西宮市議会 2011-02-17 平成23年 3月(第16回)定例会−02月17日-01号
文化財については、古墳時代後期の市指定史跡である老松古墳の平成23年秋からの公開に向けた整備に取り組むとともに、国指定史跡西宮砲台の保存管理計画を策定するなど、史跡の保存に努めてまいります。
文化財については、古墳時代後期の市指定史跡である老松古墳の平成23年秋からの公開に向けた整備に取り組むとともに、国指定史跡西宮砲台の保存管理計画を策定するなど、史跡の保存に努めてまいります。
それと、岩屋は、古墳時代から現代に至るまでの歴史の物語性が散らばっているまちであります。かつて、和歌の道というので、淡路町のときにもやりましたけれども、それをもう一回掘り出して、町案内をさせる人を養成したりとかということで、ぜひモデル地区としてやっていただけたらなと思いますが、その点。 もう時間がありませんけれども。 ○議長(蓮池久志) 企画部長、宮本 肇君。
ただ、弥生時代以降の遺物が全く出てきておりませんので、古墳時代になったときに、この会下山一帯に住んでいた弥生人というのは、低地へ移動したんではないかなというふうに私は推測いたしているのであります。
寺山古墳は約1,500年前の古墳時代後期に築造された直径約15メートルの円墳と推定されています。市内に6基ある古墳のうち、横穴式石窟を持つ古墳の発掘は初めてで、発掘の成果が注目されております。木棺や人骨は腐敗などでなくなっていたが埋葬されていた人物が身につけていたと見られる耳飾りやガラス玉など、約30点が見つかったと言われております。 ここで第1点目の質問をします。
今のところまだ確定はしておりませんが、大中遺跡の位置づけが、実は古墳時代への息吹を感じるというような位置づけになっておりまして、幕あけ、古墳時代のまさに扉を開こうとするような大中遺跡の位置づけでなかったかと、その辺を研究テーマにしまして、大中遺跡を取り上げた特別展を開催する予定でございます。
また、県立考古博物館と連携して2館で「古墳時代への息吹を感じる大中遺跡」をテーマとした特別展を開催します。さらに、老朽化した空調設備の改修工事を行い、施設の良好な管理に努めます。 (16)播磨町の特色ある「大中遺跡まつり」が20回目を迎えます。年々参加者も増加していますが、これを契機に内容をさらに充実させ、町内外の住民の交流を深めるとともに、播磨町の誇りあるまつりとして全国に発信します。
また、一つの提案ではありますが、川西市内の縄文・弥生古墳時代の遺跡を魅力あふれる内容で、宣伝紙かパンフレットをつくり、市民だけでなく市外へもアピールしていくべきと考えますが、いかがでしょうか。せっかくある貴重な遺跡です。維持のためのお金も投資しております。将来的観光資源としてアピールもし、整理していくべきではないかと考えますがどうでしょうか。
宝塚が抱えるたくさんの財産、特に歴史、この間も1600年前の古墳時代の前方後円墳などが見つかりました。いろんなそのような宝塚の宝を発信していく力をこれからもますますつけていかなければいけないことは痛感してございます。
特に、上郡町におきます平安時代も含めて、あるいは古墳時代も含めて、かなりこの地域が栄えていたという歴史があるように聞いておりますので、ここも生かしていきたいと思っております。 ○議長(田渕重幸君) 3番。 ○3番(大政正明君) 次へ行きます。25ページをお願いします。
加古川市の古墳時代の隆盛は、際立ったものと考えられます。一級河川加古川の恩恵に浴して優秀な渡来人たちの拠点として栄え、その痕跡が古墳群にも表われていると考えられます。古墳時代を偲ばせる公園風空間、資料館の設置、大活躍した豪族、それは加古川北部・西部一帯、今でもそのDNA持って現存しておられる大多数のハタ姓の方々を思い浮かべて、奏一族であったと私は考えております。
潮江再開発の際、古地図に残る猪名荘遺跡が発掘され、古墳時代から中世に至る間の遺構や遺物が発掘されて、奈良時代の考察に多くの資料となる歴史的な発見であると評価されたものでした。発掘現場が公開されたときには、市内外から多くの見学者が訪れました。
部長室の仕切り壁の撤去 市長室はぜひ1階に ウ 改革提案・企画書への挑戦 (2) 地域経済力を高める手立てを組もう 宝塚二元都市論再考 ア 武庫川の水辺を生かそう イ 緑の回廊・山なみを生かす ウ 西谷地区をもっと活用しよう CSR・丸山湿原・少年自然の家の連携 (3) 歴史的な掘り起こしを仕掛けよう ア 縄文から古墳時代
中でも宝塚の場合は、7世紀のいわゆる終末期という古墳時代の一番終わりぐらいの時期の古墳が集中したところでございまして、学会でも長尾山型古墳という名前で呼ばれている部分もございます。これは、近畿の古墳が消滅していく中で、なぜこの地域だけがこういった形で古墳が残るのかということがなぞになっておりまして、この地域と、それから近くでは芦屋市の八十塚というところが、約80基ぐらいの古墳が固まっております。
次に、安倉高塚古墳についてのうち、観光資源として認知し、観光パンフレットに載せるべきということについてでございますが、この古墳は中国・三国時代の呉の国の年号「赤烏7年」西暦では244年だそうでございますが、この赤烏7年の銅鏡が出土した古墳として有名であり、弥生時代から古墳時代にかけて、我が国で統一国家が生まれる時期の古代史を解明する上で貴重な歴史的遺産であると言われております。
加古川市は、偉人であられる聖徳太子が活躍された一つの大いなる場であり、それ以前の古墳時代、神話時代など、日本史の黎明期においても、まことに豊かに輝いていたところであります。それは、加古川市が文化財の宝庫であることからも実証されますし、考古学や特に8世紀における古事記、日本書紀、播磨風土記など、歴史書が証明しているところであります。このような清流文化都市加古川についてお尋ねいたします。
工事計画地内には、古墳時代から平安時代にかけての王子辻ノ内遺跡が存在しているため、区画整理事業を実施するにあたっては、事前に遺構の範囲を確定し、保存のための協議を行う必要があります。 このため当初予算として、調査委託料29万1,000円を計上しておりましたが、本年度に入りまして、当該事業の工事施工区域が確定され、調査範囲が広がったため、146万9,000円を増額しようとするものであります。
また、昨年3月には地元の協力をいただいて、大阪市立大学によって愛宕山古墳の墳丘測量調査が行われ、後円部の計約53メートル、高さ約9メートル、前方部の長さ約35メートル、高さ約5メートルをはかる、全長約91メートルの規模を持った古墳時代前期末ごろの前方後円墳と確認され、県下でも10番目の規模を誇ることから、本市の重要な文化財として本年4月に市指定文化財に指定したところでございます。
また、古墳時代から連綿と続く歴史とモダンで瀟洒な文化は、個性豊かな市民の生活文化を創造しており、他都市の追随を許さない市民活動の層の厚さにつながっています。 そのような環境に囲まれて、互いに信頼し合い、心豊かに暮らすことのできる、品格のある都市を思い描いて誇れる宝塚としたいものであります。
また沖田遺跡においては、古墳時代のものとしては全国的にも珍しい土馬が見つかっており、弥生時代や古墳時代の貴重な遺跡であることから、平成4年3月に兵庫県指定文化財となっております。 また竪穴住居、高床倉庫を復元し、保存して、市民の憩いの場所として、歴史学習の場として広く活用されております。
また、公園地内一帯には、弥生時代から古墳時代にかけて、県下唯一の桂谷遺跡などの古墳群が85カ所も調査で確認され、そのうち21カ所の発掘調査が行われ、平成13年度すべて調査を終えたことについて報告があったところであります。