越前市議会 2023-12-07 12月08日-05号
さらに、数多くの神社仏閣や本多富正が造った府中城下町の面影など、歴史文化に触れることができます。 城下町を巡る謎解きゲームにつきましては、11月からスタートしたところであります。さらに、今後、紫式部をテーマにした謎解きゲームについても開発を検討してるところであります。
さらに、数多くの神社仏閣や本多富正が造った府中城下町の面影など、歴史文化に触れることができます。 城下町を巡る謎解きゲームにつきましては、11月からスタートしたところであります。さらに、今後、紫式部をテーマにした謎解きゲームについても開発を検討してるところであります。
また、市長からは、先般、切り込み隊長としての役割を期待してる旨のお言葉をいただいておりますので、これはまず情報をつかむアンテナを高くしまして、戦局といいますか、状況をよく見極めながら、当地でいいますと、本多富正公のように一番やりの役割を立派に果たせるようなことができるよう、職員の方々と一丸となって頑張ってまいりたいと思っております。 以上でございます。 ○副議長(吉田啓三君) 三田村輝士君。
まず、本年3月に越前市史資料編4、本多富正関係文書という本が市長の名のもとにおいて越前市から発刊されました。最初の言葉に市長からの文書があるわけですけれども、本多富正は現在の越前市役所の場所に居を構え、治水工事や道路の整備を手がけ府中館を中心に武家屋敷、町家、寺院を配置するなど現在の市中心市街地の礎をつくりました。
府中城址は中世後期戦国時代から幕末まで約300年にわたり府中三人衆で加賀藩初代藩主となった前田利家の築城から、江戸時代には本多富正入府から9代にわたり府中城址として在城しました。特に本多家約270年の治世において、今日の越前市の都市基盤、産業振興、人づくりの基礎が築かれました。
これはたけふのあゆみ、合併前のときに奈良市長が巻頭言でお言葉をいただいておりますけれども、加賀百万石、基礎が築かれた府中という形の中で、本多富正の前の時代の戦国時代の絵図、府中城、これは実証されてなかった。でも、今回この奈良市長が巻頭言いただいた、このたけふのあゆみの中に、この府中城の跡地の一角が今回こうした形で発掘されたという事実であります。
光明寺用水を初めとした芝原用水水系は,九頭竜川の左岸を潤す水路で,その歴史は日本でも最も古いとされ,開削は1607年,当時の藩主結城秀康の命により,家老の本多富正が城下の飲料水を確保するためにつくられたと言われております。
現代の私たち市民が、冒頭に申し上げたとおり、目先の利益や短期的な成果を追い求め過ぎた結果を反省し、覆っている閉塞感を打破するため、人づくり、物づくり、まちづくりを力強く推進させるために、400年前に本多富正が整備した町用水と木の並木の復活を期待いたします。来年をまちづくり復興元年と位置づけて、計画的に町用水と木の並木回廊の整備、そして通り名の復活ができないのか。
歴史、伝統を持ち、歴史資源が豊かな越前市の町並みを見ると浮かんでくる光景は、1601年に本多富正がつくり、約400年、道の真ん中に流れていた川と松並木です。平成13年に現在する古い蔵などを店舗や住宅として再生し、風情豊かな町並みに整備された蔵の辻は、国土交通大臣表彰の都市景観大賞を受賞しております。
平成12年11月5日、美術が語る本多富正の人間哲学の巻頭講演を初めに、20にもわたる事業を本多富正入府400年記念事業ということで、1年を通じ、まちづくり文化事業が開催されてきました。多くの市民が参加し、歴史認識を新たにされた方が多くおられたかというふうに思いますが、市長はこの事業についてどう認識されていますか。感想もあわせて、まずお尋ねしたいと思います。 ○議長(山本清内君) 三木市長。
え方は ・ 保育士の仕事に対しての市長の理解は ・ 給食業務の民間委託の必要性は ・ 学校給食の民間委託のデメリットは市長3 国民健康保険制度について ・ 国保税の滞納は何が原因と思うか ・ 国保税の引き下げの考えは ・ 資格証明書の発行について対処法は ・ 国保税の減免制度についての活用法は市長10中 西 眞 三1 まちづくり文化事業について ・ 2001年展開されてきた“本多富正
最後に、越前打刃物がなぜ全国的に有名になったのか、以前の議会でも紹介させていただきましたが、江戸時代府中領主であった本多富正や本多家が保護奨励策や商人の販路拡大にも努力したことによると言われています。これまでの歴史を見ましても、官主導の販売施策は時には大切であります。
今回、秋季に考えておりますのは、本多富正展を今考えておりますけれども、詳細については次回の運営審議会の中で詰めてまいりたいと考えていますので、よろしく御理解賜りたいと思います。(「議長」と呼ぶ者あり) ○議長(山本清内君) 服部産業経済部長。
またその一方で,慶長年間に福井藩の家老であった本多富正は,九頭竜川の治水に努めるとともに,秀康入国によって当時4万人を超えたと言われる福井城下の人々の飲料水を確保するため堰堤を設け,芝原上水とし引水し,ライフラインの確保も行われているのであります。 こうした戦国末期から江戸時代の街づくりは,封建社会が崩壊し,本格的に産業革命の影響を受ける明治維新後に大きな転換が求められたのであります。
江戸時代、府中領主であった本多富正や本多家が保護奨励策や商人の販路拡大にも努力したと、こういうふうに書かれていました。 現在、存続の岐路に立たされている越前打刃物業界も、平成の時代に工芸の里構想を基本計画どおりに実現させて、名実ともに全国的に揺るぎないものにしたと、後世の人々から賛嘆されるようにしてほしいと、このように要望しておきます。
また、戦国時代には織田信長、豊臣秀吉、柴田勝家、前田利家等々がやっぱり武生に駐留していたというようなことで、少なくともどこかのお寺に関係があると思いますが、そういうなところ、さらに近世では本多富正が270年間統治をいたしておりますけれども、その菩提寺である龍泉寺には、この間もそれぞれの寺宝が文化財として展示されましたが、そういうようなものの見学、あるいは松尾芭蕉もこっから奥の細道で、この武生の地を通
また、今まで紫式部云々等で言うてまいりましたが、さらに時代がさかのぼりまして、この近代的な府中の祖と言われる本多富正侯が武生においでになって、そして400年たつというようなことで、当然この市民としては本多富正に対する親しみというものもありますし、現在本格的に本を書いておいでになるような人もおいでになりますが、現在武生市の図書館の中の資料といたしまして、専門的にこの本多富正侯を研究しようと思うことにつきましては
江戸時代になりますと、本多富正侯が府中領主として1601年入府したのでありますが、文化遺産としましては藤垣神社の千鳥のびょうぶ、月光寺の大仏、経王寺の正徳元年府中絵図、谷口家、大井家、城福寺庭園、越前万歳など皆様になじみの文化財が羅列されるのであります。
また、本多富正展や毫摂寺の寺宝を紹介する宮中衣紋御調度展など、武生の歴史を知る上で重要な資料の展示を特別に展示する企画をこれまでに過去12回行ってまいりました。