袋井市議会 2021-02-01 令和3年2月定例会(第3号) 本文
議員の御質問にもございましたように、可睡斎にあります活人剣碑、これは日清戦争の講和交渉に来日した李 鴻章氏が宿舎へ移動する途中、拳銃で狙撃され重傷を負ったというところを、軍医総監の佐藤 進氏によって一命を取り留めたと、こうした偉業をたたえるとともに、日清戦争で亡くなった両国の人々を敵、味方の区分なく悼む供養塔として建立されました。
議員の御質問にもございましたように、可睡斎にあります活人剣碑、これは日清戦争の講和交渉に来日した李 鴻章氏が宿舎へ移動する途中、拳銃で狙撃され重傷を負ったというところを、軍医総監の佐藤 進氏によって一命を取り留めたと、こうした偉業をたたえるとともに、日清戦争で亡くなった両国の人々を敵、味方の区分なく悼む供養塔として建立されました。
本市には外国に貢献された郷土の偉人、関係する文化財として、台湾でダムを建設した鳥居信平、ファン・ボイ・チャウを援助した浅羽佐喜太郎、可睡斎には李鴻章と佐藤 進の交流を物語る活人剣碑、世界的に有名な伊東忠太が設計した護国塔がございます。これらの郷土の偉人や文化財の紹介を市のホームページに掲載し、あるいはパンフレットを配布し、パネル展示等を行ってまいりました。
それは,李氏朝鮮後期の政治家で,朝鮮独立党の指導者であった金玉均,キム・オッキュンの暗殺事件であります。金玉均は1884年,日本の明治維新に倣って,李氏朝鮮の改革を訴えてクーデターを決行,日本と結んで開化派政権を樹立するも,清の干渉で失敗,日本に亡命したのであります。
この貴重な歴史遺産を顕彰することはもちろん、李鴻章の生地、安徽省合肥市のみならず、中国、台湾、香港、シンガポールなど、多くの中華民族の皆さんとの交流親善にも、今後生かしていく考えはありますでしょうか。
また、李鴻章と袋井市がかかわっているということで中国人を呼び込めるのにいいじゃないかなというのを感じますので。 それと、先ほど言いましたお茶めぐりとか、自分巡礼の旅といっても、年間で1万人もないと思うんですよね。ですから、それはPRの仕方で、先ほど大石委員も言いましたように、テレビを使ったり、また、ラインでもいいんです。
49: ◯山田委員長 それこそ静岡空港を利用して中国人の方が多数見えていますけれども、富士山を見たらもう東京のほうへ行ってしまうではなくて、今、活人剣を再建するという案も出ておりますけれども、それで李 鴻章のことをもっと大っぴらにというか、もっとPRを拡大して、中国人をぜひこちらのほうへ来させるような考えとかはあるかどうかというのと、それから、観光協会と可睡斎で
本当に私が申し上げたいのは、李鴻章と佐藤軍医との活人剣の問題とか、すごくいい資産が袋井にあるわけですから、それは中国の清国だけではなくて、今の中国でも李鴻章の記憶は十分あると思いますので、物すごい材料ではないですか。
今、戸塚委員からも御指摘がありましたように、やはりこの活人剣碑、皆様も御承知のとおり、清国との日清戦争の講和条約ということで、全権大使李鴻章、それから順天堂大学、順天堂堂主の佐藤 進陸軍軍医総監というものの過去のエピソードというものがあってのものでございます。この辺を広く周知していくということは、新しい袋井市の観光資源になり得るものと考えております。
活人剣碑は、日清戦争当時の中国全権大使李鴻章と日本陸軍軍医総監の佐藤 進氏とのエピソードによるものである。周知すれば袋井市の観光資源となると考えているので、情報発信して多方面からの理解を深めていきたいとの答弁がありました。 次に、建設課の歳出8款1項2目急傾斜地崩壊対策事業費に関し、急傾斜地の対策として整備していく危険箇所は何カ所残っているのかとの質疑がありました。
さらに、日清戦争講和の清国全権大使、李 鴻章と陸軍軍医総監、佐藤 進との逸話を今に刻む可睡斎の活人剣碑について、現在は台座のみとなっておりますが、市内の市民活動団体がその再建活動を始めており、金属工芸界の第一人者であります東京藝術大学大学学長、宮田亮平先生による刀剣部分の再建製作が予定されておりますことから、貴重な歴史、文化資源であると同時に、可睡斎の新たな観光資源として、この再建活動を支援してまいります
それから、3)に書いてありますが、国家副主席は恐らく李源潮。これはチャイナ・セブンの中にいないのですが、政治局の中から選ぶのではないかというふうに推測いたしております。これも1週間後あたりには判決が出ますから、私が余りここで推測して、間違ったではないかと言われると大変困るのですけれども、恐らくそうなるだろうと思います。
活人剣の碑は、下関講和条約のさなか、清国の全権大使李鴻章が暴漢に襲われた事件を背景に持つものであります。活人剣という史跡の名前は、治療に当たった佐藤進が軍医の正装として剣をさげていることを不思議に思い、李鴻章が尋ねたところ、これは、人をあやめる剣ではなく助けるための剣だと、禅の碧巌録にある言葉で答え、李鴻章を感心させたところから来たのであります。
この石碑は、今から約120年前、日清戦争で講和条約が話し合われたとき、清国の全権大使であった李鴻章が、暴漢にピストルで撃たれ重傷を負うという事件が発生したことに端を発します。このとき、治療に当たったのが軍医総監で、順天堂大学の第3代堂主になった佐藤進医師です。
そのことに対して李鴻章が副島種臣に丁寧なお礼文を書いている。そのレプリカが佐賀城本丸歴史館にあるじゃありませんか、それがこれなんですね。これは小説ですけど、その前に早乙女貢氏が直木賞かなんかを取られて、同じくマリアルス号事件を文章にしておられます。これは私はまだ読んでいませんが、ぜひ読まんばいかんと思っています。これはフィクションとは違って、もっと歴史に忠実に書いてあるとここに書いてあります。
まだ清国だったときの外務大臣が李鴻章、李鴻章が日本の外務大臣に、同じ位ですからね、外務大臣が天皇に手紙を書いたら失礼だということで外務大臣は日本の外務大臣にしか、外務大臣の副島種臣が一番一生懸命してくれたんだから、江藤新平は忙しくて東京でばたばたしよんさっけん。どうかすると、二百三十一人の奴隷を引き連れてペルーに船出してしまうといけないから。そのお礼文が本丸歴史館にあります、飾ってありません。
このことは文化人の方々の強い思いがありまして、また、この姉妹都市ひろばから赤間神宮、春帆楼、自然堂、李鴻章の道を通って、引接寺、亀山八幡宮、唐戸商店街の回遊コースにもなるんじゃないかと思います。 それと二つ目に、坂本龍馬像の設置を検討してはどうかと思います。
これは、下関市道でございまして、阿弥陀寺町11号線、通称「李鴻章道」と言っとるわけでございますが、これあたりも石畳にして、観光ルートとして整備されれば、藤原記念館から春帆楼、それから日清講和記念館、春帆楼、耳なし芳一の墓と、立派な観光ルートができ上がるわけでございますが、これあたりもずっと整備をされてないということを私は常々思っておりました。
下関条約は、日本と清国が大戦によって、日清戦争によって、例えば、下関の春帆楼で伊藤博文と中国の李鴻章と下関条約を結んだわけです。それが教育と歴史と日本の国のその後の影響力というのは莫大なものがあるわけでございます。二億テールというその当時の中国の貨幣を賠償金として日本が取りました。
その李鴻章のお礼状が本丸歴史館に展示されているじゃありませんか。恩着せがましく中国を白人の、ロシアの侵略から守るために、日本は軍を出さざるを得なかったなんていうことは、要らんのですよ。李鴻章が副島種臣にありがとうございましたと、お礼文を書いているなら、それを見てもらいましょう。それこそ、有明佐賀空港もチャーター便がたくさんくるんじゃないでしょうか。
いささか悲観的過ぎるかもしれませんが、かつて中国の首相を務められた李鵬さんは、オーストラリアの首相との会談の中で、日本は二十年たったらなくなってしまうのではないかと揚言をしたそうであります。 国が衰退をする要因は、先ほど申し上げたとおりでありますが、著名なトインビーという学者は、その中で、国家衰退の致命的な要因は国家が自己決定できなくなることだと述べており、では自己決定がなくなる要因とは何か。