十和田市議会 2022-11-24 11月24日-02号
この定例会を振り返って思うことは、私は昭和54年初当選をして、この議会で一般質問してまいりました。そのときは9人でございまして、今その9人の中で議員活動しているのは戸来議員と私であります。戸来議員は、何事においても全力投球をし、ある意味では市長選にも立候補した勇気ある議員であります。
この定例会を振り返って思うことは、私は昭和54年初当選をして、この議会で一般質問してまいりました。そのときは9人でございまして、今その9人の中で議員活動しているのは戸来議員と私であります。戸来議員は、何事においても全力投球をし、ある意味では市長選にも立候補した勇気ある議員であります。
昭和20年の終戦から77年がたちました。今後も尊い平和を築くため、ふるさとへの思いと平和を願う心を、教育や地域づくりなどを通し、次の世代へ語り継いでいかなくてはなりません。 ロシアとウクライナの争いにより、今こうしているときにも人の命が失われる争いが起きております。人の命や暮らしが犠牲になる戦争を許すことはできません。
市史は、昭和51年に発行され、旧石器時代から広い範囲にわたり、政治、行政、教育、文化、産業の分野で編集されております。それから46年たちました。そろそろ新たな市史が必要かと思われます。 そこで、歴史、文化の伝承について質問いたします。 1つ目、市の歴史を市民が知るため、市ではどのような取組をしているかお知らせください。 2つ目、市史の編さんについて、市の方針をお知らせください。
この官庁街通りは、昭和25年、旧三本木町の都市計画に基づき、軍馬補充部の跡地を拡幅したり、桜や松の木を植えました。しかし、今年で何年になるでしょうか。年老いた桜の木が増えてきました。でも、毎年かわいらしい胴吹き桜を咲かせ、満開の桜を咲かせ、そのすばらしい生命力にいつも感動しています。 少し気になるのが根を張った足元です。桜は、伸びる枝の分、根を張っていると聞きました。
国勢調査によります当市の林業における就業者数の推移によりますと、昭和60年では274人でしたけれども、平成27年は206人と30年の間に68人ほど減少しております。このことにつきまして、当市の林業経営体に伺ったところ、高齢者が離職していく一方で、若い世代の就業の定着が進んでいないとのことでございました。このことが林業従事者の不足の要因になっているものと考えております。
十和田湖、奥入瀬渓流は、昭和3年に名勝及び特別天然記念物に指定され、また昭和11年には八甲田地域とともに十和田国立公園に指定されました。そして、昭和31年には八幡平地域も含め、現在の十和田八幡平国立公園となりました。 十和田湖は、青森県、秋田県にまたがり、約20万年前に始まった火山活動によって形成された世界最大級の二重カルデラ湖で、中湖の最深部は326.8メートルで、国内第3位です。
昭和61年に日本の道百選に選定されました官庁街通りは、明治18年から昭和20年まで開設されていた旧陸軍軍馬補充部三本木支部の跡地に整備されたものであり、駒街道の愛称で多くの市民に親しまれておりますことから、市民や観光客に当時の歴史を紹介することは大変有意義であると認識しております。
本市においても、誘致により昭和41年に北里大学獣医学部が開設に至っておりますし、北里大学の十和田キャンパス、この大学のもたらす効果は大変大きなものでありまして、地域教育あるいはまた文化振興、交流・関係人口の増加、大学との連携によるこの地域、特に農業等の地域課題解決への貢献など、本当に多岐に及んでおります。
さらに、議員の皆さんでは、戸来元議長、私と昭和54年の同期でございました。そして、会派の会長として石橋議員がいらっしゃいました。
この明渡し訴訟において、市は最高裁判所の上告棄却によって確定した行政訴訟の判決を前提に、耐震診断は適切に行われており、コンクリート強度の再試験の実施の必要はないことが判決文の中で明確に示され、その上で十和田市立新渡戸記念館の廃止が法的に確定していること、同時に昭和39年に新渡戸氏側と取り交わした土地や資料に関する契約や覚書は終了していること、それゆえ土地と資料を新渡戸氏側に返還する必要があることなどを
昭和、平成、令和と十和田市の町並みの様子を思い浮かべてみると、昭和40年代から昭和50年代は大型店がまちの真ん中に3軒あり、特に中央四丁目を中心に活気的だったこと、商店街のイベントや秋まつりなど、市外からもたくさんの人が訪れていたこと、自慢の長いアーケードもありました。 平成に入り、郊外型の大型店の進出で町なかの様子が一変し、寂しくなりました。
十和田ごみ焼却施設は、昭和60年に竣工し、平成14年の大規模改修工事竣工から19年を経過しております。 十和田地域広域事務組合へ確認いたしましたところ、平成29年度策定の十和田ごみ焼却施設の長寿命化総合計画において、令和9年度まで稼働することとしながら、現在さらなる長寿命化が可能か検討しており、建て替え等につきましては、時期、場所を含め未定とのことでございます。
昭和61年にオープンした市民文化センターが、このたび長寿命化工事に入り、1年間の休業となりましたが、どのように生まれ変わるのか楽しみにしております。 そこで、この機会に文化センターを利用しているたくさんの市民の皆さんにアンケートを取ってみました。その中から幾つか質問したいと思います。 まず1つ目として、長寿命化工事はどのような内容だったのかをお聞かせください。
1985年、昭和60年の人口は6万9,106人、20年後の2005年の人口は6万8,359人、ほとんど変わりませんでしたが、その5年後には6万6,110人と一気に2,249人も減りました。その後は毎年400人から500人ずつ減り続け、2019年12月31日は6万1,067人で、来年の今頃は6万人を割ることになりそうです。 人口減少には、人数の問題だけではなく、年齢構成も大きな課題です。
惣辺牧場については、昭和26年に惣辺牧野畜産農業協同組合が設立され、惣辺牧場として開設されました。そして、昭和63年に西大沼平惣辺線舗装道路が完成いたしました。このときの道路工事碑の碑文には、今後は国立公園十和田湖の中の一大リゾート地として開発整備され、発展されることを願うと刻まれています。さらに、平成5年に県営林活整備モデル事業として、牧場内の舗装道路が完成いたしました。
藤坂地区下水処理施設周辺には、昭和55年に供用開始しております十和田下水処理場及び今年の6月に運転が開始されたバイオガス発電施設がございます。また、現在来年度供用開始に向けて、し尿等前処理施設を建設中であり、今後同施設の稼働により、周辺自治体や民間企業などからの運搬車両の増加が見込まれるものでございます。
稲生橋は、旧国道4号の幹線道路と交差する稲生川に架かる大変重要な橋であり、現在の橋は昭和26年に設置され、昭和45年と平成19年に一部拡幅と大規模な補修を行っている、設置から69年を経過した橋でございます。
私の両親も、昭和の時代の話ですが、下宿のように食事を学生たちに提供したこともあり、今でも学生たちは第二のふるさととして訪ねてきてくれます。 北里大学が永遠に十和田市で経営を維持していくために、研究室を支援するとか、大学周辺の道路整備など、何らかの支援をしていかなければならないと思います。 そこで、お伺いします。
私も69歳になって、69年間の中で地震の怖さというものを改めて知らされた出来事は、昭和43年5月16日だったと記憶していますが、十勝沖地震。このときの揺れは、その後経験した阪神・淡路大震災、あるいは東日本大震災よりも強かったのではないかなと、私は今でも思っています。 そして35年前の1月17日だったと思いますが、阪神・淡路大震災、私は大阪にいました。
1933年に発生した昭和三陸地震の津波被災地に建立されていましたが、時が過ぎて、その多くは忘れ去られました。今回の大震災では、その石碑が命を守るきっかけとなった事例があります。 宮城県名取市閖上にあった私立閖上保育所での出来事です。2009年に同保育所へ佐竹悦子所長が赴任になりました。