弘前市議会 2009-03-03 平成21年第1回定例会(第1号 3月 3日)
特に、弘前公園などの城下町としてのたたずまいと、明治・大正期の洋風建築など、和と洋、歴史や伝統と現代の感性が共存する独特の文化がはぐくまれた弘前市の特性を生かしながら、豊かな自然や温泉、日本一の生産量を誇るりんごなど、多くの観光資源を効果的に組み合わせ、まつり期間以外の誘客を図り、通年観光を推進してまいります。
特に、弘前公園などの城下町としてのたたずまいと、明治・大正期の洋風建築など、和と洋、歴史や伝統と現代の感性が共存する独特の文化がはぐくまれた弘前市の特性を生かしながら、豊かな自然や温泉、日本一の生産量を誇るりんごなど、多くの観光資源を効果的に組み合わせ、まつり期間以外の誘客を図り、通年観光を推進してまいります。
設立は、1920年、大正9年の3月。資本金は1202億1000万円。総従業員は1万6850名。事業内容でございますが、二輪車、四輪車、船外機、電動車両、産業機器の製造販売となってございます。 八戸市における事業展開についてでございますが、事業所名はスズキの100%子会社であります株式会社スズキ納整センター東北納整センター。所在地は八戸市北インター工業団地六丁目119番2。
私も、かつて少し取り上げたときに、この4万1000円の、いわゆる明治、大正からJRが受け継いだ時点での平米単価が幾らかという点を、少しかつての議会で取り上げたことがあるのですが、なかなか自治省が、あるいは総務省が厚い壁となって、またJRが民営化されたということもあって厚い壁となって、今や国会ではほとんど封印されてしまったという経過があるのです。
弘前感交劇場が作成したパンフレットには、多くの名所旧跡や明治、大正の薫りを漂わせる洋風建築物などが掲載されておりますが、これらの観光スポットへの車いすでの入庭―庭ですね、入園を可能とするバリアフリー対策及び障害者用トイレの設置の計画など、バリアフリーの観光まちづくりをどう進めてきたのか。また、これからどう進めていこうとしているのかお聞きしたいと思います。
これまでの新型インフルエンザの流行につきましては、大正7年(1918年)に流行したスペイン風邪、昭和32年(1957年)に流行したアジア風邪、昭和43年(1968年)に流行した香港風邪、昭和52年(1977年)に流行したソ連風邪等があり、厚生労働省によりますと、スペイン風邪で全世界で推計4000万人が死亡し、我が国でも推計で39万人が死亡したとされております。
例えば、小説「思ひ出」の中で太宰が弟と赤い糸の話をした大正当時の青森港桟橋、太宰が通学した旧制中学、寄宿していた家の写真などがあれば、そういうものも展示されたらよいのではないかと思いますし、また、この赤い糸伝説の原点と言われております中国は唐の時代の李復言という人の小説集「続玄怪録」―ちょっと読みましたら、この「続玄怪録」というのは、芥川龍之介がアレンジして小説にした「杜子春」などもおさめられている
青森市のバス事業は、都市交通を支える公共交通機関の一翼を担いながら、必要なサービスと役割を地方公営企業法に基づき条件整備し、市民に愛され、親しまれ、安心して利用できる市民の足として、大正15年の創業以来、これまで82年の長きに及んで市民生活や社会経済活動の発展に一定の役割を果たしてまいりました。
改正の内容であるが、第1条については、「青森市国民健康保険条例の一部改正」であり、往診の給付に係る一部負担金について規定している第5条中「診療報酬の算定方法(平成十八年厚生労働省告示第九十二号)別表第一第二章第二部の往診料の項注四又は別表第二第二章第二部の歯科訪問診療料の項注七の」を「健康保険法(大正十一年法律第七十号)第七十六条第二項(同法第百四十九条において準用する場合を含む。)
皆さんもご承知だと思いますが、20世紀では大正7年にスペインインフルエンザ、いわゆるスペイン風邪、昭和32年にアジアインフルエンザ、昭和43年に香港インフルエンザ、昭和52年にソ連インフルエンザが流行しています。これらは、いずれも世界的に流行し、時に多くの死亡者を出しました。例えばスペインインフルエンザにおいては、世界で約4,000万人、我が国でも約39万人が死亡しました。
当市は、岩木山に代表される豊かな自然に囲まれ、また、弘前城を初めとする歴史的建造物、さらに、明治・大正期に建築された教会などの洋風建築が数多く残されており、歴史と文化が息づく情緒豊かなまちであります。
先般、NHKの「その時歴史が動いた」というので、大正12年9月1日の関東大震災で、その後の東京の復興というもの、後藤新平という方が設計をしたようでありますが、そのときの言葉が、復興の精神、それは50年後あるいは100年後を見据えた都市の建設でなければならないということを言っておりましたが、弘前市もこれまで、たしか平成元年に市民を巻き込んで、それから弘大も巻き込んだ市民からのメッセージという本、個人の
1920年、大正9年2月26日――これは盟友竹下登氏と同じ日であります――北海道は函館市の寺に生まれ、小学校を卒業するとすぐに家を飛び出し、炭坑夫や危険な仕事で食いつなぎ、みずからの血液をやみ市で売り、その得た金で古本を買って読みあさり、映画の撮影所で雑用係をしながら、脚本の修正などを手伝ううちに作家となり、ある程度のお金を得て、大東亜戦争での海外戦没兵士の遺骨引き揚げ運動を始め、それがいろいろな人
日本港湾協会は、港湾に関する政策を考え、港湾に関する知識を広め、港湾関係者の連携強化を図るとともに、港湾の施設の整備とその管理を改善し、貿易の進展と経済基盤の強化に寄与することを目的として、大正11年に創立された歴史ある法人であります。 平成19年度末現在は、港湾関係自治体や各種協会及び協賛企業など、約1100会員で構成され、港湾に関係する最大の団体であります。
江戸、明治、大正、昭和と世界が激動する時代を人と人をつなぐ、人と人を、国と国を結ぶためにその生涯をささげた博士の心の底に住むものは何だったのか。ドイツ留学のときに、カトリックの修道女に連れられた40人余りの孤児たちを見て、ミルク屋のおばさんに、内緒で好きなものを一杯ずつ飲ませてやるように頼み、子供たちがそれを飲んではしゃぐ姿を、目を細めて見詰めていたという。
弘前市は、藩政時代や明治・大正期の建築物、岩木山などの自然や温泉、日本一の生産量を誇るりんごなど、観光資源が豊富な割には生かし切れていないという声も聞かれておりました。 このことから、平成19年度に実証実験として実施したりんごの花見や岩木山8合目から眺望する日本海に沈む夕陽などは、新たな観光資源として大いに期待しているところであります。
1670年に河村瑞賢によって東回り航路が開設されたことにより、江戸等への物資の輸送に利用されるようになり、明治維新以降、海運が発達してくると、八戸でも築港運動が起こり、明治15年、政府はオランダ人技術者ローエン・ホルスト・ムルデルを派遣、沿岸部の測量を行い、1919年――大正8年――から鮫浦港修築工事に着手し、昭和5年に鮫と湊川口を統一し、八戸港と改称され、昭和14年3月30日には貿易港とし開港指定
建築基準法の歴史をさかのぼれば、その歴史はまさに古く、江戸期に公布された防火対策のおふれ書などにルーツがあり、その前身は大正8年制定、翌9年施行された「市街地建築物法」であると聞き及んでおります。
東北新幹線新青森駅開業により、多くの観光客が津軽地域を訪れることが予想されることから、藩政時代や明治・大正期の建築物、自然や温泉、りんごの作業体験など観光資源の掘り起こしとともに、市民側の受け入れ態勢の整備やおもてなしの心を育てることが必要であります。 現在、弘前観光コンベンション協会において、津軽弘前歴史文化観光検定の実施に向けた取り組みが進められております。
青森市のバス事業は、大正15年の創業以来、これまで81年の長きに及んでお客様の安全を守り、年じゅう休むことなく運行ダイヤという信用を守り、ふくそうする走行環境と多様化、高度化するお客様のニーズにこたえた輸送体制を確保しながら、産業経済活動の発展に一定の役割を果たしてまいりましたのも、ひとえに議員各位を初め、市民の皆様の御支援と御協力のたまものであり、深く感謝申し上げます。
是川遺跡が我が国を代表する縄文時代の遺跡として知られるようになったのは、大正9年に泉山岩次郎、斐次郎兄弟が発掘調査を行ってからであり、その功績はまことに大きいものがあると認識しております。泉山兄弟は、昭和36年に約5000点の出土品を八戸市に寄贈され、翌年5月に市の特別功労者として表彰されております。