尾道市議会 2020-09-09 09月09日-02号
どうか尾道の、瀬戸内随一の人、物、材が集積した中世から近代に趣を残す箱庭的都市を支えた様々な尾道の商人の明かりを消すことのないよう、かじ取りを願うものであります。 そこで、これから9月下旬に始まる市内商品券の予算化はすばらしい英断であり、苦しんでいる市民にとりましては大きな希望であります。
どうか尾道の、瀬戸内随一の人、物、材が集積した中世から近代に趣を残す箱庭的都市を支えた様々な尾道の商人の明かりを消すことのないよう、かじ取りを願うものであります。 そこで、これから9月下旬に始まる市内商品券の予算化はすばらしい英断であり、苦しんでいる市民にとりましては大きな希望であります。
商人のまちだけに、最高の場所を子供たちの教育環境にと提供したものではないでしょうか。土堂小の校歌に「千余の我等なり」という一節があります。1,000人を超える児童が通った学校が、20年ほど前には児童数が67名までに減少し、存立の危機を迎えた時期もありました。その危機的状況を救ったのが校長に就任された陰山先生です。時の亀田市長の英断と陰山校長の熱情が、フェニックスのごとくよみがえらせてくれました。
このことは、大田庄だけでなく他の領地の年貢米や物資の積み出し港、中継地となり、多くの海運業者や商人が集まるまちであったことにも裏づけられます。商人のまちとなったことにより、多くの寺社が山際に建立され、第1期黄金時代を迎えることとなります。
ぜひとも市が後押しをする形で、尾道の商人が850年を祝う企画をぜひともしていただきたい。尾道の商人が協賛しろ、寄附金を出してください、そうではなくて、尾道の商人が考える事業に取り組んで、今余りまだ決まってないということでしたので、取り組んでいただきたいというふうに思いますが、いかがでしょうか。 ○議長(吉田尚徳) 山根建設部長。
そのように新たな時代を迎えるに当たり、我々はこれまでの時代を振り返り、我々の先人、士魂商才、武士の魂と商人の知恵と宗教的高雅が融合した崇高な理念のもとに尾道市は今日まで発展を続けてきたことを振り返るときではないかと思います。そうした考え方の延長線上にあるのが日本遺産のまち尾道ではないかと思いながら、今演壇に立たせていただいております。
北前船により、各地の商人や海運関係者との交流が尾道においても活発に行われました。これに伴う具体的な文化の交流についてはなお研究が必要でございますが、尾道商人は、北前船の寄港地として多くの財がもたらされたことにより、茶園文化を花開かせました。茶室のある別荘を建て、頼山陽や菅茶山など、多くの文人を招きました。これらに刺激され、平田玉蘊など地元文化人もあらわれ、尾道文化は大きく発展しております。
商人のまち尾道として鎌倉時代から何代にもわたって培われた物を見る目、すなわち審美眼を受け継いだ経営者が選んだ商品を、市外でつくられた商品であっても洗練された感性で、尾道商人が選んだものはふるさと産品に加えるべきと考えますが、いかがでしょうか。お尋ねいたします。 ○議長(吉田尚徳) 平谷市長。 ◎市長(平谷祐宏) それでは、ただいまの御質問にお答え申し上げます。
利便性の高い海の川は、重要な交通路として多くの商人に重宝され、尾道は中世には瀬戸内海の人・物・財が集積する港町として発展した」。港がストーリーの基軸になっています。 そこで、あえて述べておきたいと思います。東京オリンピック・パラリンピックの前年、2019年は尾道開港850年の記念すべき年に当たります。市長も、所信表明や答弁などで述べられてきたところであります。
商人のまち尾道であれば、尾道ブランドの構築、全国への進出などを考えると、同じお金をかけるのであれば、東京事務所の利用は無限大のように感じてなりません。だから、私は、尾道の物産館の東京進出計画を提案しているのです。 現在銀座にある広島県物産館TAUは評判であるようにお聞きしております。
侍の魂と商人の知恵、もう少し知恵を出して、血のにじむ努力をして行政執行に当たっていただきたいというふうに思っております。 そういった意味で、このような形で後退をするような条例改正で、これまでと同じように市民の医療はきちっと担保して守っていけるのかということについて1点お伺いいたします。 以上です。 ○議長(藤本友行) 田房福祉保健部長。
無駄な支出は削減すべきですが、チャンスのときには無理をしても投資を行うのが民間企業、商人の発想だろうと思います。チャンスを逃した責任も行政はとらなくてはならないと認識していただきたいものです。 経済活性化なくしては、国民健康保険料の値上げとして尾道市民にツケがはね返ることも今回の議案審議で明らかになりました。
それ以前には、大阪の米相場をいち早く知るため、のろしリレーで情報を得た尾道商人もいます。また、銀山街道に象徴されるように、貨幣の原料となる銀も石見銀山から尾道まで運ばれ、尾道港からヨーロッパへと輸出され、世界の銀相場を左右した歴史もあります。
特に、生きた情報が必要な経済情報学部の学生さんの住まいは、閑静な山の中はふさわしくない、生きた尾道商人と触れ合い、知恵を授かり、相互交流することで学識も高まります。尾道商人と触れ合えるところで4年間を過ごすことは何物にもかえがたい経験です。尾道の魅力で勝負してこそ勝算が開けてくるのではないでしょうか。 5番目は、住宅リフォーム助成制度についてです。
この鉾から、当時の尾道の商人の財政力、祭りにかける心意気の一端が見え、商都尾道の歴史を知る上で貴重なものであると思いました。また、こうした展示をきっかけにし、眠っていた郷土資料が明るみになることで、市民への呼びかけにもつながり、このような展示の重要性を改めて認識いたしました。
この中で、彼女を物心両面にわたって支援をした橋本竹下を通して、尾道商人の魂と誇りについて感じ入りました。それは彼が尾道の豪商、その財力と文化レベルは日本国内でも特異な存在で、その代表格が竹下であった。天保の飢饉の折、竹下は自費で老若男女それぞれに賃金を払い、民衆の救済事業として行った慈観寺の本堂の再建は、尾道より一人の死者も出さなかった功績で、今なお語り継がれているからです。
徳島から藍商人としてたびたび尾道に来ていた三木半左衛門氏は、商売するならこの尾道だと尾道に居つき、還暦を記念して諸国巡礼の旅に出た後、「何と全国を回ってみて、尾道の景観にまさるものはない。尾道は日本一である。
結局物が、商品が売れなければ、商人の町である尾道で市税の収入がふえないというところに関連がありますので、この立場からもやはり尾道市においても、こういうものを国の政策のところでのさまざまな問題を拾い上げて、市としての財源の限りはありますが、こういうものをフォローする施策を進めていただくようにお願いをしておきたいと思います。
港を利用した商業の町として栄え、大阪に次ぐ豪商が尾道には多く、一人の商人が一人で寺を建て、その数は81カ寺であったと言われております。明治3年には県庁を広島に置くか尾道に置くか論議もされ、明治7年、広島市に設置がされておりますが、当時港を利用しての繁栄ぶりが伺えるわけであります。 戦後、衰退の一途をたどってまいりました。