「天正のころ
山本に
膳太夫という者がいて
造園のことをよくしたとか、
山本の何某が
接木の術にすぐれていたので、
豊臣秀吉が感心して
木接太夫の
称号を彼に与えたといった話が伝わっている」というふうに
記載されています。また、この
市史の中におきまして「摂
陽群談」の
記載、「
摂津名所図会」の
記載がそこに書いてございますが、それにつきましてはまた後ほど
説明をさせていただきたいと思います。
続きまして、7
ページをごらんください。
7
ページは、
資料の2「
宝塚市大
事典」からの文書でございます。この大
事典の中で
木接太夫(
坂上頼泰)についての項目が
記載されておりまして、4行目のお尻のところからでございますが、「
坂上頼泰は足利13代
将軍義輝に仕えたが、
多田御家人の一人」ということで、6行目の後段でございますが、「
頼泰は退隠して
山本で余生を
園芸にかけたが、
接ぎ木の方法を発明した」という
記載がございます。また、11行目でございますが「
豊臣秀吉がこれを聞き大阪城で
頼泰を引見し、
技術のすばらしさに『
木接太夫』の
称号を与えた」というふうに大
事典の中で
記載されております。
続きまして、8
ページをごらんください。
8
ページは
坂上系譜でございます。これは、9
ページのほうをごらんいただきたいのですが、元禄10年(1697年)に書かれました
坂上系譜でございまして、
坂上頼泰から5代後の
坂上家の
坂上頼屋という方が書かれたものでございます。
次、10
ページをごらんください。
この系譜の抜粋をいたしまして、
頼泰公の
部分を提出させていただいております。ここは漢文になってございまして、少しわかりにくい
部分がございますが、この
資料の後ろから7行目の後半
部分、「豊臣」という文字がございます。ここから主に
坂上頼泰の
内容につきまして、ここのところを少しどういったことが書いてあるかということを
説明させていただきますと、
頼泰は
豊臣秀吉の親衛についたということと、朝鮮の役に従軍し、帰国後に退職し、その後
膳太夫という
名前となったということが書かれています。また、その後に、慶長2年(1597年)4月2日に享年83歳で亡くなられたという
記載でございます。
坂上系譜におきましてこのように
頼泰公の
記載がございます。したがいまして、実在の人物であるということがこの
資料から言えると思います。
また、
膳太夫というふうな
記載がございます。
坂上頼泰公は、武士の時代には
頼泰公としてのお
名前でございましたが、退隠して町人となってからは
膳太夫というお
名前に変わられたということで、
坂上頼泰公、また、この後
膳太夫という表現も幾つか出てまいりますが、同一人物であるということで読んでいただきたいというふうに思います。
続きまして、
資料の11
ページをごらんください。
これは「摂
陽群談」という
書物でございまして、
先ほど「
宝塚市史」の中でも引用されておりました元禄14年(1701年)に発行された
書物でございます。
摂津の国の地方の地史ということで、第16巻ということで、各地の名物であるとかお土産物を書いたものの
史料でございます。
12
ページをごらんください。
丸をつけてございます。「同
植木」ということで
山本の
植木というのが項目としてございまして、
山本「ヨリ
大坂天満ノ
市店ニ荷出當所ノ
土俗木ヲ撓
接樹スルノ術ヲ得
テ樹接太夫ト稱スルノ家アリ」という
記載がございます。この
内容は、
山本の住民で、木を細工して
接ぎ木する術を得て
木接太夫と称する家があるという
内容でございます。
続きまして、
資料13
ページをごらんください。
「
摂津名所図会」でございます。この
文献も
先ほどの「
宝塚市史」の中で引用されていた
文献でございまして、
資料の14
ページをお開きください。
この中で「
木接太夫旧屋」というものがございまして、「
摂津名所図会」といいますのは
摂津の国の
名所を紹介した
地方史ということで、1798年に刊行されました。丸を2つつけておりますが、その後のほうで「
木接太夫旧屋」というものがございます。この
内容につきましては、
山本の者で木を
接ぎ木する妙術を得たり、どういったことが書かれているという
意味で
説明をさせていただきます。
豊臣秀吉に大坂城に招かれ、木を接ぐ
接ぎ木の術を披露いたしまして、少し省略をいたしまして後半でございますが、
秀吉はこれに大変感動し、
木接太夫という
称号を与えられたという
記載がここに書かれてございます。
次、15
ページでございますが、「
早引人物故事」という
書物でございます。これは、16
ページをごらんください。文政8年(1825年)に刊行されたものでございます。
17
ページをごらんください。これは、
木接太夫は
大坂の人、諸木と
接ぎ木という妙術を得て、よって
秀吉、
大坂の城中に召され、その名を
木接太夫と呼ばれるということで、こちらの
書物につきましても
秀吉に呼ばれまして
木接太夫の
称号を与えられたということが書かれている
書物でございます。
続きまして、18
ページをごらんください。
18
ページは「
攝北温泉誌」という
冊子でございまして、大正4年1月に発行されました。その中の一文といたしまして、19
ページをごらんいただきたいのですが、「
山本停留場は南三丁にして『閻王の口や牡丹を吐かんとす』と蕪村の咏みし所、昔
豊太閤の知遇を得て
接木太夫の稱を賜はりしは
阪上善太夫にして」という
記載がございます。この「
攝北温泉誌」といいますのは、
阪鶴鉄道でありますとか阪急電鉄のそれぞれの
駅ごとに、その駅の付近の
名所でありますとか温泉でありますとかそういったものの
説明がされている
書物でございまして、その中の
山本駅の
記載の中に、
阪上善太夫が
木接太夫の称を賜ったという
記載がここに書かれてございます。
次、20
ページをごらんいただきたいと思います。
こちらの
書物は「
木接太夫坂上頼泰の生涯と
彰徳碑建立の経緯」という
冊子でございまして、
木接太夫の没後400年の際に
実行委員会を立ち上げられまして書かれた
冊子でございます。
21
ページ、こちらには昔の
山本の地図が書いてございます。
21
ページの後半は「
山本荘司坂上頼泰について」ということで、武士としての活躍の記録がございます。
22
ページ、左の後半でございますが、
坂上系譜ということで、
先ほど説明をさせていただきました
坂上系譜の一文も引用されています。
その後、23
ページの右側、上段の
中央部分でございますが、前人未到の
木接術の発明と、広く
山本園芸の名を世間に知らしめた人という
説明が書かれてございます。
また、23
ページの左側、下段の最後のところでございますが、
木接太夫彰徳会趣意書ということで、
地元におかれまして
木接太夫の功績をたたえようということで
彰徳会が立ち上げられまして、その
趣意書がそちらに書かれてございます。
24
ページをごらんください。
左側、上段の後ろから2行目でございますが、「
木接太夫彰徳碑の碑文」ということで、現在の
彰徳碑に書かれている碑文がこちらに書かれてございますが、その中で24
ページ左側、下段の
中央部分でございます。途中からでございますが、
善太夫は
接木を善くす、
豊臣秀吉が大坂城に召して竹と木を接ぐことを命じて、それで
接ぎ木はうまくいったわけなんですけれども、その術を
豊臣秀吉が感心して
木接太夫の
称号を賜うということの
内容が碑文に書かれてございます。
そういった形で、この
冊子は没後400年の際に
地元のほうでまとめられたもので、26
ページをごらんいただきたいと思いますが、26
ページ右側、下段の最後の
部分でございますが、
園芸年表の中に、文禄2年、
坂上頼泰が
接木の術を発明し、
豊臣秀吉より
木接太夫の
称号を与えられるというふうに書かれてございまして、これまで申し上げました「
早引人物故事」、「摂
陽群談」、「
摂津名所図会」、こういった
書物をもとに年表がつくられています。
ちょっと走っての
説明になりましたが、提出させていただきました
文献について
説明をさせていただきました。
また、
資料の3
ページをごらんいただきたいのですが、前回の
委員会のときに、ほかに
木接太夫という
称号を与えられている人がいないのか、関東のほうでもいないのかということについての御質問をいただきまして、
日本三大
植木産地である福岡県久留米市、また埼玉県川口市に問い合わせをいたしました。また、市内の
園芸団体の方にもそういったことがあるかどうかということについて確認をいたしましたが、そういったことについての事実は確認できておりませんということで、前回の御質問についての回答とさせていただきたいと思います。
説明につきましては以上でございます。
○
大河内 委員長 それでは、
質疑はございませんか。
たけした
委員。
◆たけした
委員 今
説明いただいた
資料の6
ページなんです。第3節の1行目から2行目のところなんですけれども、「
山本に
膳太夫というものがいて
造園のことをよくしたとか」というのは、この表現については、昔の言葉でそう聞いていますとかなのか、本当にちょっと聞いたよとかそういう
意味の「よくしたとか」というところなのか、
信憑性という
部分に関してはちょっと疑問にこの言葉は思ったんですけれども。
○
大河内 委員長 岸本担当次長。
◎
岸本 秘書業務担当次長 この
記載につきましては、その
ページにも書かれている
摂津名所図会の中でも書かれておるんですが、
先ほど説明をさせていただきました
資料の
摂津名所図会、14
ページをごらんいただきたいんです。
丸を2つつけさせていただいておりまして、
先ほどは少し
説明を省略させていただいたのですが、
山本善太夫旧屋という項目がございます。これにつきましては、
山本村の者で名誉の庭造なり石を畳み樹木をためてということで、ここの
山本善太夫旧屋といいますのが
山本善太夫の旧屋にはすばらしい庭があるという
記載でございまして、
摂津名所図会のこの
文献をもって
宝塚市史の
先ほど委員がおっしゃいました「
山本に
善太夫という者がいて
造園のことをよくしたとか」ということにつながっておるかと考えております。
○
大河内 委員長 たけした
委員。
◆たけした
委員 だから、言っているように、「よくしたとか」というのは
信憑性という
部分に関しては聞きづてというか昔から申し送られてきてということであって、当時の人が確実に確認したとかというのではないということですね。
○
大河内 委員長 岸本担当次長。
◎
岸本 秘書業務担当次長 そうですね。根拠といたしましては、
摂津名所図会の
内容が昔から伝えられてきていることを中で書かれていると思いますので、どのように言い伝えられてきたかということはちょっとわかりませんけれども、昔から語り継がれてきたことが
摂津名所図会に書かれておりますので、そういった
意味での根拠にはなろうかと思います。
○
大河内 委員長 たけした
委員。
◆たけした
委員 摂津名所図会というのが、これだけ
史料がそろっているんだったらもちろん当時からの本物だと思うんですけれども、今回に関しては今の
資料1の
説明の中での
質疑応答なりと思うんです。一応、
人となりと、
名前が
秀吉からもらったという
部分はわかりました。あくまでもこれは
史料の中での話であって、現時点ではこの
書物に書かれていることというのはあくまでもそうなんだろうなと思うんですけれども、ただ、これから話をする
名誉市民とかというのには、つながりとしてはちょっとまだわかりにくいのかなと。あくまでも
人となりがわかった
書物だけなので。
山本の方というのはもちろんわかりますし、
造園の方というのもわかります。どれだけ
影響を与えたかということに関しては今
余り説明がなかったんですけれども、簡単でいいので。
○
大河内 委員長 下浦産業振興室長。
◎下浦
産業振興室長 今質問いただきました
接ぎ木の術がどのような
影響を与えたかということでございますけれども、
資料5のほうをちょっとごらんいただきたいんです。43
ページでございます。
接ぎ木の術の
説明を43
ページではさせていただいておるんですけれども、その裏の44
ページのほうに、これによってどのように私どもの今の生活の中に
影響があったというか、恩恵を受けているかということを一部ですけれども書かせていただいています。いろんな花ですとか植物、特に果実については全て
接ぎ木の術があって、例えば発育を早くしたりですとか害虫から守っているですとかそのような、それからもちろん甘くする、おいしくする、大きくする、全てこの術があって今、私どもが口にしているというふうな結果になってございます。これがなければ、例えば
ブドウにすれば小さい酸っぱい
ブドウしかないでしょうし、具体的なことになればこういうふうなことが今言えることだと思います。
○
大河内 委員長 岸本次長。
◎
岸本 秘書業務担当次長 あと、それと
坂上頼泰公が
接ぎ木の術にすぐれていたということで、
宝塚市は千年の
植木の歴史がございますが、
坂上頼泰公が
接ぎ木の術を発明したと言われているのが約500年前でございます。千年の歴史の中で16世紀の後半に
接ぎ木の術というものが
宝塚で発明されまして、そこで飛躍的に
園芸というものが発展をいたしまして、今日の
宝塚が
日本三大
植木産地の
一つと数えられるようになった、
宝塚市の
植木産業を揺るぎないものにしたということで、大変本市の発展に貢献をいただいた方であると言えます。
○
大河内 委員長 たけした
委員。
◆たけした
委員 これを
資料1で聞いていいのかちょっとわからないんですけれども、
植木産業を揺るぎないものにしたとおっしゃいました。では現在の
宝塚市の
植木産業、どうなんですか、実際の話。上向きなのか下向きなのか、それによって今後の
資料2から6というのは
大分意見が変わってくると思います、僕の中で。
○
大河内 委員長 下浦室長。
◎下浦
産業振興室長 今質問いただきました
宝塚の
植木産業はどうかということでございますけれども、統計としては2005年、2010年という形で比較をしております。売り上げというか生産、そのような
部分については約二、三割
程度下降気味です。やはり
日本の
住宅事情ですとか開発によりまして農地がなくなっていくとか、そのようなことが原因だと思うんですけれども、大きな屋敷がなくなり、昔からの例えばクロマツとかマキとかいう
植木がこのごろ需要がなくなっていき、
マンションですとか家についてもやっぱり
駐車場を多くとって庭が少ない家がふえてきていますので、
植木自体の需要ということになればやっぱり減ってきております。ただ、それだけではなしに、
住宅事情に合わせていろんな
植木から花卉に移行するとか、そういうふうな取り組みはしておられるんですけれども、全体的にいえばやっぱり
下降気味、よくないというふうな方向に今は来ております。
○
大河内 委員長 たけした
委員。
◆たけした
委員 今おっしゃられたように、2005年から2010年で二、三割下降なんですよね。もう既に6年たっているんですよ、10年から。本当だったら2005年、2010年、2015年のデータも欲しいところなんです。ただ、今のままの話でいくと、もうちょっとやっぱり下がっているのかなと。私も
山本に住んでいるんでわかるんですけれども、どんどん
植木の場所が家に変わったり
マンションに変わったりとやっていて、それを見るにしても、もっともっと下がってきているんじゃないのかなというような傾向があるんじゃないのかなと思っています。
だからこそ、前回の
委員会のときにも言ったんですよ。何で今の時期なんやと。じゃ、こういう
名誉市民の
称号を与えるんだったら、こういうきっかけがあってこそ何か取り組むべきイベントだったりというので盛り上げていったらいいじゃないのと言ったんですよ。だから言っているんですよ。現状が今落ち込んでいるんですよね。じゃ、上げるタイミングってここじゃないんですか。
資料1ではわかりましたよ、この方がどういうすばらしい方なんかと。だから余計もったいないじゃないですか。そこを言っているんですよ。まだ後半の
資料もありますから、これ以上は言いませんけれども。
○
大河内 委員長 中野委員。
◆中野
委員 資料を出してくれとお願いしていて、
資料をこれだけ出していただいてありがとうございます。苦言するとすれば、初めにこの
資料を出してくれたほうがよかったなと。1回目の
議論のときにこういう
資料が出ていないもんやから、いえば判断できないという
部分でちょっと延びているというのが
一つあるので、当然議案として出して、議員さんは自分らで勉強せえよというのはあるんかもしれへんけれども、こういう
資料をちゃんと出してもらわないとなかなか判断しづらいというのが
一つあります。
今回出していただいた
資料を見ると、なるほどなと
理解を僕はしました。ほかで
称号はないんかといって、今のところはないと、
木接太夫についてはね。というのも
理解をしますけれども、
あと一つ気になったというか教えてほしかったのは、前回の
議論でもあった
木接ぎの術のすごさみたいなのを、
先ほどちょっと
下浦室長から言っていただきましたけれども、
頼泰公が
接ぎ木の
技術にたけていた、発明したという話もあります。確かにいろいろあれから調べると、
接ぎ木の
技術というのはやっぱり結構たくさんあるんです。
坂上頼泰公が発明した、多分そうかもしれません。でも、あちこちで過去にも古い
史料にも発明されている事実があったりとかして、当然、当時は情報がそんなに頻繁にされていないですから、多分別々で発明しはったんかもしれへん。どこかの過去の
技術を伝承したという感じではないんやろうけれども、
頼泰公が発明した
接ぎ木の
技術、やっぱり
一つは
植木に特化しているのかなという気はしました。
先ほど言われた
接ぎ木の
技術のすごさ、要するに
食文化にもかなり
影響を与えているというとこら辺で、要するにここが起点で伝播していっていろんな形の
食文化に
影響を与えたのか、多分それをまた証明するのは難しいと思うんですけれども、でも確実に
食文化に
影響を与えた
一つにはなっているんやろうなというふうに
理解をしますけれども、そこら辺の見解はどうですか。僕は勝手に
理解しているんです。
一つは発明ということと、要するに
技術にたけていて
木接太夫という
称号を得られたというのは当然わかりました。それが広まって
食文化にまで
影響を与えたのかというとこら辺の
部分というのが、そこの記述が当然ないので、
技術のすごさは当然わかりましたし、そこら辺の見解だけですわ、だから。
○
大河内 委員長 福永企画経営部長。
◎福永
企画経営部長 接ぎ木の
技術によりまして、よく言われているのは、例えば
生産量がすごく飛躍的に伸びたとか、あるいは
大変品質がよくて、あるいは例えば果物なんかはなかなかその地域ではとれないようなものまで生産できるようになった、そういうことが言われています。果物だけでもそうですので、
接ぎ木によっていろんなところの
食文化といいますか、国内だけに限らず、
食文化を通じて人々の生活をすごく豊かにした、大変すばらしい
技術やというふうに認識しております。
○
大河内 委員長 中野委員。
◆中野
委員 一つ、それが例えば
木接太夫が起点となって広がったというとこら辺というのは、多分
文献を探してもなかなかないんやろうなとやっぱり思いますわ、僕も。ただ、
宝塚で今回
名誉市民という形で
称号を与えようと、
一つの
技術をやっぱり特化して磨いて広げて、広げてというか、全国という
意味合いじゃないかもしれませんけれども、ここでいったら
豊臣秀吉ですから大阪かもしれへんけれども、そういう中で広がっていった、それが伝播していったのかなというのは何となく推察できるんです。そういう
意味でいうと、そこの功績をたたえるということについては、僕の中では何となく
理解ができてきているかなと思っています。
例えばいろんな
議論をされている
資料もいただいていて、そういう
議論もしているんですよね。発明したというとこら辺というのが、要するにここの
議論というのは難しい
議論やねんなというのは思いました。当時当然、さっきも言いましたけれども、情報がつながっているわけじゃないですから、そこここで発明した、でも
宝塚でも発明したんかなというのは
理解して、初めてというとこら辺だけはちょっと気になるところですけれども、初めてという捉え方というのが歴史的に見たときに初めてではないと僕は思っていますから、それはそれとしてちょっと気になるところでもあるけれども、でも、その
技術もここに特化してやったというとこら辺では何となく
理解はしました。意見ぐらいで。
○
大河内 委員長 他にございませんか。
北山委員。
◆北山
委員 いろいろ
資料請求をしまして、実に丁寧に調べていただいてありがとうございます。
私に
市民の方から、
一つの
違和感と言ったらいいのか、私たちも
名誉市民の
称号を贈ることに対して、広い
意味で、この方は別にしまして、やっぱりこれはまさに議会を挙げて、
市民を挙げてたたえるというものだと思うんで、みんなが本当にそうやなと
違和感を持たずに事を進める必要があると思っていますから、この前ある方が、ちょっと皆さんのところにも来ているかもしれませんけれども、この方はあくまで郷土の偉人じゃないんかと、歴史的な偉人ではないんかと、こういうことを言われているんです。この前も21
世紀美術館、市議会でも
議論になりまして、後のガーデンフィールズをどうするかという
議論の中でもありましたけれども、あそこの金沢市に行って感じることは、やっぱり都市の歴史というか、すごくすばらしい歴史をつくってきた。結局あそこは、言えば当時、500年前、同じ時代ですけれども、当時前田利家公がああいう都市をつくってきた、まさにその時代にできあがったというふうに私は認識しているんです。金沢市の場合も、特にそういう
意味ではそういうことはされていません。
私のところの姉妹都市の松江市の
名誉市民というのも、とりあえず事務局にお願いしまして、どうなんかなということでちょっと調べていただいたんですけれども、全て昭和の時代の方を
名誉市民として表彰しているんです。
説明の中にもありました。尾道が1700年代でというのがありますけれども、今のたけした
委員やら
中野委員からありました。歴史的な評価というのは何せ500年前ですから、それはいろんな史実に書いてあること、私は余りそれをどうこうさかのぼっても仕方がないなと思っておるんですけれども、それが郷土の偉人じゃないかなということなんで、そういう余りにもどこまでもさかのぼることの
違和感、そこがまだ長尾がそれこそ村と言っておって本当にまだそういう村としての形成というのはどうなのか。
宝塚市ではないことはもう事実ですけれども、そういうことの
違和感が
一つ。
2つは、今もちょっとその話が出ていましたけれども、
木接ぎの
技術というのは私もどうなんかいなと思って、一回調べてほしいと思って調べてもらったんです。ボタンはこの世界で聞くと確かにそうやったなと思うんですけれども、シャクヤクの苗木に
接ぎ木して、これは開花の期間を短縮したと書いてあります。そういう
技術が
一つの象徴的なことで、今も出ていましたけれども、
植木の
技術というか、それがバラとか夏ミカンとかスイカとかトマトとか、まさに広くそういうものに、野菜まで発展していったわけですから、私はたたえるのはこの
技術じゃないかなと思っています。
今の時代に故人を、あの
山本駅のところに大きな碑が建っていまして、そこでもある面ではそれなりの位置づけがきちっとできているわけですから、そこを我が
宝塚市が今
名誉市民で表して、松尾神社に飾って何の
意味があるんかなと。今我々やこの方々の望んでおられることも、このことをきっかけとして
山本の
植木産業を再評価し、新たな評価を打ち出すことによって、まさに言われたように、このことがきっかけに
山本だけではなくて
宝塚の
植木産業が久留米や川口に負けないように、今3番やと言われていた、三大
植木産地と言われていたのがもう4番か5番か知りませんけれども、3番ではないと確かに言われておるわけですよ。それをもう一回三大
植木産地にするためのきっかけにするというのが、私はこの方々の文章を見てもそうなんですよ。もう言いませんけれども、この機会に再評価して、新たなそういう産業をさらに、こういう私は視点なんですよ。なぜそういう視点で……。
これは、
地元の方はそう言うてきはったわけですよ。たまたま
名誉市民があったからそこへ飛びついたと。そやけど、実は
地元の方の本当の願いは、私が言っているように、この
技術をここで真似て育ててきたんだから、この
技術のもとを評価して産業の活性化というか、ここに僕は主眼があるんではないかなと思っているんです。
それで、この前言うたときは
日本遺産、こういう全国でいろいろと取り組みをされていて、これをずっと大体見ましたけれども、ストーリー性が要るという話があるんです。私、ストーリー性はすごくあるなと思っているんですよ。500年前に生まれた
技術が、今、
中野委員も言われたように、恐らく同じ時期にいろんなことが芽生えていたのかもしれませんけれども、本格的には
山本で芽生えた
技術が一旦ちょっと廃れているように思うんです。それが再復興してさらに広がっていったわけですけれども、例えばボタンを考えたら、ボタンもそうですよね。あれだけ牡丹駅ができて牡丹列車ができて全国に広がったわけですよ。ところが、大もとの
山本は廃れていってしまって、もうボタンをつくる
植木屋がなくなっていったと。ところが須賀川にあって、須賀川からまた帰ってくると。そして気がついてみたら大根島やら全国に根づいていたわけですよ。それを今、
宝塚としてもう一回再評価して、西谷牡丹園をつくり、しているわけでしょう。ここのストーリー性こそ、私は
日本遺産として申請して、そこで新たな産業文化として、これずっと見たらそういうことを書いてあるんですよ。篠山の「デカンショ節」まで入っておるんですけれども、それはどう評価するかは別にしまして、まさにこれだけすごい、本当に
木接ぎ技術は
山本で生まれたわけですから、私はそれを絶対この際やるべきやと思う。
この前一生懸命力説して庁内職員にも話をしましたけれども、私の言うことももっともやと、確かにそうやなと思うけれども、それはすごく大変やと。それはそうですわね。表彰ぐらいやったら、はい贈りました、それでしまいですよね、これ。そやけど、これ
日本遺産に申請して
日本遺産に指定されるために取り組みしようと思ったら、当然大きな取り組みをせないかんわけですよ。それこそ須賀川やら松江やら、ボタンにまつわるところと一緒に組んでストーリーをつくらなあかんわけですよ。けど、その取り組みが
植木産業を活性化する取り組みじゃないんですか。表彰をはい出しました、松尾神社に飾りました、それで本当にこの人たちの願いを、私はそれは違うと思います。せっかくこうして起こしはったわけですから、これを行政として受けとめて、
日本遺産を得るための特別なプロジェクトチームをつくって1年、2年やったらええと思うんですよ。それぐらいの価値はあるし、ここで言われたように転機をしないともうじり貧ですよ、これ。そういう思いがあって来てはるわけでしょう。何とかせなあかん、もうこれは節目にしたいわけでしょう。そういう気持ちをしてはるのに、そこが私は行政の中でみんな努力しましょうよ。汗をかきましょうよ。
普通のことでは都市は活性化しませんよ。都市間競争は普通のことでは勝てませんよ。すごく汗をかいて努力して、ごっつい研究せなあきませんよ。我々も議会も協力したらええと思うんですよ。私は、そういうふうに持っていかないと、これでしまいやったら何もならんと思っておるんです。どうなんですか。
これ、
日本遺産に、私はもうストーリー性も十分、例えばの話ですよ。もうちょっと膨らませたらええんですが、僕は余りわかっていませんから、いろいろと最近調べただけでもストーリーができるなと。一旦廃れていたのをこうして復興してと、物すごいストーリーが、全国に広がっておるんですよ。そういう
意味で、
日本の中で広がっていった歴史だけを見ても、もうこんなの、よそのと比べても遜色ないですよ。そういう努力をしませんか。私はその努力をしていただきたいと思っておるんです。
○
大河内 委員長 井上副市長。
◎井上 副市長 何点か御意見いただきまして、まず1点目は、歴史上のそういう人物を
名誉市民にするということについて、いえば
違和感というふうなことで御指摘をいただいておるわけですけれども、内部の
委員会でこの案件を協議したときも、やはりこれだけの時代、歴史上の人物だった人を
名誉市民にということで、本市の条例に照らしてどうなのかという意見もありました。そしてやっているところは、
先ほどもおっしゃいましたけれども、広島県尾道市で1700年代に活躍された方を
名誉市民にしているという例がありましたが、ほかについてはやはりなかなかそういった例はございませんでした。そういったことも
技術にありましたが、
坂上頼泰公さんの
接木技術ということで、非常にこれを発明されたということについてということで、その
委員会ではこの条例に尊敬されているというふうなところで該当させようということで、そのときは終わったわけです。
それで、
日本の三大
植木産地の
一つとして栄えてきた本市
山本地区の
植木産業、
先ほど説明もありましたけれども、土地利用あるいは
住宅事情の変化などによって業績が大変低迷して、それが続いているという現状にあります。
地元としては、今回の
名誉市民を
植木産業再生の起爆剤につなげたいという強い思いを持っておられます。それに対して市としてもぜひ応援をしたいというふうに考えたわけです。
今日、
先ほど技術でもありましたが、当たり前のように恩恵を受けている
接ぎ木の
技術というものは、発明した偉人が
宝塚市の人やということを市外の方だけでなく、
山本地域以外の
市民の方にすら余り知られていない現状があるんではないかなと。それで、
坂上頼泰公を顕彰することは、
頼泰公の功績を広めるとともに、そのような発明などが礎となって、
日本三大
植木産地の
一つとして栄えたと、そして本市の地場産業のすばらしさを知っていただくチャンスとなると、このように考えました。花卉
植木なら
宝塚に、そして
山本へと多くの方においでいただきたい、地域の活性化につなげていきたいと、このように思ったわけです。
市としては、
名誉市民となられた場合の話ですけれども、
頼泰公の功績あるいは
接ぎ木の
技術のすばらしさを広くPRしていき、
植木のまち
宝塚の魅力を広く伝えていきたいと、このように思っています。
地元の皆さんによるさまざまな取り組みもされておりますから、しっかり応援していきたい、支援していきたいと、このように考えています。
もう
一つ委員から御指摘いただきました
日本遺産、これは前回もそういったことで御意見いただきまして、いろいろと調べております。ストーリー性が必要だということもわかりました。このことについては、別に諦めたわけでもなく、我々としては今の
委員の熱い思いというものは当然受けとめてこれからのことについて検討していきたいと、そのように思っていますので、よろしくお願いしたいと思います。
○
大河内 委員長 北山委員。
◆北山
委員 今後の取り組みということを言われたんですけれども、7月21日の
陳情書の中に、結局、千年の歴史を誇る本市の花卉
植木の歴史を広く周知するために、
接木技術の発明というすばらしい功績がありと、こう書いてあるんですよ。結局ほんなら、これ故人の表彰なんだけれども、故人の表彰を受け取るべき方はないんですよね。Aという故人に対して表彰を出すわけですけれども、その受け取る方はないわけですよね、これ、はっきり言うたら。だからないから、ないというのか五、六人おられるのか、そうなのかもしれませんけれども、そうすると五、六人に渡すわけにいかんから団体として受け取ると、こういうストーリー、そういうことだと聞いているんです。私はそこもひっかかっているんですよ。だから、より一層、あれだけの立派な碑があって、まさに
木接太夫は碑があそこに建ってされているわけですから、それを市がペーパーで贈って何なんかなと。私は、だからどう見てもこの
地元の方々の思いは、私たちとしてもその思いをしっかり受けとめないかんのは、
木接ぎの
技術をきちっと産業化していく道ではないかなと、このように今回ずっと見ていて、より一層思いました。
だから、本当にそこをはっきりしておかないと、これまで市のほうで何人か、功労者の時代からそれを引き継いで、平成11年で春日野八千代さんとか手塚治虫さんとかを
名誉市民で表彰しているんですけれども、そういう位置づけをしっかり認識しておかないと、そない言うたらこれ、何か
一つの節度というのか、余りにもこういう形で広げていくのにも私は疑問を持っている、何となくすっといかないなというところなんです。
これ、ほんまに最初の原点に戻りますけれども、要は
名誉市民の、これまでもそうですけれども、こんな
議論するようなことは本来余り好ましくないなと、もともと正直言いまして。もうみんな議会も
市民もこぞって本当にそうやなと、ええ人をしようということの中で本来は贈るべきなんですけれども、今回これ、
総務常任委員会が延びたのも、確かに当初の
資料が十分なかったみたいな御指摘もありましたけれども、やっぱりみんなすっといっていないと、
違和感を覚えるということなんですよ。これを私は多数決で決めるということにすごく疑問を持っています。
名誉市民を出すのを多数決で何対何ぼで決まりましたとかこんなことをしていたら、
名誉市民という大きな、本当に大事なものを崩しちゃうんですよ、社会的にも。私は、絶対これは全会一致で決めないかんと思っとんねん。そやけど、そういう気持ちもあるけれども、このままでは何ぼ何でも、何でもかんでも議会としてほんまに、皆さん努力してはらへんとは言いませんよ。そやけど、これだけ
違和感があるものをここで認めてしまったら、
市民からしたら私、こんな500年前の、それこそ今
説明にありましたように、
市民の中ではそのことすら知らないわけですよ。
木接太夫のことすら知らない。僕らが
説明せんとみんなわかりませんよ、この問題。何言うてるのか
説明してもわからへんわけですよ。だから、
市民全体がああそうやなという状況ではないわけですよ。
そういう状況の中で、これは多数決になるんか知りませんよ、私は。そんなことでほんまに決めるようなことを強引というんか、議案を僕ら聞いたのは8月の夏休みに入ってからですからね、正直言いまして。これ1カ月ですよ。突然話を聞いて、ええ何かいなというて、夏に入ってから聞いて、それで皆さんもそうでしょう。1カ月でしょう、これ出してきはったの。7月21日ですから、もう1カ月足らずでもう議案になっているんですよ。こんな取り組みが、ここもわからないんですよ。やっぱりそれは
市民にも周知し、そういうプロセスがあって、過程を大事にしないと、検討
委員会かて1回開いて、いろんな意見が出たけれども最後はとにかく決まったと、こういうことでしょう。1回だけでしょう、これ見たら。議会でもこれだけ
議論が出ているんですよ。この方、
木接ぎの
技術のことからこれだけ出ているんですよ。それをたった1回の庁内の会議、たった1回ですよ。恐らくこんな
資料は全然出ていないですよ、これ。初めて調べられたんやと思いますよ、これだけ詳しい
資料は。そんなんで出てきたことを私たちに何とかせえというて投げはるのもむちゃやなと。
私は、これはこの段階で、今、副市長が言われたように当然
日本遺産の取り組みはやっていただかなあきませんけれども、本来は私は受けたときに、はいわかりました、それで一緒にやりましょうと、一緒にやっぱり
日本遺産に向けての
委員会でもつくってやりましょうと、こう言うべき案件やったなと。1年、2年、3年かかってもええからその取り組みをして全市に広げて、全
市民が
理解して初めて次が見えてくるんじゃないかなと思っているんです。その辺のところが余りにも皆さん稚拙というのか急ぎ過ぎて、こんなことというのは私は
宝塚の歴史にとってほんまに恥ずかしいことやと思います。
以上です。
○
大河内 委員長 山本委員。
◆
山本 委員 同じようなお話となりますけれども、やっぱりこれ、
木接太夫の
接ぎ木のこと、
先ほど申し上げましたボタンのことが一番大きかったのかなと思います。それ以降、植物や果物類、品種改良ということで、
接ぎ木というのが非常に重要になっていくわけですけれども、
宝塚市には牡丹園があって、
接ぎ木はなぜ草本植物、草に木本植物というボタンを接いでいるのかなということが非常に不思議だったんです。これ、調べてみましたら、草に木を接いでいるんですけれども、木のものというのは種をまいて木が出て何年もかかってやっと花が咲くという状況で、そうそう活性化しないというか、それのためにシャクヤクに木をあれして毎年咲くようにというか、きれいに咲くようにというか、そこら辺の花卉
園芸の生産性を考えてつくられたのがボタンの
接ぎ木だったわけです。それが
宝塚市から今おっしゃったように大根島や須賀川に発信していって、九州のほうにもありますよね。それが今、市役所の庭にもあるように里帰りボタンとして
宝塚に帰ってきているんですが、いつも枯れそうになって心配なので、また手入れしてほしいなと思いますけれども、そういうふうに、やっぱり
日本全国に発信してきたボタンのところが一番、
木接太夫にとって大きな仕事だったのであろうなということを思っています。
ボタンも、中国のほうからシャクヤクの根っこが薬草として入ってきたものなんでしょうけれども、お花としてはそれほどの種類もなかったそうですが、この
技術が進歩してからどんどん品種改良ができるようになったということもあったようです。すばらしい功績を残していらっしゃる、そして本当に今、
植木産地としての
山本地域が下火になってしまっているということもありますので、多分皆さんは
木接太夫のことを
山本の象徴として発展していきたいと思っていらっしゃるんだろうなということは感じます。
表彰者の選考
委員会の
資料を出していただきまして、議事録を読ませていただきましたら、やはり皆さん、
委員の方は私たちと同じような意見を言っていらっしゃるなということを思います。そして、4団体の要望書について、直接
名誉市民にしてくれということを聞いているのかということで、やっぱり口頭で
名誉市民でということを聞いているのだということが書かれています。それで、口頭で、文章にはなっていないのでどうなのかなという面もありますけれども、どうしても
地元の方の強いお気持ちがあればそれもいいのかなということも思いますので、
名誉市民ということで、こちらの
委員会のほうでも最終異議なしということでなっていらっしゃるんであれば、それで進むことも必要ではないかなと思っています。
ただ、
資料でいただいた39
ページの
名誉市民の条例なんです。11年6月30日に出されていますけれども、これの第1条に「学術、文化、スポーツの進歩に寄与し」ということで、
宝塚市の発展に貢献しということは、ここら辺をとって
名誉市民ということになるんでしょうけれども、文章として、これで何か、「等」という言葉がないので、そこら辺でよかったのかなということをちょっと思ったんです。
あと、下のほうに、外国人の方もしくは
宝塚市にそういう功績があって寄与した方には特別
名誉市民の
称号を贈ることができるということを書かれていますが、
名誉市民ということであれば、ここら辺の条文を何か変えて出されてくるということではないですか。
○
大河内 委員長 福永企画経営部長。
◎福永
企画経営部長 まず、趣旨のところの学術、文化、スポーツという
部分で、念のためなんですが、今回
接ぎ木ということはすばらしい学術ということになりますし、
植木文化ということで文化ということで、ここを読んで今回、
名誉市民条例に基づく同意をお願いしているものでございます。したがいまして、あくまでも原案で何とか御同意を賜りたいという立場で議案を提案しているものでございます。
○
大河内 委員長 山本委員。
◆
山本 委員 わかりました。広い
意味でとってということになります。
名誉市民に対しては次の待遇を与える。公の式典への出席、前号の規定に掲げるもののほか、市長が必要と認めた待遇とか、
宝塚市
名誉市民の
称号としての特典なりいろいろなことが書かれている。現在生きていらっしゃるというか、
宝塚市政が始まって以降の
宝塚市に貢献するということがもともと想定を、このときにはされていなかったんだろう、そのあれしかなかったのかなと思いますけれども、どうしても
地元の方の御意向であれば
名誉市民ということでいいのではないかなと思います。
ただ、
先ほどおっしゃったように、地域の偉人、
宝塚市としての偉人ということでの
称号というか、それの第1号ということであれば、それがもしかしたら一番よかったのかなということも感じますけれども、今回そういうことで進めていらっしゃるということであればいいのかなと思います。
これで決まった後なんですけれども、花卉
園芸、
植木産業を
宝塚市の中心の産業とするのであれば、
木接太夫のことを象徴として、それをしっかりと地域はやっていっていかないと、再復興して、どんどん農地転用してしまうわけですから、そこら辺がないようにきっちりと
植木産業を守っていただけるのかどうかということもきっちりと4団体の方に確認していただけたらと思いますが、いかがでしょうか。
○
大河内 委員長 福永企画経営部長。
◎福永
企画経営部長 植木の団体の方とは今回の件で何度か私もお会いして、今後のまちづくり、
植木産業の発展のための志といいますか、大変強い熱意を感じております。もちろん、これをきっかけに地域の方々は、これまでやっていたことに加えて、やはり
接ぎ木という発祥の地といいますか、そういう
部分と、改めて
宝塚の
植木文化というものをいろんな形で発信していきたいという思いを持たれていますので、新しい活動の展開が広まっていくというふうに私は期待しております。
一方で、
地元だけじゃなくて、これをきっかけに本市としましても、
先ほど北山委員のほうからもいろんな御提案がございましたけれども、いろんな可能性を追求していかないといけないと思っておりまして、今言っているシティプロモーションの活動も含めて
宝塚の地場産業というのを全国に発信していきたい、そのようなきっかけにしたいというふうに考えております。
○
大河内 委員長 井上副市長。
◎井上 副市長 一部ちょっと活動で追加させていただきますけれども、現在、一部の小学校で歴史学習会というもので、学校へ
山本地域のそういった
園芸業者の方々が出向かれて、そして
接ぎ木の実演を実施されています。そして今回、
地元の
園芸業者の皆さんが中心となって、
頼泰公の功績をたたえて生誕500年記念誌を発刊されます。それも今後、市内の小・中学校の図書館にも本を配付くださると、そういったことを聞いていまして、本市の代表的な地場産業である
植木産業、この
接ぎ木の
技術を教材としても広げ、また子どもたちにもそういった花卉、
植木に対する関心、愛着を持ってもらいたいというふうなことでそういうことを進められるわけですけれども、あわせて地域の皆さんはさまざまな取り組みをして頑張っていくということを言われていますので、我々はそれにあわせて、できる支援はしていきたいと、このように考えているところでございます。
○
大河内 委員長 山本委員。
◆
山本 委員 わかりました。ぜひお願いしたいというのは、やっぱり
食文化のことですし、花卉
園芸、
植木産業を
宝塚市の本当にちゃんと地場産業とするのであればというか、本来は地場産業なんですけれども、しっかりと、農地転用がどんどん出てくることがないように、これは
山本地域だけじゃなくて、北部西谷地域に牡丹園があるわけですから、北部西谷地域の農業、そして花卉
園芸もダリアもやっていらっしゃいますので、いろいろ含めて、全て
園芸に通じてくるのかなと思います。
宝塚市のそういう象徴としてされることであればしっかりと、
宝塚市は道徳の教科書は2種類つくっていらっしゃるんですけれども、道徳のものと、あと社会教育というか、社会の本を
宝塚市でつくっていらっしゃるんです。そこに
植木の
木接太夫のことを
一つ入れていただけたらいいのになと。長尾小学校でやっていらっしゃるのは
地元ですので、あれは全市がやっぱり知らないと、何をやっているのかいなということになるので、
宝塚市全般に広めていかないといけないんではないかと思いますけれども、お願いします。
○
大河内 委員長 ほかにございませんか。
浅谷
委員。
◆浅谷
委員 私も、
資料を今回詳しく出していただきまして、それを見せていただいて、この方のすばらしい功績というか、そういう歴史上の中ですばらしい
木接ぎというのを
宝塚市で出してくれて、そのおかげで
宝塚のどんどん
植木産業が発展してきたというようなことがはっきりとわかりました。また、
地元の方の思いというのをこの中から、
資料の中についていらっしゃいますような形で、本当に熱い思いで
地元の方はこの方の功績を表彰してほしいと。また、その上で
地元の産業がもっともっと発展することを願っておられると。まさにそれは、もちろん
宝塚の
植木産業の発展というのは
地元の方だけではなく、議会のほうでも望んでいることですので、本当にそのとおりだなと思います。
ただ、その中で感じるところが、やっぱりすばらしい功績のたたえ方です。発展につながるというようなたたえ方として、歴史上の人物を
名誉市民として条例に当てはめることが適切かどうかというところを私は感じるところなんです。やっぱりそれは、
先ほどにもありましたように、歴史上の人物ということで郷土の偉人ですとか、他市ではいろんな扱いをされているわけで、
宝塚市の中で今の条例の中にもあったような、待遇として条例の中には市の公の式典への参列なんかもうたわれている中、できれば、もともとは生存されている方というのを考えておられる。といって別に亡くなられた方でも特に大きく問題とは思いませんけれども、500年も前の歴史上の人物というところで、本当に
名誉市民というのがいいのかな、どうなのかなと感じるところなんです。
その中で、市のほうでお考えになった中でも、500年前の人物を
名誉市民というのはどうなのかなというような事例はあるのかというような聞かれ方の中で、
先ほどから出ています尾道市でそういうのがありますよという話はあったんですけれども、これは昭和43年の話ですよね。ということは、もう50年ぐらい前に尾道市ではそういう事例があったということですけれども、近年、ということは全国的にこういう事例は多分ないということだと
理解するんです。その中で
宝塚市が絶対にこの方を
名誉市民ということでされることがどうなのかなと思ったときに、すばらしい功績のたたえ方、内外に伝えるためのたたえ方とか、今後の
植木産業の振興につながるたたえ方としてどうなのかと思うんです。
先ほど答弁の中に、この方の偉業というのは
市民にも知られていないから、それを知らせるためにというようなこともおっしゃったんですけれども、私は、逆に
名誉市民というのは、他市でも今ちょうどオリンピックが終わりまして、そこで活躍された方を
名誉市民にという動きがいろいろあるようにも聞きます。やっぱり文化、芸術なんかにしても、今現在活躍されている方などの中で
市民がよく知っている人を、
宝塚市の方だったんだよということをさらに
市民に知らせて、そうだったんだ、
宝塚の方だったんだと、逆に昔の方、皆さんが知らない方をこれによって知らせるというよりも、知っている方を
宝塚の方だということで、さらに
市民に元気を与えるというか、誇りを持ってもらおうというような形ではないのかなと思うようなところもあります。
議案に上げられる前に、
名誉市民にしようと市の中で決められたことからそんなに時間はたっていないようですけれども、市で新たにこの条例に関してそういう歴史上の人物が当てはまるようなものを整備しようとか、例えば郷土の偉人とか、他市であるようなそういうものを制定しようとか、そういうようなお考えというのはなかったんでしょうか。
○
大河内 委員長 福永部長。
◎福永
企画経営部長 この議案を上げるに当たりまして、そういう選考
委員会でありますとか、あるいはそれに至る過程まででいろいろ
議論をいたしました。その中では、いろいろ
議論した結果、新しい条例をつくるとかいうようなことではなく、あくまでも
名誉市民としてすべきというふうな結論に至りまして、今回の議案に至っているというところでございます。
○
大河内 委員長 浅谷
委員。
◆浅谷
委員 その結論に至られた過程というのをやっぱりもう少し詳しく、深くお考えいただきたいところで、やっぱり
名誉市民というのは私も確かに
違和感がありますし、ほかの
市民の方から私も意見をいただいています。何で歴史上の人物が
名誉市民なのというようなところですとか、
宝塚市はもちろん社寺仏閣も多いわけで、ほかにもたくさん、そういった
意味合いからいうと歴史上の人物でいろんな方がいらっしゃるんじゃないのというような声もお聞きする中で、そんなに大急ぎで
名誉市民にということを決められる前にもう少し整理できなかったのかなと。この条例にしろ、ほかのたたえ方、
植木産業の本当に振興につながるというような形をもう少しお考えいただくことができなかったのかなと。
大きく反対するものではないけれども、やはり
違和感を私も感じるところです。これは意見として言わせていただきます。
○
大河内 委員長 ほかに
質疑はございませんか。
北山委員。
◆北山
委員 今の
名誉市民条例そのもので浅谷
委員の意見もあるので少し
質疑したいと思うんですが、
名誉市民は、あくまで4条のところの顕彰で「
名誉市民の氏名及びその功績の概要は、市広報に掲載して顕彰する。」ですから、あくまで個人なんですよね、これ。団体ではないんですよ、どう考えても。
名誉市民ですから。あくまでこれは氏名とまで書いてありますから、明らかに個人ですよね。そういうふうに条例はなっているんですが、それはどう
理解されていますか。
○
大河内 委員長 福永部長。
◎福永
企画経営部長 もちろんそのように
理解をしております。
名誉市民、
市民とありますので、今回は
坂上頼泰公が
名誉市民ということのつもりで提案しておりますので、
坂上頼泰公の氏名というふうに
理解をしております。
○
大河内 委員長 北山委員。
◆北山
委員 そうしますと、第5条で、今出ていましたように、
名誉市民に対して次の待遇を与えることができるですから、
坂上頼泰公に対して
宝塚市の公式の式典への参列、それから市長が必要と認めた待遇を与えるということですから、あくまでこの条例は今、部長が言われた個人ですから、個人に5条の待遇を与えると、こういうことですね。
○
大河内 委員長 福永部長。
◎福永
企画経営部長 御指摘のとおりと認識しております。
○
大河内 委員長 北山委員。
◆北山
委員 そうすると、
名誉市民の表彰は個人に本来は渡すものですよね、誰が考えても。もし個人が、ここにもありますけれども、亡くなったりするとかいう場合は、当然その遺族の方に渡すものですよね。
そうすると、今回のケースは遺族の方はわかりませんよね、明確な。ちょっと僕は聞いただけなんで、あるんかどうか知りません、正直。そやけど聞くところによると、その末裔という方が、家系図があるんかどうか知りませんけれども、500年前になるとその辺ちょっとあれかもしれんけれども、6軒ほど家があるということなんです。要は明確に遺族の方はありませんよね。
○
大河内 委員長 福永部長。
◎福永
企画経営部長 1500年代の時代からの話でございますので、明確にどの方が御遺族になるのかというのは、もうそういう
史料も明確なものはございませんし、地域でも特定できないということでございます。
○
大河内 委員長 北山委員。
◆北山
委員 そこが、いわゆる条例で法律に基づいてやっておるわけですから、そこが
違和感ということではなくて、そこが本来、だからあり得ないことをされようとされているんです。受け取られるのは団体ですよね。なおかつそれを、聞くところによるとどこかの神社に納めると、こういうことですよね。それはこの条例にのっとっていないんですよ。
だから、私はこれ、各
総務常任委員会の
委員さんにもひとつ、ここまで来た時点で、そうは言うてもできるだけ本当にいろんなものを、
違和感を乗り越えて、みんなで何とか一致できるところを見つけないと、我が市にとって何かこんなことをやっていたら、本来絶対こんな
議論したら、本来はもっとそれまでの過程で
議論しておかないかんことやと思うんですけれども、だから、それぞれ恐らく8月に各会派を回られたときにも意見を出したはずなんですよ。みんな出ているはずなんですよ。その時点で本当は踏みとどまっていただいて、一回もうちょっと
議論をしてほしかったわけですよ、僕らにしたら。最初から私はこれはもうはっきり言うてますから。ほかの議員さんに聞いても、どないなってんのかなという同じ意見やったんですよ。そやけど皆さん一切聞きはらへんかったんですよ。
そやから、ここまで来て、このことを本来の条例の趣旨としているそういった功績をたたえて、本当に尊敬して、もうよし、みんなでということにするためには、7条、特別
名誉市民、ここも総務といろいろ相談しましたら、余りこの条例が、少し御意見をいただきましたけれども、それはおいといて、広い
意味で郷土の偉人という概念を特別
名誉市民のところに条例を改正してできないかなという思いで、この間、前回の
委員会から一生懸命何回も検討し、行政とも話をしてきたわけです。
私がそれを言っている趣旨は、最初に言ったように、これをこのままいったんでは結果的には賛否も分かれという形で、何対何ぼという問題じゃなくて、みんな何とかしようと思ってくれてはるわけですよ。何とかこれ、そうは思うていてもこのままではうんと言えへんようになってきよるんですよ。聞けば聞くほど言えへんようになるわけですよ。だってこれ、議事録を改めて見たら、表彰の
委員会もたった1回開かれただけで、
資料なんかも今言いましたけれども何にも出ていませんよ。皆さん、正直言って表彰
委員会も形式だけですやん。正直言って何の
議論もされていませんやん。こんな行政をやっておったらあきませんよ。やっぱりこれだけの大きなことですから、きょう出た
資料ぐらいのものは全部出して、少なくとも。もっと本当は行政だったら私はやってほしいと思いますけれども、少なくともこの程度の
資料は出して、それで表彰
委員会を開いて賛否両論して、もう一回きちっと踏まえて議会ともやりとりして、何回も何回もやりとりして、これ、9月に出す必要は全く、
地元の方には待ってもらって12月でも、それぐらい行政は本来慎重さを求められるんじゃないですか。そういう
意味で、過去に7条で特別
名誉市民の
称号を贈ったケースはあるんですか。
○
大河内 委員長 岸本次長。
◎
岸本 秘書業務担当次長 過去には1件ございます。
宝塚市とオーガスタ市が姉妹都市を結んでおりますが、姉妹都市提携10周年を迎えましたときに
宝塚市にお越しいただきましたオーガスタ市長のボブ・ヤング氏に対しまして、平成11年(1999年)9月2日に特別
名誉市民をお贈りしています。1件ございます。
以上でございます。
○
大河内 委員長 北山委員。
◆北山
委員 ということは、特別
名誉市民というこの条例は生きているというんか、生かされているというふうに
理解しますから、ここを私は、本来は行政側が改正の提案をされるべきやと思います。こういう文章になっていますけれども、ここに1として、本市の賓客として来訪した外国人、これを適用されたということですよね、今のは。
2つ目に本市に特にゆかりの深い外国人、3で、本市にゆかりの深い者で、学術、文化、スポーツの進歩に寄与し、その功績が特に顕著で
市民の尊敬を受ける歴史上の人物と、こういう形で改正して、正直に言いまして
違和感はありますけれども、特別
名誉市民として
称号を贈るということであれば大きな
違和感ではない。もちろん今後の
日本遺産の取り組みもやっていただくとして、それが私はこの時点、今条例を出してきはった時点、戻されへんねやから、撤回しはんのやったら別ですよ。あ、それ、撤回するかどうか、聞かないかん。済みません、撤回しはりますか。一度引っ込めはったら一番ええんですけれども。
○
大河内 委員長 井上副市長。
◎井上 副市長 議案として一度、今
先ほどずっと意見をお伺いしましたが、行政の例えばこういった提案する場合の慎重な審議であるとかいろんな
部分については、言われることを真摯に受けとめて、今後、やはり行政の職員として対応する必要があると思います。
ただ、じゃ提案したものを撤回するかということになりますと、今時点で私自身が撤回するという考えでお答えすることはできないと、このように思っています。できればこの審議の中で決定をいただきたいなと、そういう思いであります。
○
大河内 委員長 北山委員。
◆北山
委員 議会の事務局に聞きますけれども、行政側が議会側にこういった議案を送付されて、
議論を通じて撤回されるというか、取り下げられたみたいなケースは過去にありますか。
○
大河内 委員長 麻尾係長。
◎麻尾 議事調査課係長 はっきりした記憶ではないんですけれども、不備が発覚したというか、そういうことであれば撤回をされたというような議案はあったかなというふうに思います。今回の場合はそこまでのお話ではないかなというふうに
理解しております。
○
大河内 委員長 北山委員。
◆北山
委員 説明はともかくとして、過去にすごく
議論があって、議会側としてこれはちょっとやっぱりいかがなものかなということの中で、行政のほうが撤回をされたというケースが実はあるんです。相当
議論しました。私もきちっと正確に覚えているわけではないんですけれども、当時、行政のほうも我々の指摘を納得されて撤回してということがあるんですから、これは私は、確かにそういっても、これ総務に聞いたら、7条自身もあといろいろ、例えば7条で表彰を
称号で贈った方が例えば社会的に問題ある行動をした場合、それを取り消すというのがどこにもないとかあるんですよ、条例そのものに。そやけどこれ、議会側が提案した条例ですから、議会側が余り私は……。私は今、議会側からそのことを言うとこの条例そのものが問題になりますから、私は行政の総務からそういうふうに幾つか問題がありますよという御意見はいただきました。それは皆さんの側がするべきことと違うかと。我々は議員発議で出てきた議案を当然この場で全員一致で決めた
内容ですから、行政側がこれは問題だと言われるんだったら、行政側として提案するべきじゃないかと思っているんですよ。
すなわち行政側も、この
名誉市民条例は不備だと思ってはるんですよ。不備だと言われたんです、私は正直。ペーパーを出しましょうか。それだったらなぜ行政が改正せえへんねやと、何で私がする必要があるんやと。私は発議者、4人の議員さんが出されたことですし、それは賛成して行政側も賛成して決めたことですよ。そやけど、この条例は不備があるんですよ。そんな不備のある条例でこれを決めようとされているんですよ。しかもこれ、5条を適用するといって、5条なんて適用できへんですよ、この方には。個人でないんですよ。遺族もないんですよ。渡す人もないんですよ、これ。渡す人も団体。団体は個人にかわれるものじゃないですやん。その団体が
木接太夫さんとどんな関係があるのかと、何らありませんやん、法律的に。そこへ皆さん渡そうとされているんですよ。こんな不備なことをやられるんですか、正直言って。
条例上も不備、しかも、この条例を読むにしても読めないですよ。出せないんですよ。出せないものを出そうとされているんですよ。だから私は、これをほんまにこの時点までするんだったら、やっぱり行政と我々が相談して、この条例を変えるものは変えると。議会側が変えるんか行政側が変えるのかは別ですよ。私はこの条例そのものをきちっと例えば改正して、特別
名誉市民の中にこういう歴史上の人物を入れるなら入れて、そのかわり取消条項も入れなあきませんから、その上できちっとおさめるというか、きちっと
市民が、そうしないとこんなことで
宝塚に汚名をつくりますよ、行政史上。
だって皆さん、そんなことを検討
委員会で一回も検討されていませんよ。検討
委員会で、この条例がどうなのかは全く検討されていませんやん。
木接ぎの
技術、
木接太夫の歴史を全く研究されていませんよ。はいはいの
委員会ですやん、これ実質。それしか
資料で出てきませんやん、何ぼ見ても。私は、だから行政側としてここは立ちどまって、一回市長にちゃんと伝えていただいて、それは今は副市長がここで撤回するとも言われへんと思いますし、ここはやっぱり議会側と行政側が知恵を出して、過去こんなこと、いろんなことを乗り切ってきましたよ、私は。議会と行政で乗り切ってきたんですよ。最も
市民が納得できる形でこのことをおさめないと私はあかんと思っています。
だから、行政側がそういう動きをされたら議会側も動かなあきませんけれども、双方でつくり上げないけませんけれども、ここまで来ておるわけですから。そやけど、市のほうがもう一回これで強行やと言うんやったら、この話は全くない話です。条例が不備なまま、なおかつこれ、相手もないまま、ようわからんものを誰かに渡すと、こうなっちゃっているんです。一回ちょっと市長の意思を確認してくれませんか。おられるんでしょう。
委員長、ちょっと市長の意思を確認せんならんで。
○
大河内 委員長 中野委員。
◆中野
委員 議論が余りにも、要するに
木接太夫の
名誉市民の
議論やのに今条例改正の
議論になっているんで、ちょっとそれは一旦整理せなあかんと思うんです。
北山委員が言われている意思を確認してくれというのも何となくわからんでもないから、一旦休憩をとってもらって、ちょっと聞いてもらって、
先ほど撤回はしないと言っているんですけれども、もう一回
議論を戻さなあかんと思うんですよ。言われたみたいに賛否をとるのはどうや、でも賛否をとらざるを得ない案件やと思っているんで、どっちにしてもね。できれば、ある程度自由討議なんかで一致できればいいけれども、あかんかったら結局賛否をとらざるを得ない議案ですから、その上で条例改正に関しては別個でやらないと、今一緒くたにやると変な形になっていると僕は思っています。受け取りに関する条文なんかないんですから、もともと。だから、この条例がおかしいとかおかしくないとか言えないはずです、本来は。
○
大河内 委員長 北山委員。
◆北山
委員 私が言っているんじゃないですよ。私がおかしいと言っているんじゃなしに、総務がおかしいと言っているんですよ。私がおかしいと言っておるんと違いますよ。それははっきりしておいてください。
(「一旦そやからちょっと休憩をとっていただいて」の声あり)
○
大河内 委員長 北山委員、ちょっと待ってください。
◆北山
委員 ちょっと待ってください。
議会は何も決をとるだけが議会じゃないですよ。いろんなケースがありますよ。
(「いえいえ、わかっていますよ。わかっていますけれども」の声あり)
いや、わかってないですよ。賛否をとるということは。賛否以外の方法もありますよ。そこをきちっとしておかんと。あなたもそれなりに経験あるんだから。
(「いやいや、
議論が2つに今なっているから困っている」の声あり)
だから、間違ったことを言ったら……。
○
大河内 委員長 時間が長引いていますので、一旦休憩に入ります。
休憩 午前11時05分
──────────────
再開 午後 1時00分
○
大河内 委員長 それでは、
委員会を再開いたします。
休憩前に確認をいただいていました事項につきまして、当局から
説明をお願いいたします。
井上副市長。
◎井上 副市長 ちょっと私たちの
説明も不十分で、時間をいただいて申しわけありませんでした。
先ほどこの
委員会を一旦休憩してから、市長に
委員会の
内容、きょうの審議の
内容、それから御指摘、御意見いただいていることを報告いたしました。その結果ですけれども、市長は、
山本地区の人々の要望もあって、今回提案を取り下げるということについては非常に困難であるという思いで、市議会で御決定いただきたいというふうなことでございました。そして
名誉市民として決定していただいたら、
頼泰公さんの功績や
接ぎ木の術のすばらしさを広くPRして
植木産業の活性化につなげたい、このような思いでございました。といったことで、
先ほどの答えについては困難であるというふうなことでございます。
以上です。
○
大河内 委員長 質疑はございませんですか。
北山委員。
◆北山
委員 過去に
名誉市民条例になってからお二人、議会で、平成11年でしたか、そのときはどうだったでしょうか、議会の
議論というのは。私はおった立場ですけれども、特にこんな
議論をした記憶もないし、すっと満場一致というのか、当然のことですけれども、
名誉市民条例にふさわしい本来の形で決まったんじゃないかと思って、そのときの
議論はどうだったでしょうか。
岸本次長。
◎
岸本 秘書業務担当次長 そのときの
議論、手塚治虫さんと春日野八千代さんを
名誉市民に決定いただきたいという議案につきましては平成11年の12月議会に提出させていただいております。そのときの
議論につきまして議事録を確認いたしましたところ、市議会の最終日に議案として提出をさせていただきまして、
委員会付託等なく、その場で採決をいただいたというふうに議事録で確認をいたしております。
以上でございます。
○
大河内 委員長 北山委員。
◆北山
委員 私も改めて細かく記憶しているものでないんですけれども、やっぱりそういう形で、行政のほうの提案の仕方もちょっと今とは違うわけですけれども、まさに最終で、恐らくその間、議会側との調整というか意見交換もされて、最終ということは恐らくそういうことやったら
委員会付託もなしにされたということですから、私はきょうの
委員会の冒頭に、一番大事なことは、ちゃんと
名誉市民として出すんであれば、やっぱり賛否が分かれるとかいうことはないように、いろんな
議論はこれは当然議会としてせないけませんけれども、何とかそのことを願って、この前の
委員会以後いろんな方とも話をしましたし、もちろん行政の関係者とも話をしましたし、いろんなことの
資料もお願いしたんですけれども、やっぱりそこは大原則だと思っているんですよ。名誉という
市民条例が賛否が分かれて決まるということは本当によくないと思っておるんです。我々も、議会側も知恵を出さなあかんし、行政側も知恵を出して、やっぱり条例の趣旨にふさわしい形でおさめる努力をせなあかんと思うんですよ。
これ、条例の制定時には、今さっき言いましたように議会側の発議で、4名の議員さんの
名前で議案提案されてたしか決まったと思うんですけれども、そのときの
議論ではどんな
議論があったんでしょうか。私は余りそんなことをさかのぼりたくなかったんで調べていないんですよ、正直なところ。何でも調べるんですけれども、ここは余りさかのぼりたくないんで調べてなかったんですけれども、ここまで来たら、やっぱり条例制定時の
議論というのは結構大事なことですから、条例制定時にどういう
議論があって、どう整理されて、お互い認識して、この条例がスタートしたんかというのをちょっと確認したいんですけれども。
○
大河内 委員長 井上副市長。
◎井上 副市長 まず、議員提出議案として条例が提案されました。そして、本市に対して特に貢献のあった方に対して、そのとき、
宝塚市功労者として
宝塚市功労者顕彰条例により顕彰している。その名称は
市民にとってなじみにくいことから、当該条例を廃止して、
宝塚市施行45周年を機に、より親しみが持てる
名誉市民の
称号に改めるとともに、その対象を本市または本市にゆかりの深い方で公共の福祉の増進または学術、文化、スポーツの進歩に寄与し、もって本市の発展に貢献した功績が特に顕著である
市民の尊敬を受ける方に対して広く顕彰しようとするものですということが目的でした。
そして、国際交流が盛んになってきたというふうなことから、外国からお客さんが来られたらそうした人を顕彰する機会も生じると思われるから、同時にこれらの方々に贈る特別
名誉市民の
称号を設けようとするものですと。
そして、質問ですけれども、亡くなられた後に評価が出てくる場合があるが、故人も対象としているのか、また、それからこの時期に提案されたのは対象者を具体的に想定されているのか、外国からのお客を顕彰する規定を設けたことについて、そういった質問がされて、そのときに、亡くなられた方も対象にしますということで、よその条例なんかを参考にして
説明をされております。
といったことで、提案としてはそういう趣旨でされまして、質問として、余りたくさん質問されていなかったですけれども、亡くなられた方なんかが該当するかどうか、そういった質問は出ました。