172件の議事録が該当しました。
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該当会議一覧

会津若松市議会 2007-09-10 09月10日-一般質問-02号

会津は、このとき城もまちも焼け、戊辰戦争の傷を負いながらも、人口3万488人を有する県内一にぎわいのあるまちでありました。そして、市制施行後も明治、大正、昭和と長期にわたり繁栄をしたまちでもあります。少なくとも昭和30年代までは、県都福島市に肩を並べる県内一、二を争う都市でありました。東北に会津ありと、全国にも名の知れ渡った元気な市でありました。

会津若松市議会 2007-06-12 06月12日-一般質問-03号

西若松駅の周辺には、我が国女性アメリカ移民第1号として有名なおけいが子守をしていたスネル邸跡戊辰戦争会津官軍を打ち負かした唯一の場所住吉神社秀長寺周辺古戦場跡など、そのほかにも幾つか観光資源が存在しておりますが、こうした資源に光を当てて今後観光振興を図るべきと考えますが、いかがですか。

会津若松市議会 2007-03-01 03月01日-一般質問-05号

また、大野原には戊辰戦争戦場がございますが、戊辰戦争は、慶応4年、鳥羽伏見の戦いに始まり、会津藩が薩長を中心とする西軍と8月22日から23日の早朝にかけて白虎隊2番士中隊西軍を迎え撃った場所でもあります。戊辰の墓と供養塔が祭られていることはご承知のとおりであります。 そこで、これら河東地域内にある史跡施設等を生かした観光振興について、その認識をお示しください。

白河市議会 2006-12-11 12月11日-02号

戊辰戦争による白河口における東西両軍の激戦は、数回にわたる攻防の末、会津同盟の敗北するところとなり、このことが会津落城の引き金となって、歴史の流れは一気に明治政府樹立の道へと進展いたしております。このように、白河口激戦は、会津戊辰戦争歴史転換点として我が国近代史に大きな史跡を残したと言えるのではないかと思います。 

郡山市議会 2005-09-09 09月09日-04号

次に、逢瀬町と湖南町にまたがる峠であります御霊櫃峠についてでありますが、この峠は明治時代半ばまでは会津地方との重要な交通路として使われ、戊辰戦争のときには戦場となった地であると聞き及んでおります。通称、安積山といわれる額取山は5月から6月にかけてヤマツツジが満開となり、一面を赤く染め尽くします。それは大変眺望もよく、この時期になりますと、市外、県外から多くの方々がお見えになります。

棚倉町議会 2002-12-19 12月19日-03号

1868年から69年の戊辰戦争でも官軍あるいは幕府軍側にも日の丸の旗を一応掲げて戦ったというような、本当にこれは軍旗としての印象づけが非常に強いということですね。これは本当に平和な日本にはそぐわない。

本宮市議会 2001-03-08 03月08日-02号

それは、戊辰戦争に破れた長岡藩が、城や町を焼かれ、領土は荒れて人は傷つき、気力を失い、その上に食い物もなく、それ購入する資金は戦費に使い果たしてどうすることもできず困り果てていました。そのような窮状を見るにしのびず、親戚のある藩が当座の食料として米百俵を救援米として送ってきました。喜びに沸いた長岡藩主たちが、敗戦後の長岡藩執政だった小林虎三郎に、すぐその米を全藩主に分配することを要求しました。

福島市議会 2000-09-13 平成12年 9月定例会−09月13日-03号

承知のとおり、福島市は藩政時代板倉藩の領地として栄え、その起源は元禄15年、板倉重寛公福島に居城を構えて以来、慶応4年戊辰戦争まで12代166年の間、板倉公藩政下にありました。私は、市長の提唱されている川から陸(おか)へのまちづくりについて異を唱えるものではありませんが、福島歴史を市民に一層理解してもらうための努力、配慮が欠けているのではないかと思います。

南相馬市議会 1999-12-07 12月07日-01号

歴史的には戊辰戦争により大館城が落城するまで城下町として古くから栄えた天然秋田杉美林伝統工芸では曲げわっぱ、自然風土と長い歴史が生んだ特産品きりたんぽ、観光国立公園十和田湖八幡平入り口として資源の豊富な地であります。 市面積は401.5平方キロメートル、人口6万7,777人であります。 議会関係については、議員現定数28人、4常任委員会、5会派、事務局8人であります。 

福島市議会 1998-06-18 平成10年 6月定例会−06月18日-03号

さらに、福島県の学校教育については、戊辰戦争以来の明治政府の政策が暗く長い影を落としているという人もおります。私自身、それを立証するほどのものを持っておりませんが、進学率学力レベル教育環境全国比低位にあることは認めざるを得ないと思います。  こういう状況からすれば、今、当市が財政支援の要請を受けております福島学院構想は、真剣に前向きに検討されなければならない課題と考えるところであります。