熊本県議会 2045-06-01 06月12日-03号
その人が自分のやった功績を誇らしげに人々に見てもらうために、そのように申し出たわけではないわけでありまして、私たち残された後輩が、そのことを顕彰して碑を建てたのではなかろうか、また銅像を建立したのではないかと思うわけであります。それにはいろいろ教育効果があると思います。
その人が自分のやった功績を誇らしげに人々に見てもらうために、そのように申し出たわけではないわけでありまして、私たち残された後輩が、そのことを顕彰して碑を建てたのではなかろうか、また銅像を建立したのではないかと思うわけであります。それにはいろいろ教育効果があると思います。
思えば、実家の墓の傍らに五輪の塔が建立されており、この石積みにも上から、空、風、火、水、地と刻まれていて、幼心から、これは何を意味しているのかとおっさまにお聞きしたところ、世界に春、夏、秋、冬という四季が存在するように、宇宙にも季節的な時節が存在する、それが時代なのだと教わっておりました。 皆様もお感じにはなってはいないでしょうか、ここ最近の変化を。
平成の圃場整備事業で往時をしのぶものはありませんけれども、川田館跡の碑石が建立されております。 川田順の多くの歌集に、こういった歌がございます。
身元が判別できた遺骨につきましては、墓地使用者に御確認いただき、お渡しすることとなりますが、判別できない遺骨や回収が困難な遺骨に関しましては、現地付近に慰霊碑を建立し、合葬させていただく予定であります。なお、跡地での墓地区画の再整備は予定しておりません。
旧黒部市の議会資料を見ますと、昭和41年12月議会において、黒部市仏舎利塔建設協会から、旧寄附の申出があった仏舎利塔納骨堂つきを、地方自治法第96条の規定による負担つき寄附の受入れとして議決し、併せて納骨堂事業特別会計を設置、以来、市有財産として仏舎利塔が位置づけられていますが、仏舎利塔建立に係る背景や経緯等を伺います。
このような歴史的なつながりから横山地区に、吉川経家公の弔魂碑が昭和14年に建立され、その礎石に鳥取城の石12個が使用されています。 平成3年に岩国市を訪れた鳥取市民の方が、この弔魂碑に出会ったことがきっかけとなり、姉妹都市縁組を結ぶことになりました。 来年、令和7年には姉妹都市提携30周年を迎えますが、岩国市としての取組をお聞かせください。 最後に、今年7月からお札の人物が変わります。
5 黒部駅西口改札口設置の計画の進捗について (1)3月定例会で、令和6年度予算では基本設計業務委託費のほか、補助制度の採 択に必要な要件である各種計画を策定するための費用を計上したとのことであ るが、その後のスケジュールについて伺う ■10番 柳田 守議員 1 黒部仏舎利塔及び黒部仏舎利奉賛会について (1)昭和42年3月に竣工した黒部仏舎利塔建立に係る背景及び建設主体等建設
との思いから募金を呼びかけ、愛知県下の子供たちから寄せられた募金により建立されたものでございます。 2021年に市制施行100周年記念事業の一環として実施した中学生平和・環境学習ツアーin沖縄では、市内の中学生が平和・環境学習を目的に、8月に那覇市の中学生とオンラインで交流し、12月には小桜の塔や対馬丸記念館をはじめ、戦争にまつわる施設などを訪問しました。
また、標柱につきましても、当時の元国会議員や仙台市長などが発起人となった仙台市千葉卓三郎記念碑建設委員会により建立されたものと承知しているところであります。県といたしましては、当時設置に関わられた皆様における話合いの状況等を注視してまいりたいと考えております。 次に、大綱五点目、四病院再編についての御質問のうち、シミュレーション実施などの要望への対応状況についてのお尋ねにお答えいたします。
最後に、2款1項16目文化センター費、文化センター施設整備工事請負費の将棋モニュメント建立事業についてです。2025年万博20周年事業や国際芸術祭「あいち」において、たくさんの方が本市にお越しになるタイミングでの建立を予定されているとのことですが、将棋文化振興に向け、施設整備費の中に盛り込むような事業ではなく、本来重点事業として項目を上げ、中期、長期にわたる取組が必要であると考えます。
標高565.8メートルの高台に建つ平和の像は、全長12.7メートルの大作で、1980年10月に、当時3億4,850万円で建立された日本で一番高い場所にあるブロンズ観音像であります。私も天気のいい日は子供をバイクに乗せてよく行くのでありますが、ここから見る眺望については、もう絶景であります。
また、記念碑の建立に当たっては、校舎南側にあるシンボルツリーのクスノキの下に中央小校歌、流れは強しの碑が今もありますが、卒業生になじみのある碑を活用してほしいというOBからの提案もいただいており、当時のものが引き続きそこで見られるのは卒業生や地元の人たちにとっても望ましいと考えております。
これまで整備予定地としておりました図書館旧本館跡地に隣接する城址公園は都心地区に位置し、富山売薬の祖とされる前田 正甫公の像が建立されており、本市の歴史と深い関わりのある場所でもございます。
「命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう医薬品の安全性、有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに明記する 千数百名もの感染者を出した「薬害エイズ」事件 このような事件の発生を反省し この碑を建立した 平成11年8月 厚生省」 私たちは、過去の悲しい薬害から学ばなければなりません。「過ちを改めざるこれを過ちといいます」。
◎教育長(古清水巌) 森山議員のおっしゃられるとおり、令和4年3月に42体であったブロンズ像は、昨年43体目の「夜明け」が建立されました。そして本年度も、来月3月12日には44体目のブロンズ像がお披露目となります。
この安積疏水土地改良区事務所の建物の左側に安積疏水通水百周年記念碑が建立されております。この前文が非常に感銘を受ける文であります。前文を少し紹介させていただきます。「明治15年10月1日、はるか猪苗代湖の湖水がとうとうとして安積、岩瀬地方へと流れきた以来、休むことなく東注される湖水の流れはいたずらに草木の茂った貧野を潤し、無産の乾地を豊穣の沃地と化していった。
本市では、民間建立の戦没者慰霊碑が多数あり、建立時期も明治、大正、昭和、平成と各時代にわたっています。建立者の多くは地区遺族会や自治会などであり、その主な管理者は地区の遺族会となっています。遺族会の解散や遺族の高齢化により、草刈り、清掃などの維持管理が困難になっていくと思われます。
これは、各国には必ず国府周辺に国分寺や国分尼寺が建立されたことから、これらが越前市内に存在することが確認されれば、国府も越前市内に存在する証拠となるためです。 現在行っている国府跡発掘調査から成果が得られた後、その周辺に存在していたはずの国分寺や国分尼寺についても、試掘調査に取り組んでまいりたいと考えております。 ○議長(吉田啓三君) 土田信義議員。
四王寺山の名前の由来は、歴史書によれば、極めて清浄無垢な大野城の城内に四天王寺が建立されたことにあります。まさに、ワンヘルスの環境の健全性を実践する場所にふさわしい場所ではありませんか。しかしながら、大野城跡の整備については、史跡の保存活用計画がいまだに策定されてないと聞いています。
こうした戦没者慰霊碑は、大東亜戦争をはじめとする戦争の犠牲者を慰霊するため、各地の寺社や学校、公園などに建立されています。 これらの慰霊碑は、これまで御遺族や地域の方々などにより、大切に管理がなされてきましたが、高齢化により、慰霊碑の維持ができないとの声を遺族から聞くようになりました。 戦後七十八年の今、戦争遺児の最年少は七十八歳です。