18件の議事録が該当しました。
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該当会議一覧

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尾道市議会 2019-12-06 12月06日-04号

商人まちだけに、最高の場所を子供たち教育環境にと提供したものではないでしょうか。土堂小の校歌に「千余の我等なり」という一節があります。1,000人を超える児童が通った学校が、20年ほど前には児童数が67名までに減少し、存立の危機を迎えた時期もありました。その危機的状況を救ったのが校長に就任された陰山先生です。時の亀田市長英断陰山校長の熱情が、フェニックスのごとくよみがえらせてくれました。

尾道市議会 2018-06-13 06月13日-02号

ぜひとも市が後押しをする形で、尾道商人が850年を祝う企画をぜひともしていただきたい。尾道商人が協賛しろ、寄附金を出してください、そうではなくて、尾道商人が考える事業に取り組んで、今余りまだ決まってないということでしたので、取り組んでいただきたいというふうに思いますが、いかがでしょうか。 ○議長吉田尚徳) 山根建設部長

尾道市議会 2018-03-08 03月08日-03号

そのように新たな時代を迎えるに当たり、我々はこれまでの時代を振り返り、我々の先人、士魂商才、武士の魂と商人知恵宗教的高雅が融合した崇高な理念のもとに尾道市は今日まで発展を続けてきたことを振り返るときではないかと思います。そうした考え方の延長線上にあるのが日本遺産まち尾道ではないかと思いながら、今演壇に立たせていただいております。 

尾道市議会 2017-09-07 09月07日-02号

北前船により、各地の商人海運関係者との交流尾道においても活発に行われました。これに伴う具体的な文化交流についてはなお研究が必要でございますが、尾道商人は、北前船寄港地として多くの財がもたらされたことにより、茶園文化を花開かせました。茶室のある別荘を建て、頼山陽菅茶山など、多くの文人を招きました。これらに刺激され、平田玉蘊など地元文化人もあらわれ、尾道文化は大きく発展しております。 

尾道市議会 2017-06-16 06月16日-03号

商人まち尾道として鎌倉時代から何代にもわたって培われた物を見る目、すなわち審美眼を受け継いだ経営者が選んだ商品を、市外でつくられた商品であっても洗練された感性で、尾道商人が選んだものはふるさと産品に加えるべきと考えますが、いかがでしょうか。お尋ねいたします。 ○議長吉田尚徳) 平谷市長。 ◎市長平谷祐宏) それでは、ただいまの御質問にお答え申し上げます。 

尾道市議会 2015-06-19 06月19日-03号

利便性の高い海の川は、重要な交通路として多くの商人に重宝され、尾道中世には瀬戸内海の人・物・財が集積する港町として発展した」。港がストーリーの基軸になっています。 そこで、あえて述べておきたいと思います。東京オリンピック・パラリンピックの前年、2019年は尾道開港850年の記念すべき年に当たります。市長も、所信表明や答弁などで述べられてきたところであります。

尾道市議会 2013-09-10 09月10日-01号

侍の魂と商人知恵、もう少し知恵を出して、血のにじむ努力をして行政執行に当たっていただきたいというふうに思っております。 そういった意味で、このような形で後退をするような条例改正で、これまでと同じように市民の医療はきちっと担保して守っていけるのかということについて1点お伺いいたします。 以上です。 ○議長藤本友行) 田房福祉保健部長

尾道市議会 2012-06-26 06月26日-04号

無駄な支出は削減すべきですが、チャンスのときには無理をしても投資を行うのが民間企業商人の発想だろうと思います。チャンスを逃した責任も行政はとらなくてはならないと認識していただきたいものです。 経済活性化なくしては、国民健康保険料の値上げとして尾道市民にツケがはね返ることも今回の議案審議で明らかになりました。

尾道市議会 2010-06-23 06月23日-03号

特に、生きた情報が必要な経済情報学部の学生さんの住まいは、閑静な山の中はふさわしくない、生きた尾道商人と触れ合い、知恵を授かり、相互交流することで学識も高まります。尾道商人と触れ合えるところで4年間を過ごすことは何物にもかえがたい経験です。尾道の魅力で勝負してこそ勝算が開けてくるのではないでしょうか。 5番目は、住宅リフォーム助成制度についてです。 

尾道市議会 2005-12-13 12月13日-02号

この中で、彼女を物心両面にわたって支援をした橋本竹下を通して、尾道商人の魂と誇りについて感じ入りました。それは彼が尾道豪商、その財力と文化レベル日本国内でも特異な存在で、その代表格竹下であった。天保の飢饉の折、竹下は自費で老若男女それぞれに賃金を払い、民衆の救済事業として行った慈観寺の本堂の再建は、尾道より一人の死者も出さなかった功績で、今なお語り継がれているからです。

尾道市議会 2000-06-21 06月21日-03号

結局物が、商品が売れなければ、商人の町である尾道市税の収入がふえないというところに関連がありますので、この立場からもやはり尾道市においても、こういうものを国の政策のところでのさまざまな問題を拾い上げて、市としての財源の限りはありますが、こういうものをフォローする施策を進めていただくようにお願いをしておきたいと思います。 

尾道市議会 1997-03-11 03月11日-03号

港を利用した商業の町として栄え、大阪に次ぐ豪商尾道には多く、一人の商人が一人で寺を建て、その数は81カ寺であったと言われております。明治3年には県庁を広島に置くか尾道に置くか論議もされ、明治7年、広島市に設置がされておりますが、当時港を利用しての繁栄ぶりが伺えるわけであります。 戦後、衰退の一途をたどってまいりました。

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