佐賀県議会 2022-11-16 令和4年農林水産商工常任委員会 本文 開催日:2022年11月16日
私の好きな政治家に三木武吉というのがいます。それとあと、大野伴睦。この大野伴睦さんが、竹下登元総理が一年生議員のときに、国会の赤じゅうたんですれ違ったときに、大野伴睦さんが「おい、君たち」って声かけて、たしか警察予備隊か何かだと思うんですけれども、という法律を「今度国会に出すから、これはね、とても大事だから君たち一期生はしっかり取り組むんだぞ」と言われたそうです。
私の好きな政治家に三木武吉というのがいます。それとあと、大野伴睦。この大野伴睦さんが、竹下登元総理が一年生議員のときに、国会の赤じゅうたんですれ違ったときに、大野伴睦さんが「おい、君たち」って声かけて、たしか警察予備隊か何かだと思うんですけれども、という法律を「今度国会に出すから、これはね、とても大事だから君たち一期生はしっかり取り組むんだぞ」と言われたそうです。
三木武吉や大野伴睦、そういった政治家の言葉というものを改めて私はかみしめて、そして、これからの政治がどうあるべきかということを今の私たちが考えなければならないんじゃないかということを、これは大変天に唾する言葉でありましたけれども、本当にそう思っているからあえてこの際、景気がこれだけ厳しいので言わせていただきました。
このほかにも、栗林公園の北門から少し入ったところと中央通りに面したところには、三木武吉像があって、この辺もたしか春ぐらいにはハナミズキだったんですかね、何か花が咲いたりしてきれいな雰囲気であるなと思ったり、ちょうど私の近くの大野のところの話になるんですけど、昭和初期の高松藩の奉公されとった西嶋八兵衛さんが、このため池の新設または修理の際に、治水神というんですかね、禹王にあやかって大禹王というのを石に
当時日本を代表する緒方竹虎、石橋湛山、大野伴睦、三木武吉、重光葵等諸先生方をはじめ、青年代議士の田中角栄、中曽根康弘両先生はともに弱冠37歳。中曽根先生のスマートな演説と田中先生の心の底から湧き上がるような熱弁が、当時私は17歳、高校2年生のときであり、64年前の感激、感動がいまだに鮮明によみがえってまいります。
(中略)当時、鳩山内閣を支えていた民主党の三木武吉と自由党の大野伴睦は、犬猿の仲でありました。この二人が合同の調整に当たった。(中略)三木武吉は、大野伴睦にこう語ったそうであります。「保守が合同して安定政権のもと、強力な政策を推進していくほか、敗戦した日本を再建する道はない。」(中略)この鉄をも溶かす燃えるような熱い情熱と信念の中から自由民主党は誕生しました。」
集団的自衛権の閣議決定,自衛隊の後方支援等々,戦前の大物政治家,私が覚えとるので鳩山一郎,三木武吉,斎藤隆夫,この3名の代議士を見習いたまえというようなことを言われたわけです。私が,あれっ鳩山一郎,ははあこの前クリミアへ行って大変な騒ぎを起こしたあのおじい様かと思ったんですけどもが,三木武吉は当然知っとります。しかし,斎藤隆夫代議士というのは私初めて聞いたわけです。
それは原玉重さんといって、衆議院の方で付知出身の方なんですが、その机は、たしか大隈重信が使われておって、その後に三木武吉が使った後いただいて、それを付知に寄附されたという貴重なものがあるのですが、今全然日の目も見なくて、奥のほうにほかったままになっています。そういうものがまだ中津川市にいっぱいあるような気がするんです。
そこで、本市を振り返ると、古くは、柴野栗山・中山城山、近代では、菊池 寛・向田邦子・十返 肇・三木武吉・成田知巳・中西 太など、また、広く市外にも目を向けると、南原繁・大平正芳元総理など、すばらしい方々を輩出しています。
作家の菊池 寛や向田邦子、政治家で、日本民主党と自由党を合同させた三木武吉や成田知巳など、高松市を代表する先人を輩出した四番丁小学校は、新番丁小学校として、統合のため、118年の歴史に幕をとじようとしています。
今から55年前の1955年11月に鳩山一郎氏、そして緒方竹虎氏、三木武吉氏、大野伴陸氏、4人の保守合同がありまして、初代総裁についたのが鳩山一郎氏でありました。長期にわたって政権を担ってきた保守政党、自民党を初代総裁の孫、民主党を率いる鳩山由紀夫氏が見事に打破し、総裁に就任し、新しい日本の仕組みに取り組んでいます。
さまざまな中で歴史が動き、そしてまた、1955年体制という保守合同、「私利私欲を去り、究極の大業を成就させる決心だ」、三木武吉氏はそういうふうに語り、日本の歴史をつくってきました。そして8月30日、政権交代がなされました。さまざまなときでさまざま政党が、そして人々が、自分たちの幸せ、隣人の幸せを願いながら、政治、行政をつかさどってきたものと信じて疑いません。
このたびの衆議院選挙は、歴史は繰り返すものなのか、吉田茂内閣を倒した鳩山一郎、緒方竹虎、三木武吉の当時によく似ております。保守が乱立していたものを、一九五五年、自由党と日本民主党が保守合同し、これが自由民主党になり、初代総裁が鳩山一郎で鳩山由紀夫氏の祖父であります。
その自由民主党の大合同を行ったのは、ふるさとの大政治家三木武吉翁であります。その三木武吉翁が、「大衆は愚にして賢なり」という言葉を残しています。今、その言葉が私の腹の底にずしりと入っています。 この上は、国民の冷厳な審判を厳粛に受けとめ、厳しい反省に立って、党のあり方を足元から見直し、再生を図らなければなりません。
盟友竹下登氏と同じ日であります――北海道は函館市の寺に生まれ、小学校を卒業するとすぐに家を飛び出し、炭坑夫や危険な仕事で食いつなぎ、みずからの血液をやみ市で売り、その得た金で古本を買って読みあさり、映画の撮影所で雑用係をしながら、脚本の修正などを手伝ううちに作家となり、ある程度のお金を得て、大東亜戦争での海外戦没兵士の遺骨引き揚げ運動を始め、それがいろいろな人たちの知るところとなり、昭和30年ごろ、三木武吉
昭和三十年、三木武吉、大野伴睦ら党人政治家の奔走で保守合同が成立し、自由民主党が創設されました。日本人の手で日本の国づくり、憲法改正初め国家としての枠組みをつくり直そうと、戦後の占領政策の修正をして日本人としての誇りと自信を取り戻そうと、まさに国家としての自立こそ我が自由民主党建党の精神なのであります。しかし、日本の平和は、五十年前と変わることなくアメリカ軍に守ってもらっているのです。
なお、余談でありまするが、政党史上に残る分派騒ぎでは、昭和28年、吉田内閣のとき、ばかやろう解散の直前に自由党から三木武吉、河野一郎、石橋湛山の諸先生を含めて22名の分党者が出て、やがてこれが8人のさむらいを生み、保守大合同と進んだのでありまして、その名誉ある一人としていまここにおすわりの亘知事の名前も政党史上に残っておるのであります。
ところが妙なことに、当時某政党の三木武吉先生という大先生が神楽坂あたりにおりました。その関係の人のゆうれい会社があれに対して埋め立て権の申請を請願しているわけです。これを聞きつけて、またほかからも金もうけの好きなのが来ているわけです。
明治二十五年、古い話になりますが、水道鉄管汚職につきましては、渋沢栄一氏が白刄の攻撃を受けており、同三十四年、ごみ疑獄、街鉄疑獄、また大正十二年におきましては、鳩山一郎氏と三木武吉氏との間で争われた市営バス並びに阪神電鉄から買い入れた電車の購入にからむ汚職、昭和初年ごろ、われわれの記憶にも明らかでありますが、いわゆる魚市場の移転問題にからむ板舟権あるいは平田舟権の営業権に関する疑獄、昭和三年、京成電鉄乗
───────────── 建設労働委員会請願審査報告書 一、第一二三〇号 第七地区区画整理に伴う補助三十三号路線の早期完成に関する請願(九月二十七日付託) 請願者 大田区 第七地区復興土地区画整理地区住民代表 田中 久松 外九人 一、第一二三二号の一 練馬区豊玉地区環状七号線の一部横断陸橋設置等に関する請願(九月二十七日付託) 請願者 練馬区 三木喜久外四九三名
三木武吉という有名な人がございます。