函館市議会 2022-06-10 06月10日-04号
前の函館現駅に乗り入れをすると、このためには地元負担もするということで当時の木戸浦市長と私と堀知事と3人で会談をして、決めてあの文書を書いたんですよ。約束は約束なんですよ。その直前の話だって、協議会の中で、北海道新幹線は青森と同時着工、同時開業ということで約束したはずなんですよ。 時がたてば、青森は青森で、いやいや函館さんと。我々のために協力してくれたのはありがたいけれども、ただ単に同時着工。
前の函館現駅に乗り入れをすると、このためには地元負担もするということで当時の木戸浦市長と私と堀知事と3人で会談をして、決めてあの文書を書いたんですよ。約束は約束なんですよ。その直前の話だって、協議会の中で、北海道新幹線は青森と同時着工、同時開業ということで約束したはずなんですよ。 時がたてば、青森は青森で、いやいや函館さんと。我々のために協力してくれたのはありがたいけれども、ただ単に同時着工。
その結果、職員数は木戸浦市長の時代に約500人、井上市長の時代にさらに1,000人、西尾市長の時代は300人、合計1,800人も削減しました。こうした取り組みを全国の自治体で一斉に進めました。その結果ではないかと思いますが、OECDの資料によれば、日本の公務員は数が少ないかわりに極端に給与が高いという特徴があります。
ちなみに、木戸浦市長の時代にたしか20億円くらいと、あのときはほかの施設も全部、周辺のやつも全部一緒に1つにまとめて建てかえようというような話ではなかったやに私は記憶してるんです。
平成6年に当時の横路知事と当時の木戸浦市長との間で3線化方式で現函館駅に新幹線車両を乗り入れるための覚書が交わされました。道はこの覚書を、特定秘密保護法ではないですけども、10年以上も放置したあげくに、平成17年8月に高橋知事によって乗り入れのための工事費が莫大だと、そんな莫大なものになるので、しかも全額地元負担となるということで実現は困難との一方的な見解が示されました。
そのときに、あるときに、今から、そうですね、10年かそれぐらい前だと思いますけれども、ことしは、この、当時市民プラザ、木戸浦市長の当時、そういう表現使ってたと思います。亀田福祉センターを核に、もっと使い勝手のいい、立派な施設に建てかえてほしいという要望がありました。ことしは、これ一本でいくんだと。 いろんな話しましたけど、要は函館市が合併当時の約束を果たしていないと、そのことに対する怒りですよ。
3つ目として、木戸浦市長の時代に、オール北海道のために譲歩してきたという経緯。さらには、道南圏全体の振興発展につなげていくという観点から考えると、全国に向けて、あるいは地域の未来に向けて、インパクトのある新函館という名称が一番ふさわしいと考えているとのことでありました。
当時は、まだ木戸浦市長と横路知事との間に交わされた覚書がまだ生きてる段階、状況の中だったんですね。欠席したからこれ仕方がないんだけれども、出席していれば当然、これ言うことはたくさんありますよね。新駅-現駅間は経営分離なんて話は容認できないと、時間がないから自分で言っちゃいますけども。
市長は、木戸浦市長の秘書課長を務めていて随分目をかけてもらっていたと、これはあくまで仄聞ですけども、そのようなことをお聞きしたのですけども、そのように理解してよろしいでしょうか。 ◎市長(工藤壽樹) 木戸浦市長の秘書係長と秘書課長を務めていたことは事実であります。 ◆(工藤篤議員) 木戸浦市長を敬愛っていうか尊敬なさっていたというふうに、身近にいて、そういうふうに受けとめてよろしいでしょうか。
木戸浦市長だったなあ。日本一の福祉都市をつくります。そういう経験ないんだな。今のほうが大変ですよ。だけども、この意気込みは大事です。買っておきたいと思います。 亀田地区での市民プラザの建設、これは大いに期待するところですから、これは頑張ってください。私何でもかんでも反対してるんでないんですよ。やっぱり筋通してるんだよ。合併特例債を使うっていうのは簡単なことでないんだって。使う理由があるんだよ。
それを受け、今は亡き藤岡 敏彦先生を会長に、副会長に故恩村 恭平先生、事務局長には今も健在でいらっしゃる中島 荘牛先生などたくさんの市民の方々で湧源教育構想実現推進会をつくり、結果、当時の木戸浦市長の決断で、公立はこだて未来大学が実現したところでございます。不肖私も全力でお手伝いをさせていただいたものです。 その未来大学が、今医学部を設置しようと、未来大学や西尾市長が全力投入されております。
また、私学についても、これは木戸浦市長以来ですけれども、全国で破格の私学振興補助を出してるというような形での努力をさせていただいてるところでございます。 そうした中で、学力の問題出ておりますけれども、私は学力ではないと思います。
今までの市長さん、井上市長も、木戸浦市長も含めて、バス転換路線という部分を、大っぴらには言っていないけども、大体そういう路線で行きたいということを言っているわけですよ。 西尾市長は市長自体として、バス路線転換という部分の中では、余り言明はしていません。その辺はどう考えるんでしょう。 ◎市長(西尾正範) 江差線の考え方についての御質問でございます。
私としましては、平成6年に木戸浦市長が渡島大野付近ということでオール北海道の観点から譲歩して、そのかわりアクセスについてはきちっとするということで、横路知事との間で協定を結んだときに、木戸浦市長はよもや新函館という駅名が変わるとは思わなかったと思います。私も担当者ですが、そう思っておりました。
にあるわけでありまして、幾つか理由がございますが、仮称とはいえ、1つ目としては、これまで新函館の名称が全国的にも、また地域においても広く認知されてきていること、さらに2つ目としては、新幹線新駅の名称は全国から観光客など新幹線利用者にとってよりわかりやすくインパクトが必要であること、また3つ目としては、新函館駅の立地にかかわる協議経緯、当時大野町であった渡島大野付近ということで決定して、函館市が、木戸浦市長
その後、いろんな変遷の中で、恐らく私はこれ、最後には北海道の緑の基本計画の中で、今の四季の杜公園に変わってったのかなというふうに受けとめてるんですけども、その都度、その時その時の全市的な観点からの検討で定まっていくのかなというふうに考えてるものでございまして、千代台球場や野球場を全面改築する、これは木戸浦市長の時代ですけれども、そのときも駐車場等の問題から大議論、議会の中でされたと。
◎市長(西尾正範) 私も当時、亀田が合併されたときの亀田市の職員ですから、経過も踏まえて、亀田市にも体育館が欲しいというお気持ちは十分理解できるわけなんですが、時代の流れの中で、矢野市長、柴田市長、木戸浦市長、井上市長、その時代時代で道路や下水道、さらには学校施設で大変な御苦労、廃棄物処理もそうです、御苦労なさった。
当時の木戸浦市長は年に何度も国に足を運び、新幹線頭首とまで言われたものであり、北海道新幹線建設促進道南期成会や現駅乗り入れ期成会、そしてすべての函館市民の思いをみずからの力として、地域の将来の振興発展の視点から、現函館駅の新幹線乗り入れに向けて全力を挙げて取り組んできたという経過があるところでございます。
しかし、人口の減少や数回にわたる都心の移動に伴う商業、繁華街の分散が進み、交通や商業、行政の中心として発展してきた函館駅前地区は都市機能の低下を来し、このため函館駅周辺整備構想を策定し、情報、文化、交流機能も視野に入れた新たな拠点地区の創出を目指し、故木戸浦市長の肝いりで函館の新しい顔として新幹線車両対応のホームが平成15年6月に開業となり、現在に至っております。
そこで質問いたしますが、平成17年の定例会において、私は井上前市長に、平成6年に当時の木戸浦市長と横路知事との間で交わされたという覚書に対し、現時点での道の考えを聞きたいと要請し、井上前市長も道にお聞きしたい旨の答弁がありましたが、いまだにその返答が明らかにされていません。道からの返答はあったのでしょうか。あったとすればいつごろだったのか、お聞かせください。
そうした中で、平成元年には市政の基本方針や重要施策に関する事項を協議する場として──これは木戸浦市長の時代ですが──政策会議というのを設け、活用してまいりました。