君津市議会 2022-09-22 09月22日-05号
また、委員から、同診療所の今後の運営について質疑があり、現在の建物は昭和43年に建設され、施設や設備が老朽化していることなどから、個別施設計画において、複合化も含めて施設のあり方を検討することとしているとの答弁がありました。
また、委員から、同診療所の今後の運営について質疑があり、現在の建物は昭和43年に建設され、施設や設備が老朽化していることなどから、個別施設計画において、複合化も含めて施設のあり方を検討することとしているとの答弁がありました。
この環境の保全に関する協定につきましては、昭和46年7月に千葉県と当時の君津町及び新日本製鐵株式会社の3者によりまして、公害の防止に関する協定として締結したのが始まりでございまして、平成22年度に内容が改定されまして、名称も環境の保全に関する協定に変更されたところでございます。
このため、昭和62年竣工の本施設につきましては、供用開始後の目標使用年数は約43年となります。今後は、計画的な改修や工夫を凝らしながら長く使用していけるよう努めてまいります。 次に、令和5年度の清和地区から小糸保育園への入園予定者数につきましては、コーホート変化率法を用いて推計した児童数に対し、清和地区に居住する児童の保育園への入所率を乗じて試算し、12人程度を見込んでおります。
社会保障制度の推移につきましては、昭和20年代の戦後の混乱の中で生活困窮者を救うための生活保護法の制定から始まり、昭和30年、40年代には、高度経済成長により生活水準が向上する中で、社会保障制度の充実強化を求める機運が高まり、全ての国民が助け合い、医療における機会均等と老後の生活を保障するため、国民皆保険と皆年金の法整備が行われました。
そのため、教育機関の定員などに余裕が発生し、子どもの数が多かった昭和の時代よりも子ども1人あたりが受けられる教育サービスは充実していても当然のはずであります。 しかし、近年において、保育園、幼稚園の定員に達したことで入園ができない乳幼児から小学校就学前までの待機児童が増加傾向にあります。
本庁舎につきましては昭和51年7月に竣工しておりますので、現在45年8か月ほど経過しております。耐用年数の60年までは14年4か月となりますが、15年程度と表現させていただきました。 ○議長(三浦章君) 須永和良君。 ◆16番(須永和良君) 14年4か月が15年程度と、すごいですよね。
昭和40年代中頃から八幡製鐵株式会社の操業本格化とともに人口が急増し、工業都市化が進んだ君津のまちは、昭和45年に旧君津町、小糸町、清和村、小櫃村、上総町が合併し、昭和46年9月1日には、県下25番目の市として君津市が誕生しました。
旧三島小学校及び旧坂畑小学校並びに旧亀山中学校等の利活用を推進するにあたりまして、産業振興や雇用の創出をはじめ、地域の活性化に資する有効活用をコンセプトに事業者を公募いたしました結果、株式会社新昭和と株式会社運動会屋をそれぞれ優先交渉権者として決定いたしました。
昭和36年度当時と比較して、国民健康保険制度そのものへの加入者の遍歴が生じてまいりました。しかし、その根本を変革するのではなくして、受益者負担のみのため、国保税、保険料率等、また窓口医療費が毎年のように引き上げられているのが現状ではないでしょうか。制度・医療危機に陥っているのではないかと考えますが、市の見解を伺いたいと思います。 大綱4点目は、環境行政についてであります。
そのため、教育機関の定員などに余裕が発生し、子どもの数が多かった昭和の時代よりも、子ども1人当たりが受けられる教育サービスは充実していて当然なはずであります。しかし、近年において、保育園、幼稚園は定員に達しており、入園ができない乳幼児から小学校就学前までの待機児童が増加傾向にあります。つまり、子どもが減っているのに保育サービスは満足に受けられない方が増加しているという矛盾が発生している状況です。
君津市は、昭和46年、県下25番目の市として誕生しました。その後、発展を続け、君津市は市制施行50周年を迎えました。ちなみに、私も昭和46年11月生まれの50歳を迎える年齢でございます。 旧君津町、小糸町、清和村、小櫃村、上総町の5か町村が合併し、1つの市となりました。現日本製鉄の移転により、九州から、また北海道から、東北から、全国から移住があり、今の君津市があります。
次に、国民皆保険制度導入の背景についてでございますが、昭和30年代に入ると戦後の復興期を抜け、国民生活も安定し、社会保障制度の充実強化を求める機運が高まりました。中でも医療保障は社会保障の中核として位置づけられ、全ての国民に医療における機会均等を保障する施策が急がれることとなりました。
あなたの優れた見識とその崇高な人格は、接する人に親愛の情と敬意を起こさしめ、ために衆望高く、昭和58年9月、君津市議会議員に当選され、以来37年余の長きにわたり、市政発展に精神を傾注され、多大な貢献を積まれたところでございます。
国保がいつからできたかといいますと、私が調べた中では昭和23年というふうに言われているんですけれども、その当時というのは、この国保に加入されていた農林業の方々だとか、水産業の方々だとかは、まだ比較的所得があったらしいんですね、結構よかったらしいんです。ところが、どんどん所得が減ってきたという状況があったんですね。
まず、議案第26号 令和3年度君津市国民健康保険特別会計予算では、小櫃診療所に関し、施設の耐震性の有無について質疑があり、昭和43年に建築し、旧耐震基準の建物であり、老朽化が進んでいることや、指定管理者から建て替えや移設についての要望があることから、個別施設計画において、除却、他施設との複合化を検討しているとの答弁がありました。
昭和49年建設の小櫃公民館はIs値0.47、昭和46年建設の小糸公民館はIs値0.49、昭和48年建設の周南公民館は0.58です。これはまさに、市民の命が失われる状況であるということを忘れていないかというふうに思います。 耐震診断から10年以上が経過しています。その後の老朽化、雨漏りしたり、いろんな被害もありました。
本市は昭和35年、昭和36年に人見、坂田と周西地区の漁業協同組合が漁業権を放棄することで埋立てが始まり、製鉄所が進出し、北は北海道、南は九州から民族大移動と呼ばれる人口の流入が激増しました。その製鉄所から納付される固定資産税のうち昭和46年から5年間に償却資産税約162億円が見込まれていました。この当時の大卒の初任給が4万6,400円でした。
小糸川は、昭和45年の水害後の大規模な改修以来、土砂の堆積や樹木の繁茂が進み、不安の声が市民の皆様から寄せられています。二級河川の管理は県ではありますが、市民の不安に対応するのは市の役目です。小櫃川や小糸川の整備状況や改修計画について、分かりすく周知することが必要であると考えますが、ご見解を伺います。 細目3、災害時要配慮者への支援について。3月11日に東日本大震災から10年を迎えます。
粕谷氏は、昭和59年4月、木更津市立畑沢小学校教諭として奉職されて以来、中小学校長、北子安小学校長、君津市校長会会長、学校法人清見台学園清見台幼稚園園長としてご活躍されました。また、令和2年7月からは、本市の教育長として地方教育行政に対する深い知識と経験を遺憾なく発揮し、教育行政の推進にご尽力をいただきました。
また、三島ダムについては、昭和18年に着工し、戦争を挟み、昭和30年の完成後、土砂の経年堆積が相当あると聞いていますが、この機会にしゅんせつを行い、貯水量の確保に努めるべきと考えますが、千葉県に要望しているのか伺います。 細目3、獣害対策について。 イノシシ、鹿、猿等の有害獣により、本市の農作物は大きな被害を受けています。