えびの市議会 2020-06-12 令和 2年 6月定例会(第 3号 6月12日) 一般質問
昭和三十年五月十一日 吉松町長 中水千利 真幸町長 永ア 公 加久藤町長 中村益彦 陸上自衛隊第四管区総監 ………… 鹿児島県知事 寺園勝志 宮崎県知事 二見甚郷 ○十五番(栗下政雄君) 今、昔のいわゆる霧島演習場
昭和三十年五月十一日 吉松町長 中水千利 真幸町長 永ア 公 加久藤町長 中村益彦 陸上自衛隊第四管区総監 ………… 鹿児島県知事 寺園勝志 宮崎県知事 二見甚郷 ○十五番(栗下政雄君) 今、昔のいわゆる霧島演習場
次に、霧島演習場使用協定書と山神様の問題についてでございますが、霧島演習場は、鹿児島県旧吉松町長中水千利氏、旧真幸町長永﨑公氏、旧加久藤町長中村益彦氏、陸上自衛隊第四管区総監松谷誠氏、鹿児島県知事寺園勝志氏、宮崎県知事二見甚郷氏らが、昭和三十年五月十一日に協定を締結しております。この内容について、当局の説明をしていただきます。朗読をしていただきたいと思います。
昭和三十年五月十一日 吉松町長、中水千利、真幸町長、永崎公、加久藤町長、中村益彦、陸上自衛隊第四管区総監、松谷誠、鹿児島県知事寺園勝志、宮崎県知事二見甚郷、以上でございます。 ○十五番(栗下政雄君) ただいま企画課長のほうで、当時の昭和三十年の霧島演習場使用協定書を読み上げていただきました。 この使用協定書が昭和六十二年に改定をされております。
約四十年前、当時の寺園勝志鹿児島県知事が提案した桜島架橋も技術的問題が解決され、また地域にとって、市民・県民にとっての社会経済便益効果が確証され、整備の必要性が熟した今こそ本格的に論議されるべきであり、実現への速やかな対応が望まれるときであります。
桜島架橋については、県において昭和三十九年、当時の寺園勝志知事が提案され、七年間にわたり調査費が組まれ、結果、経済的な条件や技術的な問題などに帰するのではなかったかと思われますが、幾度となく論議されながらいつの日か実現への道を閉ざされてしまっております。 しかし、三十年を過ぎた現在とは比較し得るものはありません。
その冒頭に、元知事の寺園勝志さんの言葉が記載してあります。その中で、寺園元知事は、「県内の港は、その大小を問わず、宮崎さんの御厄介にならなかったものは一つもない」と言っておられます。運輸省港湾局長から政治家に転身をされ、まさにこの言葉のとおり、港湾整備を中心に本県発展のため御尽力をいただいたことは、多くの県民がお認めいただけるものと思います。
昭和三十九年、当時の寺園勝志県知事が提案いたしました桜島架橋は、その後、幾度となく議論されながら、実現への道を閉ざされております。そして、それは「夢のかけ橋」ではなく「夢のような橋」としてとらえられてきている感じがあります。
まず初めに、少し時期がずれたんですけれども、ことし二月十一日に九十六歳で他界された寺園勝志元知事に対し、心から哀悼の意を表し、安らかならんことを御祈念申し上げたいと思います。 寺園勝志元知事は、昭和二十二年三月鹿児島県の経済部長に御就任以来、農政部長や副知事を歴任され、昭和三十年四月から四十二年四月まで三期十二年間、鹿児島県知事としてらつ腕を振るわれました。
[永田健二君登壇](拍手) 26 ◯永田健二君 初めに、我が鹿児島県政に偉大な足跡を残されました元鹿児島県知事寺園勝志氏の御霊に哀悼の言葉を捧げたいと存じます。
その前に、戦後二代目の公選知事として昭和三十年から四十二年までの三期十二年間、赤字財政の再建と経済振興など県勢発展の基盤づくりに御尽力をいただいた寺園勝志元知事の御冥福を心からお祈りを申し上げます。 ところで、二十一世紀まであと三年、新時代の幕あけが迫ってまいりました。
ちなみに当時の知事さんは、寺園勝志さんがなられて間もないころ、そして議長さんはたしか田中茂穂さんという方がおやりの時代でございました。
───────────── 衛生経済清掃委員会陳情審査報告書 一、第二二四号 肉豚銘柄取引制度の確立に関する陳情(昭和三十八年十二月十六日付託) 陳情者 鹿児島県鹿児島市 鹿児島県知事 寺園 勝志 本委員会は、右陳情審査の結果、左記理由により不採択とすべきものと決定したから報告する。