松山市議会 2020-12-07 12月07日-04号
まだ戦後の混乱が続く昭和24年、肉親や知人の消息を尋ねるラジオ番組が放送されていた頃、お互いの無事を確かめ励まし合うには、年賀状が一番いい。それにお年玉をつけたら、もらった相手の心はもっと和むのではないだろうかと考えたそうで、最初の特等賞品はミシンだったそうです。令和で初めての今年の年賀状の発行枚数は、23億5,000万枚。
まだ戦後の混乱が続く昭和24年、肉親や知人の消息を尋ねるラジオ番組が放送されていた頃、お互いの無事を確かめ励まし合うには、年賀状が一番いい。それにお年玉をつけたら、もらった相手の心はもっと和むのではないだろうかと考えたそうで、最初の特等賞品はミシンだったそうです。令和で初めての今年の年賀状の発行枚数は、23億5,000万枚。
本市の成人式は、昭和57年から平成14年までは本市が主催となり、松山市民会館や松山市総合コミュニティセンターで一堂に会する形で行ってきましたが、平成15年からは、自分たちのふるさとである地域で祝い、新成人も参画する地域主催の現在の形になりました。
本市の松山競輪も昭和25年に堀之内の公園の中に500メートルバンクが、県営陸上競技場と併設した施設として開設されて以来、多くの雇用の場をつくるとともに、市の中心部にたくさんの人が集まり、にぎわいを生み出してまいりました。
略歴を申し上げますと、昭和56年4月に愛媛県教育委員会に奉職され、松山市立東中学校教頭、浅海小学校校長、松山市教育委員会学校教育課長等を歴任された後、現在は学校法人済美幼稚園園長を務めております。したがいまして、人格、識見ともに優れ、教育委員会委員として適任と存じますので、よろしく御同意のほどお願い申し上げます。 ○若江進議長 以上で、説明は終わりました。 本件に対する質疑は発言通告がありません。
鹿の角切は、旧北条市の有名な観光行事として昭和35年から始まり、雄鹿同士のけんかによる事故を防止するため、現在も続けられています。まず、昨年12月議会でも取り上げられました昨年10月の鹿の大量死の経過を御説明ください。また、以後原因の究明が進むにつれ、明らかになったことがあればお聞かせください。 ○若江進議長 家串産業経済部長。
約20年前の平成12年、札幌市で開催された松山の物産と観光展へのPRのため、中村市長や産業経済の委員さんたちが赴いたとき、狸小路商店街、本陣狸大明神社に参拝、そこに祭られている夫婦の狸は、何と夫のほうは松山久谷隠神刑部の山口霊神、妻のほうは狸囃子の千葉の證誠寺でそれぞれ入魂され、昭和48年、札幌市長夫妻の仲人で結婚しているとのこと、それを産経委員の一員として参加した大西先輩が議会で紹介しています。
本市の水道事業は、昭和28年4月に公営企業体の発足とともに給水が始まり、70年近い歴史の中で、給水エリアを順次拡大しながら、松山市民の生活や産業活動に欠かせない水の安定給水に努めてこられました。地方公営企業法第3条には、経営の基本原則がうたわれており、地方公営企業は、常に企業の経済性を発揮するとともに、その本来の目的である公共の福祉を増進するように運営されなければならないと規定されています。
激動の明治・大正・昭和の時代を力強く生き抜いた山下亀三郎は、幼少期から庄屋の家の子として厳しくしつけられ、郷土に対する思いは、私の郷土愛、郷土山河に親しむということは、人一倍だと思っている。中略。帰省は両親・兄妹に会うためじゃない。郷土に会うためだと言っております。この強烈な郷土を思う心は、幼少期に形成されたのではないかという思いをはせて、本市の保育についての質問に入ります。
嶋太夫さんは北条地区の御出身で、昭和23年から長きにわたり、日本が誇る伝統芸能である人形浄瑠璃文楽の振興に貢献され、平成27年10月には、人間国宝に認定されました。これをたたえ、同じ10月に本市からは、松山市文化スポーツ栄誉賞をお贈りしました。嶋太夫さんの御功績に改めて敬意を表しますとともに、心から御冥福をお祈り申し上げます。
私たちの先人が、近代の明治・大正・昭和の間に、コレラ、腸チフス、ジフテリアや赤痢などの伝染病に対し、どのような取り組みを行ってきたのか、保健・衛生行政の歴史を振り返りながら質問を行います。
ここで、令和元年の観光客数などに目を向けますと、昨年松山市を訪れた観光客は615万3,300人と推定され、前の年と比べて14万1,700人増加し、しまなみ海道の開通でにぎわい、平成で初めて600万人を超えた平成11年を上回り、昭和39年に推計を開始してから過去2番目、平成以降では最も観光客が多い1年になりました。
昭和44年4月に井関農機株式会社に入社され、平成22年11月に退社されるまでの間、長年にわたり井関農機労働組合松山支部役員を務められた方で、平成23年7月から当該委員として御尽力いただいております。 次に、大塚氏は、東長戸二丁目に在住され、年齢は68歳。
戦後の第1次ベビーブームに当たる団塊世代、昭和22年から24年、1947年から49年生まれの出生数は年間260から270万人ありました。何と日本の出生数はこの70年で3分の1に激減しています。日本の総人口も急減し続け、今や自然減は44万を超え、高松市など地方の県庁所在地を優に上回っています。今後も自然減はふえ続け、2040年には年間100万人に達する勢いです。
◎高松和昌都市整備部長 本市の交通指導員は、自動車交通の進展による事故の増加に伴い、昭和48年に制度化され、地域の安全・安心を守るという高い志のもと、交通安全の推進に大きな役割を担ってきました。このような中、一部の地域では、新たな交通指導員の担い手が不足し、高齢化が進んでいるのが現状です。
聖火という言葉が日本で使われ始めたのはベルリンオリンピックの開かれた昭和11年ころだそうですが、オリンピック憲章にはThe Olympic flame、五輪の火とだけ書かれているそうです。
1960年、昭和35年、日米安保条約改定反対闘争があり、岸内閣が潰れ、池田勇人内閣が誕生した。まさに日本は、敗戦、戦災からの復興途上にありました。1900年、明治33年には北京で義和団が各国大使館を襲い、8カ国が軍隊派遣を要請、2万2,000名を出す。1840年、天保11年はアヘン戦争が広州で始まる。1780年、安永9年、大事件はない。
昭和56年4月から愛媛信用金庫に勤務され、久米支店長、常務理事等を歴任された後、現在は専務理事として御活躍される傍ら、平成25年12月から2期当該委員として御尽力いただいております。 次に、徳山年春氏は、長師に在住をされ、年齢は70歳。昭和50年1月から建築業を営まれた後、平成28年9月からは農業に従事されております。
CSFは、明治20年に日本で発生し、畜産農家に大きな打撃を与えましたが、昭和44年に有効なワクチンが実用化され、平成4年の熊本県での発生を最後に確認されなくなっていました。その後、平成18年には、ワクチン接種を完全中止、平成19年には国際獣疫事務局の規約に定める豚コレラ清浄国を宣言し、平成27年に清浄国に認定を受けたばかりです。
昭和35年から始まったこの角切は、当時、旧北条市の有名な観光行事でもありました。松山市と合併してからは、地元の行事であるワンダーランド河野氏まつりのイベントの一つとして毎年行われています。その角切ですが、旧北条市時代には麻酔を行わず実施していた時期もありましたが、角切を行う作業員がけがをする危険があることから、長きにわたり麻酔を投与して行うという方法で実施されています。
まず、本請願の趣旨でありますが、いこいの家は、昭和49年に椿の湯の2階にできた身体障がい者、被爆者のための施設を前身として、昭和59年に椿の湯改築に伴って現在の形となった重度の身体障がい者が利用できるバリアフリーの家族風呂形式の温泉福祉施設である。