神石高原町議会 2020-03-13 03月13日-03号
林地台帳というのは,誰々兵衛がどの土地を持って,誰がどうなんじゃ,どうなってるような台帳だと思うんですけども,やはりまだまだ相続されてない土地もいっぱいありますし,明治時代とか大正時代の名前がいっぱい出てくる林地台帳もいっぱいあると思うんです。
林地台帳というのは,誰々兵衛がどの土地を持って,誰がどうなんじゃ,どうなってるような台帳だと思うんですけども,やはりまだまだ相続されてない土地もいっぱいありますし,明治時代とか大正時代の名前がいっぱい出てくる林地台帳もいっぱいあると思うんです。
この青山クラブも大正時代に建てられたものだそうでございますが、専門家の人に言わせれば、この時代に造った建物というのは東京大震災の影響を受けて、耐震の診断とかということではなしに、非常に頑丈な造りになっているということを耳にしました。呉市にとってもこの青山クラブは、入船山記念館も含めまして、あのエリアは呉市の中でも人を引きつける、また、訪れてもらいたい場所だと思うんですね。
この青山クラブも大正時代に建てられたものだそうでございますが、専門家の人に言わせれば、この時代に造った建物というのは東京大震災の影響を受けて、耐震の診断とかということではなしに、非常に頑丈な造りになっているということを耳にしました。呉市にとってもこの青山クラブは、入船山記念館も含めまして、あのエリアは呉市の中でも人を引きつける、また、訪れてもらいたい場所だと思うんですね。
旧陸軍被服支廠は,日露戦争の中,明治38年に洗濯工場として建築され,宇品港が大陸に物資を送る拠点となっていたことから,明治40年に軍服や軍靴を中心に軍事関係の衣服や雑貨類を製造する,東京,大阪に次ぐ,3番目の被服廠となり,現存する4棟,10から13号倉庫は大正2年に竣工されたものであります。爆心地から約2.7キロの距離にあり,原爆投下時も倒壊を免れ,負傷者を収容する臨時救護所となりました。
大正レトロをイメージした駅舎とバスとタクシーの乗降場が整備された駅前ロータリーには、備後庄原駅周辺への関心も高くなっているものと思われます。今年度末には駅前公園も完成をいたしますので、今後さらに多くの皆さんに親しまれるエリアとなるよう関係団体と連携をし、活用を図ってまいりたいと考えております。 ○宇江田豊彦議長 坂本義明議員。
倉田百三は、明治24年に庄原で生まれ、大正・昭和の時代にかけて活躍した文学者で、主な著書には出家とその弟子、愛と認識との出発などがあります。また有名な言葉には、青春は短い。宝石の如くにしてそれを惜しめという言葉があり、市民はもとより、広く知られているところです。倉田百三文学館は、平成元年、本市ゆかりの文学者の資料保存や次世代への継承を目的に、関係者の熱望と努力により開館いたしました。
今から107年前の大正元年に日本から台湾に渡り,日本統治下でおよそ50年にわたり米の品種改良を重ね,おいしくすぐれた品質を持つ蓬莱米と命名された米の開発に成功し,台湾の農業発展に大きく貢献し,日本の敗戦後も請われて台湾に残り,蓬莱米の普及に努め,蓬莱米の父と呼ばれている磯 永吉氏という人がおられますが,何と福山市の出身と聞いて驚いています。
1918年の大正7年には本庄水源地が完成いたしますけれども、海軍優先なので、水が回ってこないので、高地部や合併町村に給水ができずに、毎年のように給水制限がありました。 ですから、市民は海軍の恩恵を受けておらず、こういう状況だったんじゃないかということで伺います。
1918年の大正7年には本庄水源地が完成いたしますけれども、海軍優先なので、水が回ってこないので、高地部や合併町村に給水ができずに、毎年のように給水制限がありました。 ですから、市民は海軍の恩恵を受けておらず、こういう状況だったんじゃないかということで伺います。
次に,郷土資料館についてですが,個人的には町なかへの移転も視野に入れて,430年前の広島誕生から,江戸,明治,大正,昭和,そして原爆投下,復興の歴史を一連の流れで見ていただけるような施設,またVRを初めとする映像を多用したり,説明文や音声案内も多言語化したりとかして,外国人観光客の方にも被爆以前の広島の歴史を知っていただけるような施設,個人的には広島歴史館というのがいいかと思うんですが,そういったものに
当病院のホームページによると、今から約100年前の大正6年に日立造船職員、関係者の福利厚生の一環として90床でスタートされました。昭和18年に120床に増床し、この時期に一般市民の診療も始まりました。
それから2階に上がる手すりについては、大正モダニズムをあらわすデザインとなっております。それから映画館として使用されていた古い映写機、映写室もございまして、白黒映画から始まりましたシネマ時代を思い出されること、などなど歴史的な価値を持つ建物であるということでございました。
先ほど指定文化財を改修前の状態で目指すのか、改修後を目指すのかということでございますけども、やはりこちらの建物につきましては、大正期に立ち上げられてこの間いろんな扱い利用される中で、上下の町並みとあわせて非常に建物の価値があるというような指導をいただいている、先生からも意見をいただいております。
そしてこの映画の中で、企業と住民の調整に当たる中心的役割を担った人物として登場する方のモデルとなりましたのが、旧大正村、現在の府中市協和地域木野山町出身の角彌太郎氏でございます。煙害という非常に難しい問題解決のために、住民に誠意をもって対応され、高さ156メートルの大煙突を立てるなど、さまざまな施策により問題を解決に導き、住民の厚い信頼を得た人物であったと伺っております。
また、9月1日は、大正12年に関東大震災が発生した日でもありますが、暦の上では二百十日に当たり、この時期は台風シーズンのただ中でもございます。過去には、死者、行方不明者5,098人という、明治以降最大の被害を出した昭和34年の伊勢湾台風を初め、被害の大きさから、三大台風と言われる枕崎台風及び室戸台風も、全て9月に上陸したものであります。
時代も変わり、恐らく明治の方はおられないと思いますが、大正、昭和、平成、令和と時代も大きく変化している、そんな中で、生活環境も大きく変わっております。 エネルギー一つを見ても、終戦当時、昭和20年ごろは日本のエネルギーの主は石炭でございました。
これらのため池の90%以上は大正時代以前につくられており、今日の農村における高齢化、混住化、水田の荒廃等による維持管理の粗放化により老齢化がさらに進んでいることから、決壊等のおそれのある危険なため池は年々増加しています。また、多くのため池は耐震性について検証されていない状況にあります。
197 ◯地籍調査課長 所有者不明の土地でございますが、中には海外、ブラジルとかアメリカとか、もう既に過去に移住された方もいらっしゃいますし、中には所有者が明治以前に生まれた方で、大正ぐらいに亡くなられて、かなりの相続人が発生して、皆さん方そういった土地がわからなくなってる場合もございます。
呉市水道事業は、大正7年に旧海軍からの余水分与を受け市民送水を開始いたしました。昨年4月には100周年を迎え、7月に記念式典を開催し、次の100年に向けた新たな出発をされました。この100年の間には、戦争による水道施設の破損や自然水害などさまざまな苦難がありましたが、これらを乗り越え、呉市民に安全・安心な水道水を供給し続けてこられました。
呉市水道事業は、大正7年に旧海軍からの余水分与を受け市民送水を開始いたしました。昨年4月には100周年を迎え、7月に記念式典を開催し、次の100年に向けた新たな出発をされました。この100年の間には、戦争による水道施設の破損や自然水害などさまざまな苦難がありましたが、これらを乗り越え、呉市民に安全・安心な水道水を供給し続けてこられました。