札幌市議会 > 2016-08-01 >
平成28年冬季五輪招致・スポーツ振興調査特別委員会−08月01日-記録

ツイート シェア
  1. 札幌市議会 2016-08-01
    平成28年冬季五輪招致・スポーツ振興調査特別委員会−08月01日-記録


    取得元: 札幌市議会公式サイト
    最終取得日: 2024-09-10
    平成28年冬季五輪招致スポーツ振興調査特別委員会−08月01日-記録平成28年冬季五輪招致スポーツ振興調査特別委員会  札幌市議会冬季五輪招致スポーツ振興調査特別委員会記録            平成28年8月1日(月曜日)       ────────────────────────       開 会 午後2時     ―――――――――――――― ○長谷川衛 委員長  ただいまから、冬季五輪招致スポーツ振興調査特別委員会を開会いたします。  報告事項ですが、北村委員からは、欠席する旨、連絡がありました。  それでは、議事に入ります。  冬季オリンピックパラリンピック招致についてを議題といたします。  本日は、株式会社土屋ホームから、スキージャンプ選手葛西紀明氏、副会長であり、スキー部総監督でもあります川本 謙氏を参考人としてお招きしております。  本日の委員会の進め方としては、最初に葛西選手、川本副会長にお話をいただいた後、各委員から質問を受けたいと思いますので、よろしくお願いいたします。  それでは、委員会を開催するに当たりまして、一言、ご挨拶を申し上げます。  参考人のご両人におかれましては、大変ご多忙な中、本委員会への出席にご快諾いただき、心よりお礼を申し上げます。ありがとうございます。  本日の議題であります冬季オリンピックパラリンピックの招致につきまして、本市においては、2026年大会の招致に向けて本年4月に開催概要計画案を策定し、現在、市民からの意見募集を行いながら、国やJOCへの提出に向けた準備を進めているところでございます。また、本市議会においても、これまで、招致に関する報告を受けての議論や、道外のオリンピック関連施設市内スポーツ施設などの調査を行ってきたところであります。  本日は、選手としてオリンピックに出場されたご経験や、企業としてトップアスリートを支援してきた取り組みを踏まえてお話を伺いたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。  それでは、改めて参考人をご紹介いたします。  最初に、葛西氏ですが、10歳でスキージャンプを始め、中学3年生のときに宮様スキー大会テストジャンパーを務め、優勝者の記録を上回ったことで注目を集めました。19歳のときにアルベールビル大会オリンピックに初出場し、以降7大会連続冬季オリンピックに出場されており、リレハンメル大会では団体で銀メダル、41歳で出場したソチ大会ではラージヒル個人銀メダル、団体で銅メダルを獲得されており、現在は土屋ホームスキー部の監督を務める傍ら、選手として世界の第一線で活躍されております。  次に、川本氏ですが、社長就任時にスキー部を創設し、葛西選手らを受け入れ、スキー部長として海外から有力コーチを招聘し、遠征への支援などに尽力されており、平成26年には土屋ホームスポーツ功労団体として文部科学省から表彰されました。現在は、スキー部総監督としてアスリートが活躍しやすい環境整備に努め、世界で戦えるよう、精神面から選手を支え続けております。  それでは、参考人からお話を伺いますが、ご説明の際は着席していただいて結構ですので、よろしくお願いします。
     最初に、葛西参考人からお願いいたします。 ◎葛西紀明 参考人  ただいまご紹介いただきました株式会社土屋ホームスキー部の監督兼選手葛西紀明です。よろしくお願いいたします。  僕の生い立ちから話をさせていただきますが、1972年6月6日に下川町というところで生まれました。1972年といいますと、皆さんご存じのとおり、札幌オリンピックがあった年です。札幌オリンピックは、笠谷さん、金野さん、青地さんが金銀銅というすばらしい成績を出して大変盛り上がったと思いますが、僕はまだ生まれていませんでした。その後に生まれて、オリンピックに7回出場してきたので、もしかしたらオリンピックの申し子なのではないかと自分でも勘違いをしております。  私は、旭川と稚内のちょうど中間にある下川町で、父、母、姉、妹の5人家族の中で育ちました。下川町という冬はマイナス30度を超えるような非常に極寒の地で生まれたにもかかわらず、小さいころは体が弱く、親から何かスポーツをやれと言われたため、まずはマラソンを始めて、冬はクロスカントリーをやっていましたが、下川町にはジャンプ台が4台ありまして、ジャンプにとっては非常にいい環境でした。それで、友達に誘われて、小学校3年生のときにジャンプと出会って、ジャンプにはまってしまって、ジャンプを続けることになりました。  小さいころ、僕の家は非常に貧しい暮らしをしておりました。お米を買うお金もなく、近くのスーパーに借金して食費を借りていました。家には電話がなかったですし、本当にきつい生活でした。そんな中、ジャンプをやりたいと親に言うと、お金がないので用具が買えないと反対されましたが、当時の少年団コーチがぜひスキージャンプ葛西君にやらせてみないかと親を説得してくれたことで続けることができましたし、用具は全て僕の二つ上の岡部孝信さんからお下がりをいただいておりました。僕がこうしてジャンプを続けてこられたのも岡部先輩のおかげだと今でも感謝しております。僕も、かわいい後輩たちに、なるべく僕のお下がり等々をあげて、小さい子どもたちが強くなっていけるように、少年団に寄附したりすることができているので、少しずつですが、ジャンプ選手もふえてきているのではないかと思っています。  そして、こういったハングリー精神があったからなのか、小学校中学校のときには、試合に出るとほぼ負けなしでした。僕には親に裕福な暮らしをさせてあげたいという気持ちが強くあったので、試合で頑張りたいという気持ちで毎日のようにトレーニングをして、試合も頑張り、努力をしてきました。  その結果、先ほどもお話がありましたが、中学ではテストジャンパーに選ばれて、そのときに初めて大倉山を飛びました。ただ怖い一心で飛んだだけでしたが、大人に勝ってしまうという成績を出してしまい、次の日に大きく新聞で取り上げられまして、それで一躍注目を浴びるようになりました。  その後、中学校を卒業して、札幌に来て、東海大四高校に入学して、どんどん自分が強くなっていくわけです。東海大四高校にはスポーツ学科がありまして、ジャンプトレーニング、合宿、遠征等も本当にたくさんやらせていただいたので、僕はどんどん強くなって、世界に通じるようなジャンパーになっていくわけです。  高校時代は、STVカップで大人を抑えて優勝し、世界選手権日本代表に選ばれますが、世界の壁は相当厚かったです。当時はニッカネンという選手メダル争いをしている中で、僕は足元にも及ばないレベルでしたが、やっぱり悔しい、努力しなければ絶対に世界トップに立てないという気持ちで、高校の3年間は死にもの狂いでトレーニングを頑張りました。  そして、高校を卒業して、大学には行かずに会社に入るわけですが、当時、僕の憧れの選手だった秋元正博さんがいる地崎工業に入社して、そこで一生懸命トレーニングを積みました。入社したのは1991年で、年が明けて1992年に僕が初めてオリンピックに出場する機会がやってきました。  昔はスキーを閉じて飛んでいましたが、1991年、1992年はV字スタイルがはやった年です。僕は、オリンピックの1カ月前の札幌ワールドカップで6位に入賞しました。その当時はクラシカルスタイルで飛んでいましたが、札幌ワールドカップが終わって6位に入賞して、オリンピックメダルがとれるぞという気持ちでいました。しかし、そのころのスキー連盟の部長に、葛西V字に変えろと言われました。1カ月前は無理でしょうという感じでしたが、どうしても変えろ、変えないのなら連れて行かないぞと言われましたので、慌ててV字に変えました。  それで、自分V字をマスターしたか、しないかぐらいでオリンピックの地に行きましたが、初めてのオリンピックなので、もちろん緊張します。口から心臓が出そうなぐらい緊張してオリンピックに挑みましたが、緊張が邪魔をしまして、V字に開けず、3種目全てで失速して、あっという間に終わってしまったオリンピックだったと感じています。僕にとっては世界レベルはまだまだ高いものがあると思いましたが、その後、V字もマスターして、93年にはワールドカップで3勝することができ、その流れに乗って、94年にまたオリンピックがやってきました。  ワールドカップは2年置きに夏と冬の調整がありまして、僕は2年分得していると思っていますが、冬のオリンピックが2年後に来ました。2年後のリレハンメルオリンピックでは、個人戦では残念ながらメダルをとることができませんでしたが、団体戦銀メダルをとることができました。ただ、僕にとっては悔しい銀メダルで、僕が力を100%出せなかったオリンピックでした。  団体戦メダルは、長野県出身の西方仁也さん、岡部さん、僕、原田雅彦さんの4人で挑んだリレハンメルオリンピックでした。途中までトップを独走していましたが、残念ながら4番手の原田先輩が失敗して銀メダルに終わってしまったという残念なオリンピックでした。これもまた運命だと信じて、次の長野オリンピックで頑張ろうという気持ちになっていました。  このころはいろいろなことがありました。僕の妹が難病にかかってしまい、その後は母親が火事に巻き込まれて全身70%のやけどを負いました。家族2人が厳しい闘病生活の中で何とか生き、頑張っていましたので、そんな家族のために長野オリンピック金メダルをとってあげたいという気持ちを持っておりました。しかし、残念ながら金メダルメンバーに選ばれることができず、本当に悔しいオリンピックだったなと思います。この悔しいオリンピックがあったからこそ、40歳を超えてもオリンピック金メダルという夢を目指して頑張ってこられました。そして、家族の支え、ファン、友人の支え、会社の支えがありました。地崎工業は、98年のオリンピック後に経営状態が悪くなり、スキー部は廃部、その後、移籍したマイカルという食品会社も3年で経営破綻して路頭に迷っていたところ、隣にいる川本副会長が2001年に社長に就任したときに、土屋ホームに初めてスキー部をつくってくれました。  ですので、僕は、会社に恩返しするにはどうすればいいかを考えながら2002年のソルトレイクオリンピック、2006年のトリノオリンピック、2010年のバンクーバーオリンピックと6大会連続で出ましたが、メダルもとれず、全く恩返しができない状態でやきもきした中、何とか2014年のソチオリンピックで40歳を超えてメダルをとることができたので、本当に信じられない気持ちです。  今回、ソチでとった銀メダル銅メダルを持ってきています。このメダルは、天皇陛下、皇后様にも触っていただいたもので、非常にパワーの詰まったメダルです。皆さんにも、ぜひメダルの重さを共感していただければと思います。  このメダルを回してもらってもいいですか。  大分傷だらけになってしまっています。最初に出そうかと思いましたが、話に夢中になってしまって遅くなりました。  今後のアスリートとしての心情ですが、ここまで来たなら長く現役生活を続けていきたい、40歳を超えてもできる、50歳近くになってもやれるのだという夢と希望を与えていければと思っています。  人生における座標軸ですが、座右の銘でもあります、自分の夢は努力でかなえる、これが自分にとって最高の言葉でもあると思いますので、これを胸に一生懸命頑張っていきたいと思います。  オリンピックへの思いですが、こうして7大会連続で出場することができて、2年後のオリンピックは8大会目となります。年は46歳になりますが、自分の夢を諦めずに、金メダルという目標に向かって絶対に努力して夢をかなえるということで、選考会で選ばれて、8大会目オリンピックにも絶対に出場して、そしてメダルにつなげていきたいと思っています。  それから、40歳のときには50歳までやりたいとイチロー選手も言っていました。山本 昌選手は昨年やめてしまって残念ですが、キングカズクルム伊達公子さんも40歳を超えて頑張っていますので、40歳を超えても頑張れることを証明できればと思っています。  オリンピックアマチュアの中で最高峰の大会なので、ここに照準を向けて頑張っていきたいと思います。  今後のオリンピック取り組みですが、成績を出さなければウインタースポーツの人気が出ない思いますので、もちろん僕も頑張っていきますし、後輩たちも育てていきたいと思います。そして、市議の方たちにもPRしていただいて、札幌オリンピックをぜひかなえていただきたいと思います。  以上です。ありがとうございました。(拍手) ○長谷川衛 委員長  葛西参考人、大変ありがとうございました。  続きまして、川本参考人からよろしくお願いいたします。 ◎川本謙 参考人  ご紹介いただきました土屋ホームの川本でございます。  きょうは、お呼びいただきましてありがとうございました。  私のイメージとしては、参考人というと、何か犯罪のにおいがする感じがしておりまして、どんなものかと思いました。  また、小野正美議員は私の同級生です。彼は、高校のときに生徒会長をやられていて、私は残念ながら謹慎を食らっていたという者です。きょうは、そんなつらい思いをしながらうまく話ができるのかなと思いながら出席させていただきましたが、お呼びいただき、ありがとうございました。  今、葛西から話がありましたように、私が2001年11月に土屋ホームの社長に就任しました。私どもの決算は10月でして、その翌月の就任でした。そのときに、いろいろな関係の方から、葛西のいるチームを引き受けていただけないだろうかというお話がありました。私が11月に社長になることが決まっていましたので、創業者土屋公三にいろいろと相談すると、おまえが決めるならやるもよし、やらぬもよしと言っていただきました。  私がなぜこういう気持ちになったかというと、企業ではビジネスが当然ですが、これからは社会貢献をより強く感じていかなければいけないと思ったからです。また、会社にシンボル的なものが欲しかったということもありました。北海道イメージは雪、雪であればスキースキーであればアルペンと言わないでジャンプということになるわけです。  そんなことで、葛西の話を伺いましたので、ぜひやってみたいということになりました。それで、どうせやるのだったら、世界で戦えるチームを、そして世界でも有数のチームをと思ってスタートしました。  そんなことで、ありがたい状況といろいろな環境があった中でスタートさせていただきました。  葛西は、本当に真面目で、一生懸命、こつこつやってくれています。イメージ的には、昔は茶髪になっていたものですから、話を持ってきてくれた方に企業イメージと合わないと伝えたときに、その方が言うには、奴に言っても聞かないだろうということでした。しかし、チームを引き受けようとしている者が言っているのだから、それを伝えてくださいと言いました。  そして、葛西と初めて会ったときに、葛西は黒髪に直してきました。私は、そのときに好印象を持って、よし始めようと思い、一発で引き受けたわけです。  冒頭でお話ししたとおり、やるからには、世界で戦える、世界で一番のチームをつくろうということで、組織としてやるにはどうしたらいいかなど私はいろいろと考えました。どちらかというと、他のチームは、予算があって、その予算の中でメダルをとり、旗を揚げるという形で、スキー部と企業がマッチングしていないように感じました。これでは従前どおりの状態になるだろうと思いましたので、いろいろな工夫をしました。  まずは、社内に後援会を立ち上げました。後援会は社員から月500円いただくわけですが、別にお金をいただかなくても運営できます。ただ、お金を出すことによって、スキー部がどういう状態なのかという関心を持ちます。例えば、本でもそうだと思いますが、無料でいただくのと自分で買ったものでは、興味なり、ちゃんと読むかという差が出ると思います。その後援会には、社員のほとんどの方が入ってくれました。  そして、その後援会費で何をするかというと、応援のための費用に使います。例えば、スキー部のホームページの充実を図ったり、「Jump mates」という機関紙を年4回発行したり、試合のときにはバスをチャーターしたり、旗を用意したり、入場券を買ったり、寒いですので、缶コーヒーなどを用意したり、応援の太鼓などいろいろなことがあるわけです。  そうしますと、社員はもちろん関心を持ちますし、葛西も言ってくれましたように、スキー部選手も、今までのチームではそんなことはなかった、社員がそこまでしてくれるのかという気持ちになります。そして、飛んでいるのではなくて、飛ばさせてもらっているという感覚になり、そこで徐々に帰属意識を持ってくれました。  なぜジャンプのときに土屋ホームの名が上がるかというと、葛西を初め、選手はいろいろなことを考えてやってくれているからです。例えば、新聞の写真などが出たときに、土屋ホームという文字が葛西の横に出てくると思います。伊藤有希もそうです。小林陵侑伊藤将充もそうですが、板を上げてくれているのです。そして、自分の顔と企業の名前がぱっと出るようにしてくれています。メダルをもらったり、トロフィーをもらったり、賞状をもらったりして両手が塞がったら、靴の上に板を乗せて、足をくっと上げてくれています。  きのうも優勝しまして、3人とも表彰を受けました。そのときに、うちの選手だけは、靴の上に板を置いて、企業名がぱっとわかるようにしてくれています。これは事例の一つで、こういうことがたくさんあります。そのようにして、社員とスキー部と企業がマッチするように、選手たちもいろいろ考えてやってくれています。  会社の社員の後援会は当然ですが、ファンクラブを立ち上げたり、いろいろな支援をさせてもらいました。  詳しく話せば時間が足りなくなるのでこのぐらいにさせていただきますが、このような取り組みにより、土屋ホームは、JOCスキー連盟等々が選ぶアマチュアトップアスリートサポート大賞をとりました。葛西はたくさんの賞をもらっていますが、会社としての受賞は北海道で初めてです。いろいろな企業がありますし、私どもは大規模にやっているわけではありませんが、サポートにすぐれているという評価をいただいて、非常にありがたいと思っております。  去年もそうでしたが、ある会社が、社会貢献のためにレスリング部などをつくりたい、どのように運営されているのですかと私どもに聞きに来ます。それだけ私たちのサポートが非常にいいということだと思いますし、会社に対する帰属意識が高まって、それが自分自身をより向上させることになっているのではないかと思いますので、そういう部分では本当にありがたいわけです。  そして、これからもより高めて、それを継続していかなければなりません。私どもも、2001年にスタートして15年がたちました。その間、スキー部には、監督兼選手はいませんでした。しかし、葛西は、血が出るわけではありませんけれども、頭も切れますし、感性が高い選手ですので、選手兼監督をやってもらっています。  そして、指導体制についても、フィンランド外国人コーチを雇用しています。国技というのは、日本で言えば相撲ですが、フィンランドではジャンプとなっております。やはり、本場の新しい情報と科学的スタイルを取り入れると、より優位になります。  ジャンプのルールは、本当にしょっちゅう変わります。皆さんご存じだと思いますが、例えばスキーの板や体重に制限があります。これを剣道に例えると、身長が高い人は長い竹刀を持っていて、身長が低い者は短い竹刀を持っていることになり、そんなことで勝負が決まってしまうわけです。そのようなことがいろいろとあるわけですが、それを克服するためにどうしたらいいかを考えました。  初めは葛西も難色を示したと思います。葛西より年下のコーチで、フィンランドナショナルヘッドコーチまでやった方を招聘しました。誰だって年下のコーチの指導は受けたくないと思います。経験だって葛西のほうがはるかに長いですし、成績もはるかに上です。しかし、そのコーチも立派な方です。そして、葛西は今監督ですが、気がついたことをストレートに選手に伝えるのではなくて、一旦、コーチを経由して、コーチが賛同したときにコーチ選手に伝えるという形です。今、葛西に対するコーチの指導については、調子が悪くなったり、ちょっと状態が悪くなったときに、本人では原因がわからないところを教えるという形です。  いろいろな方がいらっしゃいますが、葛西を追い越すような選手がなかなかいない、若手はどうなっているのだという話がありますけれども、葛西は旧態依然のやり方をしているわけではありません。今までのものを投げ捨ててでも新しいものに取り組むのです。ですから、これも勇気のいることだと思います。そういうことをやっているので、葛西は今でも進化しています。基本的に、疲れることがほとんどありません。  私と一緒にゴルフをやっていても、カートになんか乗ったことはありません。320〜330のミドルなんかは、1オンするぐらいの腕前を持っていますが、ボールを走って追いかけたり、そういうところでもトレーニングをしています。  そして、断食までやります。断食は、今までに年5回やっています。それも、3日間、何も食事をとらず、コーヒーだけです。水ではなくてコーヒーというのは、空腹感が少し和らげられるということです。ただ、通常だったら断食のときに座禅を組むのでしょうけれども、そのときにハードトレーニングをやるのです。そして、体重を若干落として、それ以上に研ぎ澄ませると言っていました。私にはわからない世界です。そのようなことをずっと続けておりますので、非常に向上心があるわけです。  そして、もちろんジャンプだけではありません。私ども土屋ホームは、金融関係を初め、行政もそうだし、取引先もそうですが、シーズンインやシーズンオフになったときには、選手を連れて銀行の頭取のところにご挨拶に行きます。1回に十数件回るわけです。そこで報告したり、激励をいただいたりして、多くの方になじんでいただく取り組みもしています。  そして、葛西には、講演の依頼がひっきりなしに入っています。年間70〜80本ぐらい来ていると思います。やらなければいけない講演がありますが、やってはいけない講演もあります。私は、その交通整理をして、真ん中のどうしようかというものについては相談するわけです。  アスリートというのは、どちらかというと、対談やトークショーというのは結構やると思いますが、1時間や1時間半話すのは大変なことだと思います。しかし、この間、1時間半の話のときに、乗ってしまって、2番目に講演をする方も、まだ延びてもいいからと言ってくれたので多くお話ししました。また、お話だけではありません。終わったら、懇親会で一人一人と名刺交換して、本人は飲まない、食べないで握手して、サインをしたりしていますので、そういうところは見習わなければならないなと思っております。  そして、私は、札幌市内ジャンプ場にもよく行きます。そのときに、選手の励みになってもらいたいという思いもありますが、そこで選手がどういう立ち振る舞いをしているかを確認するわけです。  私どもの選手は、試合が終わったときに、ファンに握手したりサインをしたり、いろいろなことをしています。試合が終われば、ほかの選手はみんな控室に戻ります。私もわからなかったので、葛西、風邪を引くからいいのではないのかと言うと、いや、違います、私はまだ体が温かいからいいけれども、ファン方たちは寒い中でずっと応援してくれたのだからできれば接したいというのです。これは、営業にも生かせると思います。そういうことをいろいろ教えてくれているわけです。ジャンプだけではなくて、いろいろなことをこれからも一緒にやって、多くの皆さん方に愛されるようにと思っております。  そして、私は、トリノやバンクーバーやソチなど、オリンピックにも行かせていただきました。私はただ見て応援するだけですが、ソチでびっくりしたことがありました。葛西は、主将でしたが、次の日も試合があるので、普通はセレモニーには出ないのです。しかし、葛西は、ちゃんと出てきました。そして、次の日の試合のことももちろん考えながらやっていたと思います。自分だけではなく、ほかの選手たちも活躍して、団結心を持って、そして日本のためにという意識もあったと思います。そこで、みんなで団結して、セレモニーをきちんと終わらせてから、遠くにあるジャンプ台まで移動したりしているわけですが、私はそれを見て本当に感心しました。  そして、あした自分の試合があるのに、私どもの会社の伊藤有希という女子選手の試合では、一緒に応援しました。普通は、調整で出てきませんよ。それを応援して、伊藤有希が7位で、自分より一つ上だったという話をしていましたが、その後、銀や銅をとってくれましたので、晴れたなと思いました。  これは、オリンピックだけではありません。札幌市での応援などについても同じで、ぜひ多くの方に来ていただきたいと思います。その前に、本当は所属している企業の方たちも応援に行かなければならないと思います。それが、冒頭にお話ししたように、予算はこれだけ、旗を揚げるというだけで終わっているので、企業ぐるみにしていかなければならないと感じております。私どももご指導をいただいたりすることがたくさんありますが、社会貢献を考えたときには、継続することが非常に大切なことだと思います。  私が創業者からやるもよし、やらぬもよしと言われたときに、ただ一つだけ言われたことがあります。それは、継続が大事だぞということでした。企業の経営が苦しくて休部となった後、廃部になっているのが大体の例だと思います。私どもも、一時、非常に厳しい状況のときがあり、何とか持ちこたえましたが、宣伝効果を考えたときにはそれ以上のものがあると思います。  ソチオリンピックのときに、葛西が主将になりました。そして、土屋ホームという名前が出てきました。そのときに、コマーシャルを打って土屋ホームの名前を認知させることをお金に換算すると、葛西オリンピックに出たときの効果は44億円と日本CM協会から言われました。その後、銀メダル銅メダルをとってくれましたので、それ以上の効果があると思います。ただ、知名度が高まったからといって住宅が売れるとは限らないので、それが非常につらいところでありまして、営業は何をやっているのだとハッパをかけたりすることもありますが、企業としての責任は果たせたという感じはしております。  また、ジャンプというのは不思議です。野球などのスポーツであれば、中学校、高校から始めた方でも名をはせる選手になることが非常に多いですが、ジャンプは、不思議と、小学生のときから飛んでいなければだめです。調べましたが、小さいころから飛んでいる人だけがトップアスリートになれるというものです。  札幌にはいい施設がたくさんありますので、小さいときから教育できるようにしていただきたいです。教育というのは、家庭教育もあり、学校教育もあり、会社教育もあり、社会教育もありますので、一丸となってやらなければなかなか難しいわけですが、まずは家庭教育をして、より親しめるような状態にすることが必要ではないかと思います。  そんな意味で、学校教育の中にもスキーや屋外競技を取り入れていただきたいと思います。ただし、ジャンプというのは危険な競技ですし、用具の関係もありますので、お下がりや貸し出しなどの対策を打っていただければ非常にありがたいと思っております。  また、施設ということでは、札幌は道内、国内のウインタースポーツの拠点でもあります。これから、より力強くオリンピック招致の活動をしていただけると思っておりますが、前のオリンピックで札幌が大きく変わりました。それである程度の基礎ができたと思いますので、余りコストをかけずに、市民が住みやすいようにしていただければと思います。今、多くの方が札幌は憧れの地だという高いレベルにはなっておりますが、拠点として目指していただきたいと思います。結局は、札幌市民のためだけではなくて、多くのアスリートが札幌で活躍できるようなステップアップの場所として構築していかなければいけないのではないかと思います。  葛西は、多分、札幌オリンピックが誘致されたときには、つえをついてでもジャンプを飛んでいるのではないかと思うわけですが、本人のモチベーションは本当にすごいです。厳しい戦いがありますので、選ばれるか選ばれないかはわかりませんが、ワールドカップで510戦しています。私がすごいなと思うのは、オリンピック銀メダル銅メダルをとると、普通であれば、やったとか、ありがとうとか、お父さん、お母さんとやるわけです。それが、悔しい、次は金メダルと言うのです。  それから、ワールドカップの500戦を飛び終えたときに、600戦を目指すと言うのです。2番手が300戦前後だったと思います。ですから、この記録は前人未到で、多分、これから何十年、何百年かけても破られないと思います。それだけの偉業を達成しておりますが、それもいい環境があったからで、出身の下川町、札幌市を本拠地にいろいろと取り組んでおりますので、大きなステップの一つとして札幌市でオリンピックを開催できるよう、皆さん方も高く高く手を掲げて呼んでいただければと思っています。  今、スポーツ局も非常に頑張っております。局長を初め、いろいろと広報活動をやられておりますが、オープンな情報をより多くすることがより支持をいただくコツではないかと思います。  東京オリンピックは頑張って成功するかと思いますが、いろいろなことが言われております。やはり、原点は、オープンが少なかったというか、閉鎖された中でいろいろと歩んできたのではないかと思います。それはその時代で仕方なかったのかもわかりませんが、札幌はよりオープンにしていただいて、皆さん方にご尽力、ご支援いただきますようにお願い申し上げます。  本日は、本当にありがとうございます。(拍手) ○長谷川衛 委員長  川本参考人、どうもありがとうございました。  それでは、参考人に対する質問を行います。 ◆村山拓司 委員  川本さん、そして葛西選手、貴重なお話をいただきまして、ありがとうございました。  まず、二つに分けて質問させていただきたいと思います。  一つ目は、葛西選手と川本さんのお2方にお伺いさせていただければと思います。  ジャンプ競技を含め、特にウインタースポーツについては、札幌からトップアスリートがなかなか輩出されていないように感じております。冬季オリンピックパラリンピック招致を目指す札幌においては、オリパラ招致の機運を盛り上げるためにも、葛西選手のように世界の舞台で活躍できるトップアスリートの存在が重要だと思います。  今後、札幌でトップアスリートを育成していくためにはどのようなことが必要だとお考えか、お伺いいたします。  また、施設の充実という点から伺いますが、世界各国の選手村やトレーニングセンターなどを見てきた中で、この国のこの施設は使いやすかった、また、この施設はこの点が使いづらかったなどの事例があれば教えていただければと思います。  川本さんについては、体験したこと、聞いたこと、見たものなどがあれば教えてください。 ○長谷川衛 委員長  最初に、葛西選手から答弁をお願いできますか。 ◎葛西紀明 参考人  トップアスリートを育成していくということについてです。  僕は、2002年のソルトレイクオリンピックではさんざんな成績に終わってしまいました。どんなにトレーニングを積んでも、どんなにメンタルを鍛えても最悪な成績でした。それで挫折したのですが、その後に転機があって、僕のチームに日本のではなくフィンランドコーチを呼んで、アドバイスいただいたり、トレーニング等を行ったわけです。それにより、30歳を超えても世界に通じるような成績が出ましたし、2003年の世界選手権メダルを三つとることができ、まだまだできるということがわかりました。  やはり、どこかでいいコーチにめぐり会うと思いますし、日本にもいいコーチはいると思います。僕も後々はコーチをしていきたいですし、僕の引き出しからたくさん言葉を出して、後輩たちにいろいろと教えていきたいと思っていますが、僕も選手であり、強くなりたいので、余り教えたくないということはあります。ただ、フィンランドコーチに限らず、ヨーロッパにはすばらしい方がいるかと思いますので、そういったコーチを雇うことで日本のチームが強くなっていき、レベルアップしていくことの一つなのではないかと思っていますし、環境も変わっていくのではないかと思います。  実は、若い選手には強い方がたくさんいます。僕がメダルをとったことによって、下川町の子どもたちの競技人口がふえましたし、本当にたくさんの強い選手がふえていますが、僕と子どもたちの間との年齢の間隔があいています。しかし、後々出てきますので、お待ちください。  次に、トレーニング環境についてですが、札幌はすごく充実しています。宮の森や大倉山のジャンプ台というのは、世界を見ても一番すばらしいところです。自然の雪を使ってここまでできるジャンプ台スキー競技は札幌にしかないと僕は思っています。ヨーロッパへ行くとほぼ人工雪ですし、雪不足で中止になる試合が年間に何試合かありますので、ウインタースポーツの環境については全世界を見ても札幌が一番なのではないかと思います。  また、フィジカルトレーニング面では、身近にたくさんのトレーニングジムやトレーニングセンターがあると思いますが、自分の住んでいる近いところにぱっとトレーニングに行けるような環境をつくっていただけたらいいなと思っています。また、僕やほかの選手がそうしたジムに通うことによって、そのジムにたくさんのお客さんが来てくれたり、葛西選手はどういうトレーニングをしているのだろうということがわかり、子どもたちの見本にもなると思いますので、ぱっと行けるような環境をつくっていただければ、トップ選手も通えるのではないかと思っています。 ○長谷川衛 委員長  続いて、川本参考人からお願いいたします。 ◎川本謙 参考人  今、葛西からありましたように、施設ももちろん大切なことでありますが、やはり、まずは情熱を持った指導者がいるかどうかが重要だと思います。これは、野球など、いろいろな競技でもそうかと思います。今回、北北海道の代表になられた学校では立派な監督が選手たちを育てたということもありましたが、その指導者が情熱を持って対応したと思います。ですから、まずは人ありきだと思います。  次に、今、葛西からお話がありましたように、恵まれた環境をいかに生かすかということですが、札幌は本当に恵まれた状況でありますし、トレーニングセンターについては、大倉山もそうですし、カーリング場などのほかの競技でも、札幌市民だけではなく、道民のためになっているので、活用について広報していただき、トップアスリートなりアスリートがより上を目指して、ステップアップできるような環境にしていただくため、指導者のところをお願い申し上げたいと思います。  ただ、指導者についてはいろいろと難しいので、企業から派遣するということも一つの方法でありましょうし、考え方によっていろいろな方法があろうかと思います。そして、施設については、今言ったように、小さいころからなじめて、学校が終わったらさっと手軽に行けることが理想です。ただ、地の利を考えると難しいので、皆さんでお知恵を出し合っていただきながら、そうした環境をつくっていただければと思いますが、私としては、指導者により重きを置いていただければと思っております。 ◆村山拓司 委員  続きまして、葛西選手にお伺いいたします。  ノルディックスキーの本場ヨーロッパで開催されているジャンプ大会の映像などを見ていると、寒い中であってもたくさんの観客で埋め尽くされている光景を目にします。札幌でも、プロ野球やプロサッカーには多くの観客が集まるわけですから、ジャンプ大会においてもたくさんの観客が集まる可能性は大いにあるのではないかと思っております。  海外のジャンプ大会で集客するために何か工夫されている取り組みなど事例があれば教えていただきたいと思います。 ○長谷川衛 委員長  葛西参考人からお願いいたします。 ◎葛西紀明 参考人  僕も、最近、札幌の大倉山で行われるジャンプ競技の観客が少ないなと感じています。一つは、駐車場が少ないことが気になっています。海外に行くと、もちろん駐車場はありませんが、道路の片側を潰してしまい、車をとめられる駐車場にしています。ですので、2万人、3万人の方が車をとめて、歩いてきます。  宮の森や大倉山等に足を運ぶとなればバスぐらいしかありませんが、寒いので車で来たいという方たちが多いと思います。そうしたことから、駐車スペースが足りないことが気になるところです。  また、僕も日ハム戦を結構見に行きますが、何でこんなに人が集まるのだろうと若干のジェラシーを感じています。冬のスポーツといえば、ジャンプ競技だと思っています。札幌オリンピックが終わった後にはたくさんの観客が来たと聞いていますし、長野オリンピックでもそうです。長野オリンピックが終わった次の年ぐらいには、1万人以上の方がジャンプ競技場に足を運んでくれました。
     もちろん、選手がいい成績を出して活躍しなければなりません。僕もどうやってPRすればいいかはわかりませんが、日ハムのようなPRをしていただければ、大倉山や宮の森にたくさんの方が足を運んでくれるのではないかと思います。  海外では、マイナス何度という寒い中での試合にも2〜3キロ歩いてジャンプ競技場まで来るということで、4〜5万人が集まるところもあります。その中には、会場に出店が出ていたり、グッズが売っていたり、選手もお客さんたちにサインをしてあげたり、写真を一緒に撮ってあげたり、そうしたことも快くやっているので、たくさんの観客が集まっているのではないかと思います。  ですから、スキージャンプも野球のように観客の方にわっと集まっていただければ選手も盛り上がりますし、スキージャンプのみならず、ウインタースポーツが盛り上がっていくのではないかと思っております。 ◆松原淳二 委員  きょうは、お2方から本当に貴重なお話をいただき、ありがとうございます。  せっかくの機会ですので、私からも質問させていただきたいと思います。  私は葛西選手と同じく1972年の札幌オリンピックの年の生まれで、冬季の札幌五輪の招致に携われることは非常にうれしく思っていますし、光栄に思っていますので、ぜひ何とか実現したいと考えています。そして、選手という立場なのか別な立場なのかはわかりませんけれども、葛西選手がそれに携わっていただくことにぜひ期待したいと思います。  私は、前職でスキー部のある会社に勤めておりまして、一つ、二つ上の先輩に非常に仲よくしていただいたことや、応援団に入っていたということもあり、1990年代は、シーズンになると毎週のように大倉山や宮の森の競技場に行っていました。ジャンプ競技については、非常に興味もありましたので、楽しい思い出があります。  先ほど会場の話がありましたが、あの雰囲気を現場で見ると、観客の人たちに絶対に感動が伝わると思います。特に、V字になってからの迫力というのは本当に忘れられません。  うちの選手V字になかなかなじめなかったのか、よい成績が残せなくて、2本目に進む選手が少なかったものですから、僕たち応援団は、葛西選手や原田選手など、1本目から距離を稼ぐ選手たちをうらやましく見ていた記憶があります。  そういった観点から、特に川本総監督においては、実業団が解体していく中で、受け皿となって土屋ホームスキー部を立ち上げていただいたことに対して僕としても本当にうれしく思っていますし、今のスキー部、そして葛西選手の活躍は総監督のお力添えがあったものだと思っています。  そういった意味で、まずは、川本総監督に実業団のサポートについて伺わせていただきたいと思います。  以前は、実業団が選手サポートするという環境がごくごく当たり前というか、特に冬季スポーツジャンプなどでは、選手の生活をも支えておりましたが、最近は、企業がアスリート支援の担い手となるには厳しい環境にあろうかと思っております。そうしたことから、高校や大学を卒業した後にサポートを失ってしまうケースも少なからずあると思います。  すごく有名な選手というか、実績のある選手であれば生き残る方法はあるのかもしれませんが、全ての選手サポートする体制をとることは、今の実業団、企業チームでは難しいと思っております。土屋ホームのように、実業団がサポートをしていくことが理想だとは思いますが、地域や幾つかの企業で支え合って1人の選手チームを育てていくという環境も必要だと思っています。そういった意味から、地域が選手を支えるアスリート支援をどのようにお考えになるのか、お伺いいたします。  また、これにも少し絡むかもしれませんが、子どもたちのウインタースポーツ離れ、大人も含めて低迷している状況があるかと思います。先ほど言ったように、ジャンプ場に足を運べば、皆さんは本当に感動して、そういったものに携わる機会がふえていくと思いますが、そうした道に進んでいかない現状があります。  先ほどあったように、下川町には四つのジャンプ場があるということで、地域に特化したスポーツを選択して活性化させる方法もあろうかと思いますし、アイスホッケー、スケート、ジャンプもできるという設備が比較的充実している札幌の中でウインタースポーツに親しむ環境づくりを行うために、また、子どもたちにウインタースポーツの裾野を広げていくためにどのようなことが必要か、選手の立場から葛西選手にお聞きしたいと思います。 ○長谷川衛 委員長  それでは、川本参考人からお願いいたします。 ◎川本謙 参考人  企業がアスリートを支えるにはいろいろな方法があろうかと思います。  海外に関しましては、基本的には賞金スポンサーがおり、企業に属している方は非常に少ないところです。日本ではいろいろな雇用形態があって、契約社員や期間限定社員、パート社員、そして、私どものように正社員として雇用するところもあります。ですから、日本の選手たちは、企業に一旦入り、雇用を継続できれば長続きします。しかし、海外の選手は、優勝したとしても、2〜3年調子が悪いと、賞金スポンサーが外れてしまい、競技ができなくなるので、引退しますので、海外と比較してどちらがいいのかは検討課題だと思います。  そんな中で、私どもは正社員として雇用しているわけですが、先日、下川町で葛西の表彰式があって、その祝賀会で私がご挨拶をさせていただきました。そこで、過去にジャンプ少年団で活動されていた方が社員にいます。その社員は本当に一生懸命努力してくれます。中には20代で初めて支店長になった方もいますし、立派な成績をずっと残してくれている方もいます。下川町はジャンプのメッカと外国人コーチは言っておりますが、ジャンプだけではなく、人を育てるジャンプ少年団だったのだ、本当にありがたく思っているという話を私はしました。  これはアスリートに限定したものではないと思いますが、スポーツをやっている方は根性がつくとか、上の人の指示をきちんと守るとか、目標や目的を持ってやるなど、普通の生活をしている人とは全く違います。そういう意味で、アスリートとして頑張って、次の人生を歩むことが理想だと思います。  ただ、残念ながら、企業として、経営が厳しくなったときには経費削減や休部、廃部ということがあると先ほどお話ししましたが、そうした状況になります。ただ、どうせやるのだったら社員として雇用し、選手生命が終わったときには社員として頑張っていただけるような仕組みをきちんとつくっていただくことをお願いしたいです。私の会社は、もし引退するような状況になったときには社員として雇用し、その人にはアスリートの支援もしていただきたいと考えているわけであります。  また、支援の方法についてですが、多くの方がスポーツをやられていて、企業に入りたいといっても、企業にもいろいろな状況がありますし、選手の状況、どのぐらいの順位なのかということもあるわけで、なかなか難しいわけです。  そんな中で、選手がより戦える環境をつくっていくということは言うまでもありませんが、どうしてもなかなか入れないときがあります。これは、プロの世界アマチュア世界でもそうだと思います。しかし、アスリートとして活動することのほか、ビジネスをしながらスポーツを楽しむということはできます。スポーツが人をつくるという考えは変わりませんので、スポーツができるような環境をつくりたいと思っております。  そのためには、用具の貸し出しなどがあります。これは、ジャンプ競技だとなかなか難しいところがあります。自分の体に合ったものということがあるのでどうかと思いますが、できれば小学校中学校の学校教育の中でスキー教育の活動をぜひしていただきたいと思います。  今、企業には時短などいろいろなことがあり、余暇をつくれる時代になってくるかと思います。そうしたときに、ウインタースポーツができるような環境を整えていきたいと思っています。  雑駁なお答えになりましたが、支援はできるけれども、限られているのが現状であります。しかし、限られていても、どうせやるのだったら、しっかりとしたサポートができるようにということが私ども土屋ホームの考え方です。 ◎葛西紀明 参考人  最近、野球、サッカー、バスケットなど、人気のあるスポーツ子どもたちをとられていると感じています。スキージャンプはマイナーな競技ですが、冬になるとスキーだと思います。  ただ、スキーは小・中学校からやらなければうまくなりませんし、ジャンプに関しては大人がやろうと思ってもできない競技です。ジャンプというのは本当に特殊な競技で、一般の方ができるようなスポーツではないので、小学校中学校などの小さいうちからやらなければなりません。しかし、学校のスキー授業が減っていると思いますし、そういったことも影響しているのではないかと思います。スキー授業がなければスキー選手がふえないということがあります。  僕の地元の下川町では、各都府県からスキージャンプをやりたいと言ってくれる人が結構いまして、合宿ではありませんが、教育を受けに来るため、学校をかえてまでやる人がいるのです。札幌ではそういうことは少ないと思うので、そうしたことも広げていけば冬のスポーツが盛り上がってくると思いますし、スキー人口もどんどんふえて、ジャンプ、アルペンスキー、クロスカントリーがメジャーになっていくのではないかと思います。 ◆わたなべ泰行 委員  川本総監督、そして葛西選手兼監督、きょうは本当に貴重なお話を聞かせていただいて、まことにありがとうございました。  私からは、川本総監督には、企業としてアスリートを支援していくことについて質問させていただきたいと思います。また、葛西選手には、選手としての立場から、障がい者アスリートに関してお伺いさせていただければと思います。  最初に、川本総監督にご質問です。  先ほどのお話の中でもいろいろと出てきましたが、企業がアスリートを支えていくには大変な時期もあった、しかし、継続していきたいと思って頑張ってきましたということがありました。また、サポート体制としては、ファンクラブをつくったりしてきたというご苦労も伺わせていただきました。一方で、ほかの多くの企業がそう思っていても、撤退していってしまうという現実があります。  そこで、企業秘密であれば構いませんが、ここまで土屋ホームが支援を続けてこられた秘訣がございましたら、教えていただければと思います。  また、支援していく目的として、社会貢献、そして企業のイメージアップだとおっしゃられる企業があると思いますが、土屋ホームさんとしてプラスアルファで別の目的があるのか、また、この大きな二つの目的を持った中でもこういうことに特化して頑張ってきたのだということがあれば教えてください。 ○長谷川衛 委員長  それでは、川本参考人からお願いいたします。 ◎川本謙 参考人  私どもも厳しい状況だった時期もあったわけですが、秘訣というのは、今、私はトップではありませんけれども、トップみずからということが非常に大切だと思います。私もジャンプ競技場に行きましたが、複合の荻原選手が私のところに来て、すごいですね、これだけいろいろなチームがあるのに、企業のトップで来ているのは川本さんだけですねと言われました。そのときに高橋大斗という選手がいて、高橋大斗にもそんなことを言っていたそうです。  こうやるぞと決めたときには、そのトップの力量があるかと思います。ビジネスとはちょっと違いますが、そんな思いが選手に通じて、選手も、きょうは社長が来てくれている、副会長が来てくれているとなったときには、ちょっと違うのではないかと思います。ただ、旗を上げろ、メダルをとれということだけではなく、人間的な対応が非常に必要ではないかと思います。  そして、長く続けてこられたのは、会社と一体になっていたからだと思います。オフのときには葛西にセミナーを開いていただいております。家づくりセミナーと申しまして、家の基本的なことを私がお話しして、それから、葛西が今の状況やファンの方への対処などについてお話ししています。  私どもは、今、北海道が主体ですが、本州方面の売り上げが35%から40%ぐらいになったのか、ことしはそれ以上になったかもわかりません。先月は、名古屋と千葉にモデルルームがオープンしたので、葛西と行きました。そして、お客さんと話をしたときに、土屋ホームというのは知名度がなかなか低くて、2割から3割ぐらいの人しかご存じないのです。しかし、葛西土屋ホームですと言うと、ああ、葛西さんのということで思い出してくれます。  また、これも笑い話ですが、宮様の晩餐会に呼ばれまして、私がご挨拶に行っていいのかどうかをちょっと考えましたが、伊藤会長に行っていいでしょうかと聞くと、行けと言われたものですから、それでご挨拶に行って殿下に名刺を渡したとき、ああ、葛西さんの土屋ホームですねと言うので、私は、いや、違います、土屋ホーム葛西ですと言いました。そうしたら、宮様に笑っていただけました。このように、おかげさまで、知名度が非常に高くなりました。  そして、住宅1棟を売るのは大変なことですが、葛西が行くと、セミナーが終わった後に、プランも何も決まっていないのに、お客様に申し込みをしていただいた例もあります。さらに、スキー部の人脈で受注をいただいたこともありました。  それから、ここだけの話になるかもわかりませんが、原田さんや岡部さん、斉藤浩哉さんといった金メダリストの皆様は、土屋ホームで家を建てていただいております。金メダルから銀メダルにかわってしまったということで、葛西も原田さんにはいろいろなことがあるかもわかりませんが、お買い上げありがとうございましたと言ってくれたということです。  そして、東さんなどのジャンプ選手たちは、家を建てるのだったら土屋ホームとなっておりますので、ビジネス的にも葛西の力ということなのでしょう。そんなこともありますので、会社として一丸となってできていると思います。  これは、仕組みの問題で、後援会ファンクラブなどをつくれる選手がいるかどうかです。そこそこの選手だったら、後援会の会員になろうと手を挙げてくれる人はいないと思います。葛西はブログなどで情報をいろいろ発信していて、そういう貢献があったから、今も選手ですが、監督であり、部長でもあるのです。私どもは社員として雇用していますので、会社に功績があったため、部長にしています。ですから、三つの役職を持っているわけです。  そういうふうにして、愛社精神を持てるように、そして、社員も選手を応援できるように、選手も社員のありがたみを感じられるように常に目を光らせておりますので、そんなことも一つの継続の要因になっているのではないかと思います。 ◆わたなべ泰行 委員  続きまして、葛西選手にお聞きします。  札幌市は、共生社会を目指していまして、今回の2026年の冬季オリンピックパラリンピックに関しても、共生社会の実現を目指していこうということがあります。  私もこの仕事につかせていただき、まだまだですが、障がい者スポーツについて勉強させていただいておりまして、多くの意見を聞きたいと思っているところでございます。  確かに、ジャンプ競技はパラリンピックの競技にありませんが、一選手として触れ合う機会が今までにあったと思いますので、障がい者アスリートに対してどう感じていらっしゃるかをお聞きいたします。 ◎葛西紀明 参考人  障がい者アスリートは、僕にとっても必要な存在ではないかと思っております。僕は五体満足でやらせてもらっておりますが、障がい者アスリートは死にもの狂いで頑張っていると思います。  僕は、ちょっとけがをしただけで競技に行くのがつらいのに、障がい者アスリートはそれを背負いながらやっておりますし、試合で成績を残しています。普通の競技よりも感動を与える競技の一つなのではないかと感じています。  ですから、多分、競技数も少ないと思いますが、大会がもう少しふえれば、僕らも力をもらえますし、国民全体も感動できると思いますので、必要な競技なのではないかと感じています。 ◆田中啓介 委員  私からも、1点質問させていただきたいと思います。  先ほど、裾野を広げていく、ウインタースポーツをする子どもをふやしてほしい、それがトップアスリートを生み出していくという話があったかと思います。あわせて、トップアスリートをどうやって支援していくかについても葛西さんからお話がありました。葛西さんレベルではないけれども、若い人がどんどん力をつけている、ただ、まだ見えてきていないとおっしゃっていたと思います。  世界で善戦されるようなトップアスリートの方々には日本スキー連盟からの支援やスポンサーがつくなどの支援があると思いますが、トップアスリートと言われる方の手前の方々に対する支援が重要だと考えております。全国の大会には参加しているけれども、まだ世界はという方々にとっては、支援がなく、遠征費用を捻出するのが大変で、ご苦労されていると聞いています。  また、トップアスリートの指導者ではありますが、2013年に高梨沙羅さんのコーチが辞任されました。全日本ノルディックスキージャンプの女子のチーフコーチもされていましたが、辞任の理由は経済的に大変になってしまったと記者会見で話されていました。トップアスリートでも、また指導者でも大変な中、これから日本のトップアスリートをどんどん輩出していくには、その手前にいる選手やその選手を指導しているコーチや監督に対する支援が大切だと思います。  そのことについて、川本さん、葛西さんのご意見、ご見解などがありましたら、お聞かせいただければと思います。 ○長谷川衛 委員長  それでは、川本参考人からお願いします。 ◎川本謙 参考人  育てる秘訣については、今お話がありましたように、いろいろな経験をたくさん積ませなければならないと思います。大会のレベルと言うと何ですが、国内大会があって、コンチネンタル杯があり、ワールドカップがあり、世界選手権があり、オリンピックがあるという順序だと思います。  まず、世界に通じる大会の一つとしては、コンチネンタルカップがスタートなわけです。今、お話がありましたように、スキー連盟等々からの支援もあり、派遣ができる場合もありますが、コンチネンタルカップだとそういう支援がないため、私ども企業がその分を負担して送り出します。より経験が積めて世界で戦えるよう、自分の置かれている立場をきちんと理解させるため、海外での試合は大切だと思います。  その前に、私どもは国内で合宿をやります。これは、温かいところやフィンランドなど、国内、北海道にとどまらず、いろいろなところでやるわけです。まず、オフには体を少し休めて、サマージャンプのために、また、1シーズンを乗り切るためにということで、温かいところでトレーニングをしてもらいます。寒いところでやりますと、体をひねったときに筋肉に故障が出ます。これは、温かいところでもそうかもしれませんが、そのようなことは南のほうがはるかに少なくて、体への負担がなく、力を入れて体幹づくりや筋力トレーニングをします。  それから、フィンランドで合宿を行います。ことしは平昌にも行ってもらおうかと思っておりますが、毎年、2回に分けてフィンランドトレーニングをするわけです。なぜフィンランドでやるかというと、国内でトレーニングをしていると、ほかのチーム選手たちの状況はわかりますが、トップレベルの方と自分の置かれている立場はわかりません。フィンランドトップレベル選手たちと一緒にトレーニングできますので、そういうことも踏まえて、トレーニングの場所は、札幌、宮古島、フィンランドとしています。  また、アスリートは何で力を発揮できるかを考えると、私は安心だと思います。プロ野球選手なんかは1軍の試合に2年も3年も出られなかったらだめだということでその後にいろいろなことをされるわけですが、企業の経営が厳しくなり、成績が芳しくないと、俺はことしで終わるのかなとなり、アマチュアですから、継続したいと思ってもそうはいかない選手が出てきたこともあります。もし、それで選手生命が終わったときに、次の仕事をと考えても、なかなかありません。サポートの方法もいろいろとあるので一概には言えませんが、選手生命が終わったときに、企業がビジネスマンとして雇用できるのかどうかです。もちろん、社員ですから、営業の仕事なりがあるかと思います。また、技術の仕事には資格が必要になりますので、その資格を取ったら技術の仕事をしてもらうなど、次の仕事に困らないように社員として継続できるような体制をとらせてもらっています。  また、選手を育てるということについては、先ほどコーチの話がありましたが、私どももフィンランドコーチ何人かを抱えていて、いろいろな状況に応じて、監督と相談しながら取り決めをしていくわけです。ただ、監督だけではなく、トレーナーについてもいろいろと考えています。  私どものところには女性の伊藤有希という選手がいるので、男性のトレーナーが女性の体をとなると、セクハラとは言いませんが、いろいろと問題が出てくるおそれもあるし、ここを鍛えなければならないと思っているのに、遠慮しながらになってしまうので、女性のトレーナーを雇用したりもします。これも、監督と相談しながら、選手たちがより向上できるよう、力量が発揮できるようにしています。  これからも、葛西監督はもちろんのこと、選手たちレベルアップできて、安心できるような環境づくりを継続していきたいと思っております。 ○長谷川衛 委員長  続いて、葛西参考人からお願いいたします。 ◎葛西紀明 参考人  トップアスリートの入り口にいる選手は結構います。ある程度強くなるところまではいっておりますが、そこから伸び悩む選手はたくさんいます。僕らは企業に属していまして、今、川本副会長からもお話がありましたが、国内でも外国でも遠征をやらせてもらっていて、それは非常に大きな支えです。トップアスリートの入り口にいるほかの選手は費用がありません。そこから強くなるためには、企業に属すか、相当強くなって全日本スキーチームに入らなければならないということがあります。  青森、秋田、山形、新潟、長野のスキー連盟では、その県でお金を集めて海外遠征させるということを数年前からやっています。僕らがフィンランドに合宿に行ったときに、県のチームが来ていて、どうやって来たのかと聞くと、県のスキー連盟の費用で来ましたということでした。そのようなことを少しずつやっているし、そういったチームもどんどん強くなってきているので、こうしたことは非常に大事ではないかと思っています。  海外に行くことにより海外の雰囲気を知ることや、経験が若い選手には必要です。せっかくチャンスをつかんだのに、いきなり海外に連れていかれて、成績を出せと言われてもなかなか出せません。しかし、海外でのなれや経験をあらかじめ積ませてもらえれば、遠征メンバーに選ばれても自分の力を発揮できると思いますし、緊張や焦りもなくできると思います。  多分、そういう若い選手には成績を出さなければという焦りがあると思いますので、安心できるような環境をつくってもらえたら選手が伸びると思いますし、数年ぐらいでぱっと終えるのではなく、長い目を持って、土屋ホームのように支援していただきたいと思います。  僕は、2001年から2010年までオリンピックに出ましたが、成績が出せませんでした。土屋ホームは、それでもスキー部を支えるという長い目を持って13年やってくれたからこそ、僕も恩返しをしなければという強い気持ちを持って、13年目にして、2010年のソチオリンピックでようやくメダルをとれました。  選手も頑張らなければならないということもありますが、札幌市でもそういった環境をつくっていただけたら、また、長い目を持ってやってもらえたら、入り口にいる強くなりそうな選手はぐんと伸びていくのではないかと感じています。 ◆松浦忠 委員  川本さん、葛西さん、ありがとうございました。  私がこの仕事に初めてついたのは1983年で、その翌年の84年にユーゴスラビアのサラエボでオリンピックがありました。実は、私の町内からジャンプ選手が出ました。当時は拓銀の所属で、東海大四高校の出身の方です。  その当時、東海大四高校でスキーを指導しておられたのが上杉先生でして、この方もまた私の町内の方です。選手は長岡さんとおっしゃる方で、当時、拓銀に所属しておりました。私の町内の上白石小学校の卒業生ということで、上白石小学校子どもたちに町内会館に集まっていただきました。何もなしでは子どもたちもがっかりするので、当時、よつ葉乳業にお願いしましたら、子どもたち全員に行き渡るだけのパックの飲み物を提供していただき、上町会館で壮行会をしました。これがオリンピックジャンプ選手との出会いでありました。上杉先生は、もう定年になったと思いますが、定年になるまで東海大四高校でスキーを指導されていました。  そこで、川本さんにお尋ねいたします。  私は、かつて日本国有鉄道に勤務していました。それから、旭川に入りまして、昭和35年、36年には北見にいて、留辺蘂には仕事でよく行きました。温根湯温泉には国鉄の温泉宿泊所もあり、よく行きましたし、懐かしいところです。また、当時、イトムカ鉱山では水銀が出ており、大変盛んでした。そんな懐かしい思い出があります。  大企業は、企業の宣伝もさることながら、スポーツ選手を抱えることが企業としてのおつき合いということがあったかと思います。かつての国鉄には旭川鉄道管理局がありまして、主に距離競技が多かったのですが、スキー部では多くの選手を抱えて、有名選手も出しておりました。そんなことで身近にあったわけです。今、川本さんのお話をお聞きしていると、葛西さんは大変役立っていると言われましたが、私もそうだろうなというふうに思います。  そこで、川本さんにお願いしたいのは、同業種はまずいですから、そんなに大きくなくてもいいので、道内企業の異業種のここはと思うところにスキー部などをつくってもらい、ぜひ選手を抱えてという働きかけをしてもらえないだろうかというふうに話を聞きながら思っておりました。  それから、葛西選手は、監督、選手、会社の営業部長ということであり、大変ご苦労さまでございます。  先ほどの葛西さんの話では、貧乏であったがゆえに何とかしたい、ここでひとつ一番になって、少しでも親の生活を楽にさせてあげたいということでした。昔からそうですが、プロ選手として成功した人は、そういう環境の人が多いのです。たくさんのお金があって、裕福な暮らしをしていて大成した人は余り聞きません。私の知っている範囲では、テニスの松岡修造さんぐらいです。お父さんが会社の社長ですが、あとは大体そうではないと思います。したがって、コーチの役割をする人が地域にいることが選手の裾野を広げるのかなというふうに思うのです。  例えば、野球なんかを見ますと、サッカーがこれだけはやっていても、野球の好きな人は、30代、40代あるいは50代になっても、仕事をしながら、子どもたちを集めて少年野球のチームをつくって熱心に指導しております。こうしたことが裾野を広げる上で大事なことかと思います。  したがって、後輩や先輩を見ていて、選手を終えた後にコーチになっていただけるような状況にないのかどうか、また、なぜそういう状況にならないのか、その辺をどういうふうに見ておられるか、お聞かせいただければと思います。  もう一つは、今度の札幌オリンピックは、記録に残る大会ではなく、記憶に残る大会にしてほしいのです。それは何かといったら、パラリンピックオリンピックを同一期間内に開催してほしいのです。これは、競技をする上で技術的に可能なのか不可能なのか、この点をどう見ているか、お聞かせいただければと思います。 ○長谷川衛 委員長  それでは、川本参考人からお願いします。 ◎川本謙 参考人  松浦委員は菊水にお住まいですね。  クラブチームをつくり、裾野を広げるということについてご提言いただきまして、ありがたく思います。今、新しい芽もいろいろと出てきておりまして、賃貸やメンフーズ、それから明円グループなど、規模の問題ではないと思いますが、選手を1人、2人と徐々にやっております。今まで、私は、そういうことがスタートするときに、どういう運営をしているのですかとご相談をいただくときには、全部をオープンにしているのだという話をさせてもらっています。今のお話をお伺いして、裾野を広げていくため、こちらから企業にお願いしていかなければならないと感じました。本当にありがとうございました。  やはり、競技人口をいかに多くしていくかが課題で、サッカーなり野球に負けているのは競技人口が少ないの一言だと思います。そんな意味で、松浦委員からいろいろとお話を伺いましたので、微力ですが、私の知っている企業の役員の方、社長の方にお声がけをしていきたいと思います。  また、皆さん方にもお力添えをいただいて、札幌の誘致についてよろしくお願いいたします。 ○長谷川衛 委員長  続きまして、葛西参考人、2点の質問についてよろしくお願いいたします。 ◎葛西紀明 参考人  各都道府県の少年団にはいろいろなコーチがおり、現役を引退した選手であふれていて、いいコーチもいます。コーチは必要ですが、少年団等の人数、ライバル、先輩も必要です。僕は、岡部先輩を見て、強くなりたいと思ってやってきましたし、岡部さんとはジャンプを30年ぐらいやってきて、最高のライバルであり、最高の兄貴だったと思います。このように、ライバルがいないと強くなれないと思います。  小さいころは、いいコーチもいましたが、親が僕のことをずっと見てくれていました。母親は朝昼晩とずっと働いていましたが、父親がジャンプ台に来て整備してくれました。また、厳しく育てられました。朝からランニングしてこいと言われ、嫌々ながら毎朝走っていましたし、夜も走っていました。今思えば、嫌だと思っていても、走ってこいと厳しく育ててくれた父親に感謝しています。  このように、トレーニングに限らず、親もジャンプコーチができると思います。少なからずジャンプの理論等々もわかると思いますので、コーチも必要ですが、親の後押しも強くなるための理由の一つではないかと思っています。  オリンピックパラリンピックを同時にできないかということですが、僕もそういうふうに感じています。種目がたくさんあると思いますので、厳しい部分もあるかもしれませんが、オリンピック選手とのレベルの差がどのぐらいあるのか、パラリンピックに出る選手も本当に気になっているところだと思いますし、オリンピックの後にパラリンピックをやるとなると、見る方も少なくなると思います。  オリンピックの期間内にパラリンピックをまぜながらやることが公平ですし、国民が盛り上がる一つの理由ではないかと思います。 ○長谷川衛 委員長  ほかに質疑はございませんか。  (「なし」と呼ぶ者あり) ○長谷川衛 委員長  なければ、参考人に対する質問を終了いたします。
     本日は、葛西選手、川本副会長にご出席いただき、委員からのさまざまな質問にもお答えいただきまして、大変有意義な委員会になりました。このことに心から感謝を申し上げます。  私たちは、本日いただきました貴重なご意見を今後の活動に生かしていきたいと考えております。また、お2人の今後のさらなるご活躍を期待しております。  本日は、大変ありがとうございました。(拍手)  以上で委員会を閉会いたします。     ――――――――――――――       閉 会 午後3時41分...