豊川市議会 2019-12-04 12月04日-02号
この常在戦場は、長岡藩牧野家の家訓でありまして、長岡藩は現在の新潟県長岡市となります。そして、牧野家のふるさとは、この豊川市であります。我がとよかわ未来控室にも、常在戦場と書かれた扇子や色紙、そして参州牛久保之壁書が掲げてあります。政治家になられた竹本市長も、常在戦場の精神で、今後4年間の市政運営をお願いしたいと思います。
この常在戦場は、長岡藩牧野家の家訓でありまして、長岡藩は現在の新潟県長岡市となります。そして、牧野家のふるさとは、この豊川市であります。我がとよかわ未来控室にも、常在戦場と書かれた扇子や色紙、そして参州牛久保之壁書が掲げてあります。政治家になられた竹本市長も、常在戦場の精神で、今後4年間の市政運営をお願いしたいと思います。
次に、長岡藩主牧野家が本市牛久保町とゆかりが深く、地域としての交流が続けられてきたことから、新潟県長岡市と災害時における相互応援に関する協定書を平成22年3月に締結しております。
学習の内容としては、まず、冒頭の常在戦場の四字で始まる参州牛久保之壁書や、校歌や校章で使われている牧野家の家紋である三つ柏を中心にして学習を展開しております。また、平成21年度より、保護者や地域への発信の場である学習発表会において、6年生が、牛久保と関係の深い長岡藩で起きた史実を題材にした米百俵の劇を上映、平成22年度より5年生が、若葉祭で行われる笹踊りややんよう神を上演しております。
これは牛久保の牧野家が向こうに行って長岡藩としてついたわけでありますけど、戊辰戦争によって長岡藩が焼け野原になって、もう食う物も困るというときに、隣の藩から米100俵をいただいた。それをみんなで分けて食べようということになったときに、これを食べてしまえば終わってしまうけど、教育に使おうということで、大変議論がありましたが、その結果、教育が充実したという話がございます。
それでは次に入りたいと思いますが、ちょうど、400数十年前に、この牛久保の地を立った牧野家が、大後、これ群馬県でありますけれども、大後、そして長嶺、これは上越市、そして長岡と国がえになりながら、そのあと、250年間、長岡藩として歴代11人の藩主、そのうちに老中を4人出すという名門に、譜代の中でも名門になっていった、そんなおつき合いがあるわけでありますが、その間も、この地とのおつき合いを忘れることなく
そして、御存じ、豊川におきましては牛久保城主の牧野家が徳川家康の家臣として大活躍して長岡城へ移ったという、大変、豊川市も徳川家康にいろんなところで関係のある所でございますので、これも一緒にできたら、これは今話したのが西三河の地でありますけど、豊橋の吉田城なんか、いろんなところでやはり関係がありますので、これから徳川家康を売り出すにはいい観光資源にはなるのではないかなということも実は考えておりまして、
それをベースに、今度は牛久保がことし、長岡との結びつきが、市の方も市長が協力的にやっていただきまして、つながったわけでございますけれども、長岡藩の牧野家のルーツがちょうど牛久保だということで、長岡市にあります阪之上小学校と、これは小林虎三郎という米百俵で非常に話題になりました方でありますけれども、その国漢学校があった場所であります。
その中でも長岡市議会の議長さんを始め議会の方も参加いただきましたし、それから、私は幾つかの思い出ができたわけでございますが、その中でも、牧野家はもともと三つ柏、カシワの葉っぱを紋に使っておりますので、長岡では紋の友の会と書きまして、紋友会という組織がございます。
展示の内容でございますが、桜ヶ丘ミュージアムの1階全室を使用いたしまして、戦国動乱期の牧野氏、それから長岡藩牧野家、三根山藩牧野家、小諸藩牧野家、笠間藩牧野家、田辺藩牧野家、それと牧野氏ゆかりの行事の全7章立て構成による展示を行います。
◎大林伸行企画部長 新潟県の長岡市につきましては、本市に所在した牛久保城の城主であった牧野氏が、長岡藩、牧野家と深いつながりがあったという歴史的な背景が契機となりまして、牧野家の子孫である長岡市の住民と、本市牛久保町の住民の間において、不定期の民間交流が行われております。
この牧野家は、明治維新の激動を象徴する北越戊辰戦争で維新政府の敵軍となって戦うが、圧倒的な政府軍に包囲され、戦もこれまでと、ついに城を放棄してしまったのであります。その結果、長岡藩は賊軍の汚名を着せられ、禄高を3分の1の2万4,000石にされ、その日の賄いにも事欠くありさまとなり、貧乏のどん底にあえぐようになってしまったのであります。