庄原市議会 2016-02-25 02月25日-01号
平和事業の推進では、戦後70年という節目の年を経て、改めて恒久平和の実現と核兵器の廃絶を心に刻む中で、セミナーやパネル展などの啓発事業に取り組むとともに、平和首長会議等を通じて、平和な社会の持続を働きかけてまいります。環境衛生の充実では、環境基本計画に基づき、環境保全及び循環型社会の構築に取り組むほか、平成30年度の完成に向け庄原市斎場の造成工事に着手することといたしております。
平和事業の推進では、戦後70年という節目の年を経て、改めて恒久平和の実現と核兵器の廃絶を心に刻む中で、セミナーやパネル展などの啓発事業に取り組むとともに、平和首長会議等を通じて、平和な社会の持続を働きかけてまいります。環境衛生の充実では、環境基本計画に基づき、環境保全及び循環型社会の構築に取り組むほか、平成30年度の完成に向け庄原市斎場の造成工事に着手することといたしております。
主権・立憲主義,民主主義,平和主義を踏みにじる暴挙に,大学生を中心にしたSEALDsやママの会など若者が主権者として自発的に声を上げ行動するという,戦後の日本の歴史にない画期的な市民運動として広がっています。 ことし1月4日の国会開会日には約4,000人が国会議事堂前に集まり,主権者の1人として暴挙を決して忘れない,安倍政治を許さないとコールを響かせました。
戦後,女性が選挙に参加できるようになって以来の大きな変革です。そして,今年の参議院選挙から投票できる年齢が引き下げられ,18,19歳の若者が生まれて初めて投票箱に1票を投じることになります。数でいうと約240万人の若者が有権者の仲間入りし,有権者の比率にすると約2%となり,高校3年生の約3分の1が投票することになるようです。
一方で,戦後復興の希望をばらに託したばらのまちづくりは,市民主体のまちづくりへと発展し,現在の協働のまちづくりの基盤となっております。このような100年の歩みを市民の皆様とともに,記念事業を通じて振り返ることで,先人たちの業績に感謝し,積み重ねてきた歴史,文化,伝統を次世代に誇りを持って引き継いでまいる考えであります。
次に、国内情勢につきましては、戦後70年の節目を迎えた昨年、集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法が成立し、戦後の安保政策の大転換が図られることとなったわけであります。法案成立までには、法案の是非を含めた国民の関心度の高まりを強く感じたところであり、政府には、こうした背景や今後の国際情勢等を踏まえつつ、説明責任を十分に果たしていただきたいと願っておるところでもあります。
確かにアメリカは戦後の冷戦構造の一翼を担ってきましたし、世界の警察としての重要な役割を果たしてきました。だからといって、我が国はアメリカと安全保障政策の理念において共同歩調をとる必要はなく、あくまでもこれまでの平和外交を主として使命を果たしていくべきなのです。
確かにアメリカは戦後の冷戦構造の一翼を担ってきましたし、世界の警察としての重要な役割を果たしてきました。だからといって、我が国はアメリカと安全保障政策の理念において共同歩調をとる必要はなく、あくまでもこれまでの平和外交を主として使命を果たしていくべきなのです。
これには専門業務型と企画業務型がありまして、労働基準法は、大体戦後間もなく、第1次産業、第2次産業の労働者がほとんどだった昭和22年につくられた法律でありまして、そもそも労働時間規制になじむ働き方をしている人がほとんど多かったということでございます。 ただ、その後、今第3次産業っていうのは85%以上となってますよね。
八田原ダム管理事務所の調べでは,台風関係では戦後2番目と推定される毎秒650トンの最大流入量を記録,そのため310トン放流したが,増水に追いつかず,ダム水位が4メートル以上に上がったと。芦田川河口堰では,堰ができてから最も多い毎秒1840トンの流入量を記録。
まず、歌舞伎町ビル火災からの教訓から指導ということで、少しさかのぼりますけれども、2001年(平成13年)ですが、9月1日に歌舞伎町でビル火災が起こりまして、日本で戦後5番目の大惨事と言われた火災でございます。一酸化炭素中毒で44名の死亡者が出、そして3名の負傷者を出しております。出火原因が明らかにはなっておりませんけれども、放火等の不審火と言われております。
まず、歌舞伎町ビル火災からの教訓から指導ということで、少しさかのぼりますけれども、2001年(平成13年)ですが、9月1日に歌舞伎町でビル火災が起こりまして、日本で戦後5番目の大惨事と言われた火災でございます。一酸化炭素中毒で44名の死亡者が出、そして3名の負傷者を出しております。出火原因が明らかにはなっておりませんけれども、放火等の不審火と言われております。
ことしは戦後70年という節目の年でありました。もう少しでことしも暮れようとしておりますが、戦後70年の年の瀬に当たりまして、あの戦争は何だったのだろうかという意味で、皆様方に御紹介したいエピソードがございます。 それは、平成3年に日本傷痍軍人会代表団がオランダのアムステルダム市長主催の親善パーティーに招待されたときのアムステルダム市長の挨拶であります。その挨拶文を御紹介いたしたいと思います。
◎市長(小村和年) 本市ならではの産業振興でありますけれども、私ども呉市のまちづくりの歴史を振り返ってみますと、戦前は海軍、海軍工廠のまちとして、戦後はまたそれを引き継いだ、特に海軍工廠の跡地に立派な企業に立地をしていただいた、そういったものづくり、その技術においてオンリーワン、ナンバーワンの企業から成る臨海工業地帯が形成をされました瀬戸内海有数の重厚長大型の産業を基幹とする工業都市、まさにものづくりのまちとして
本年は、特に戦後70年という節目でした。平和のとうとさをしみじみと実感する年ではなかったでしょうか。 日本においても、悲惨な事件、事故がありますし、また世界に向けてもいろんなことがあります。グローバル化とIT化も関係しているのではないかと思うんですけれども、自分の居場所があちらにもこちらにもあるという、何か不安定な時代に入っているような気がいたします。
◎市長(小村和年) 本市ならではの産業振興でありますけれども、私ども呉市のまちづくりの歴史を振り返ってみますと、戦前は海軍、海軍工廠のまちとして、戦後はまたそれを引き継いだ、特に海軍工廠の跡地に立派な企業に立地をしていただいた、そういったものづくり、その技術においてオンリーワン、ナンバーワンの企業から成る臨海工業地帯が形成をされました瀬戸内海有数の重厚長大型の産業を基幹とする工業都市、まさにものづくりのまちとして
つきましては,改めて原点に立ち返る意味でも,戦後から今日を迎えるまでの本市の近代史を再確認するとして,本市では,今から66年前となる昭和24年に,平和記念都市建設法が制定されました。 戦後における本市の再建に当たっては,財政的にも逼迫した状況が続く折,用いられるあらゆる手段を駆使しては,復興を遂げなければならない。
ことしは,よく言われますように,戦後70年という節目の年でもあり,また福山市が100年を来年迎えるその前年の年でもあります。この70年の中で,日本というか,大きな戦争がなかったことやら,そうした中で確実に人口がふえてきた。そして,経済もそれなりというか,世界の歴史になかったような形の中で,まれに見る経済成長していった。その担保となる土地も安定して,右肩上がりになっていったと。
戦後70年戦争をしなかった平和国家の根幹を破壊するものです。戦後最悪の立憲主義を否定する「戦争法」ではないでしょうか。 ご存知のように民意は反対が圧倒的でした。安倍政権は国民をみくびり、決めてしまえば反対運動は治まると採決を強行しました。しかし、成立後の現在、元最高裁長官をはじめ憲法学者、学者の会、ママの会、自由と民主主義を守る学生シールズ等々の団体が総結集して「戦争させない、9条壊すな!
そうしたことを受けて,その当時戦後の復興に対して日本の国産材がどんどんと使用されていた。ある程度価格も高騰しとったかなと思うんですが,しかし関税ゼロから,全てゼロじゃないんですよ。製材,それから加工,そんなものは今でも10%は残っとるそうですが,それから考えて今の木材価格の疲弊というのは,その関税撤廃から来たと思います。
戦後70年戦争をしなかった平和国家の根幹を破壊するものです。戦後最悪の立憲主義を否定する「戦争法」ではないでしょうか。 ご存知のように民意は反対が圧倒的でした。安倍政権は国民をみくびり、決めてしまえば反対運動は治まると採決を強行しました。しかし、成立後の現在、元最高裁長官をはじめ憲法学者、学者の会、ママの会、自由と民主主義を守る学生シールズ等々の団体が総結集して「戦争させない、9条壊すな!