理を行います。 次のページをお願いします。 三つ目の新山口公民館整備事業、次の仮称図書館山口分室整備事業は、仮称山口地区センターの建設にあわせて、センター内に公民館、図書館分室を整備いたします。
明治から大正時代にかけて内務大臣、東京市長であった後藤新平氏は、関東大震災の焼け野原からの東京市復興計画を立案し、尽力されました。
我々が明治のときにできた自然数というのは、田村さんお聞きしたように、3万5,000もあったわけですよ。そのときは、車もなかったわけですよ。だから、徒歩で、自転車でしか動けないような生活空間で自治をしていかなければなかったから小さくなった。しかし、交通機関の発達で、今、もう車で10分乗ればかなり移動できますよね。
これは明治22年──1889年6月21日に神戸市が開庁されて以来の愚挙であり,神戸市民の神戸市会並びに神戸市政に対する信頼は地に落ちました。 このような事態を受け,神戸市民の信頼を回復すべく,この神戸市政治倫理に関する条例を制定しようとするものです。
そういう意味では,例えば京都のように何百年という歴史が背景にないものですから,明治以降ということになろうかと思いますけれども,外国人居留地として非常におもしろい財産を持っている。
そして,市民の方に,地元の芸術家の方々のすぐれた作品を直接触れていただく,直接一元的に触れていただく,そういう機会を提供することによって,明治の開港以来神戸が培ってきた文化を,これを市民の方々,もちろん観光客も入ってもいいわけですけども,そういう方々に提供できればという,そういう思いから今回の美術館構想を動かそうとしているものでございます。
それが9年間、小学校1年から9年までというのが今、考えられている小中一貫教育でございますけれども、小野市の場合、先ほどもございましたが、現行制度の中で小中の連携、つまり今までは小学校6年と中学校3年、この小学校6年が非常に大きな壁があった明治以来の制度でございますので、だから、小学校の先生同士は知っている。中学校の先生同士は知っているけれども、小学校の先生、中学校の先生、全くわからないです。
閑谷学校はたしか孔子の教えか何かをバックボーンにしてやられたと思うんですけども、その孔子の教えを聞きながら、あるいは教えてもらった方が明治、大正、昭和、戦後を含めてこの地域のリーダーとしてかなり活躍された方がいらっしゃいます。そういう意味で、それは別に文部省がやってきた教育とは若干違う部分があったかと思うんですけれども、それは地域・地域に合った教育をしていったんだろうと思います。
また,江戸時代の木々の伐採によりはげ山化した六甲山は,先人の努力で明治に入り植林が進み,今の形になりました。そして,山上の夏を彩るアジサイの花もすべてが自生したものではなく,山上のホテルが中心となり,魅力づけのために植えていかれ,今があるとお聞きします。
ただ、出石の城下は、明治9年の大火によって旧市街地の80%以上を焼き尽くしております。この火災による被害は、全焼戸数が966戸、半焼戸数5、全焼の社寺39、全焼土蔵290、全焼の部屋186に及んでおります。
また、平成17年度には死亡数が出生数を上回り、自然増加が明治32年の調査開始以来初めてマイナスとなり、我が国の人口は減少局面に突入しております。 少子化の進行等による人口減少は、我が国の経済社会にさまざまな影響、問題を及ぼすものと考えられます。国では、今後も出生数の減少による若年労働者の減少と高齢者の引退の増加によって、労働力人口は高齢化しながら減少していくと予想しております。
○議員(26番 安治川敏明) くれぐれも申し上げておきたいのは、但馬の9つの公立病院は、いずれも国県の支援があったとはいえ、明治以来、苦労して住民が協働でつくり上げてきた病院であります。我々自身がオーナーでありますから、その点をお互いに確認して、今後スケジュールをしっかりと詰めてもらいたいと思います。 次に、ごみ・汚泥施設関連の問題について、二、三お尋ねをしたいと思います。
明治7年5月に大坂──この「オオサカ」は、現在のこざとへんでなく、つちへんの「坂」でした。明治7年です。大坂と神戸間に官設鉄道が開通されました。途中の駅に西ノ宮駅と三ノ宮駅が設置されました。既に西宮町は存在していましたが、なぜ駅名に三ノ宮と同じように「ノ」が入ったのか、いろいろ図書館で調べましたが、わかりません。
明治初期の3年間、日本滞在中、桜の美しさに魅了され、日本の桜を愛した一人のアメリカ人女性の熱意がきっかけとなり、当時実のならない桜は価値がないと思っていたアメリカの人々に、本当の美しさを伝えたいと、20年間以上関係者にポトマック河畔への桜植樹を訴え続けて実現したとの熱意の史実や、それにこたえようと困難を乗り越えた多くの関係者と、伊丹市の先人の技術と執念が花咲いたすばらしい伊丹市の誇りを確認し、未来に
余部鉄橋は明治42年に工事着手され、明治45年3月1日に開通いたしました。約100年近い年月の間、住民の足となり、余部地区住民の誇りとして存続してまいりました。その間、昭和61年12月28日には回送中の列車が鉄橋から転落するという痛ましい事故が起こったりもいたしました。しかし、その後、数重なる検討の後、平成13年にコンクリート橋へのつけかえが決定され、現在に至っております。
さて、去年のことになりますけれども、我が国が明治32年に人口動態の統計をとり始めて以来、初めて出生数が死亡数を上回り、総人口が減少に転じる人口減少社会が到来いたしました。平成17年の出生数は、初めて110万人台を割り込み、106万2,532人と、過去最低を記録いたしました。