一宮市議会 2022-09-12 09月12日-04号
◎まちづくり部長(中川哲也君) 萩原駅の東側から国道155号に向かう都市計画道路萩原駅前線の一部として、面積約700平方メートルの駅前広場が昭和46年に都市計画決定されております。 ◆14番(井上文男君) この駅前広場の整備を地区計画と一体で行うことで、バスが停車するスペースの確保につなげることはできないのでしょうか、お尋ねします。
◎まちづくり部長(中川哲也君) 萩原駅の東側から国道155号に向かう都市計画道路萩原駅前線の一部として、面積約700平方メートルの駅前広場が昭和46年に都市計画決定されております。 ◆14番(井上文男君) この駅前広場の整備を地区計画と一体で行うことで、バスが停車するスペースの確保につなげることはできないのでしょうか、お尋ねします。
運動部、文化部、いずれの提言においても、おおむね同様の記載となっているとおり、令和3年の公立中学校の生徒数は約296万人で、第2次ベビーブーム世代が中学生だった昭和61年と比較しておおむね半減したほか、出生数も令和2年に約84万人にまで落ち込んでいることから、少子化による生徒数の減少は今後も続くものと見込まれています。
下水を使い始めて、昭和52年からですのでこれで45年たちました。当初の計画から見ますと社会情勢とか人口とか、当初想定していたものからは人口減もあっていろいろ変わってきていると、たくさんいろいろなことがあると思います。引き続き何をしていくのが一番よいのかみんなで考えていく必要があるのではないかと思います。
─────────────────────────────────────────── 議案第61号 稲沢市道路線の廃止について 道路法(昭和27年法律第180号)第10条第1項の規定に基づき、市道の路線を廃止するため、同条第3項の規定により議会の議決を求める。
昭和の時代から、継続して碧南市が実施してきた事業だと思いますが、(ア)実施開始年度からの支給対象年齢の推移はどうなっていますでしょうか。お答えください。
いずみ学園は昭和59年に今の場所に移設したかと思いますが、耐用年限は財務省令で減価償却資産の耐用年数などに関する省令を参考に、保育所と児童館はいずれも学校用の建物で47年とみなされており、いずみ学園は今のところ築38年となり、あと9年くらいの間に考えなければいけない課題の一つかと思いますが、どのように考えていますでしょうか。
ちなみに、この年齢階級の人たち、つまり、昭和37年から昭和41年生まれの人たちの出生性比は106でした。 つまり、男性は女性よりも多く生まれるものの、50歳くらいまでに亡くなる人が女性よりも多く、全体としても短命であるということです。 男性が体質的に女性よりも弱いということは、医療費の比較を見ても明らかです。
かつて、特に昭和の頃ですが、担当課のカウンターに資料が置いてある場合や、市役所玄関にある掲示板に資料が重ねて貼ってあったことがありました。こういうことが現在もあるのか。また、こういった、一般にはなかなか気づかれない場合があるとき、市民など申請する者にホームページなどで注意喚起をするのか、お伺いしたいと思います。 ○柴田安彦副議長 総務部長。
何事も、初めて開催するということは、過去にも私にも経験がありますが、臨海体育館が昭和58年にオープンした当時、新体操競技の全日本大会を実施した際には、それはもう本当に、初めての種目でもあったし、初めての全国大会でもあったためにもう何も分からなく、手探りの状況で何をどうすればいいのかが分からなく、毎晩タイムレコーダーの深夜12時を知らせる音にビーという音が鳴りまして、それにびっくりさせられながら、時間
この写真は新公会堂を建設する計画が進んでいるときに、昭和4年に建てられた解体前の公会堂を記録に残してほしいと当時の区長から頼まれて撮影したものです。この写真の横には大正、昭和初期にこの地に開墾に来られた先代たちが写した写真が何枚か飾られています。はるか昔の風景で、その頃は元町工場はもちろんまだありません。今では想像できない、ただ原っぱが広がっているだけのような写真です。
この写真は新公会堂を建設する計画が進んでいるときに、昭和4年に建てられた解体前の公会堂を記録に残してほしいと当時の区長から頼まれて撮影したものです。この写真の横には大正、昭和初期にこの地に開墾に来られた先代たちが写した写真が何枚か飾られています。はるか昔の風景で、その頃は元町工場はもちろんまだありません。今では想像できない、ただ原っぱが広がっているだけのような写真です。
棒の手は、昭和33年に県の無形文化財に「旭町棒の手」として指定されました。尾張旭市誌によりますと、当時、愛知県棒の手保存会の支部として旭町支部があり、県下の他の市町村と同じく当時の町長が保存会の会長を務め、町を挙げて保存会の結成に取り組むと同時に、他市町村との連携が図られていました。文化財指定は支部単位でなされ、現在も当時の単位で登録されております。
一方、資源化センターが昭和55年に稼働してから40年以上が経過する中で、環境行政を取り巻く状況は大きく変化し、ごみ減量やリサイクルといった循環型社会の構築から再生可能エネルギーの活用などの多様な取組についても、市民により理解を深めていただき、実践していただく必要が生じてまいりました。
(4) 市民公園見直し基本計画書について ① この計画書は昭和63年(1989年)12月に計画されている。現在まで34年が経過しているが、この計画が現実に合致しているかどうかをどの様に捉え、またこれまでに修正など、加えられているか伺う。
○消防長(須賀基文) 100立方メートルの耐震性貯水槽については、昭和52年度から大規模地震発生時に予測される同時多発火災への対処として、消防団や自主防災会などの地域住民による消火活動も想定し、旧豊田市内の中学校区ごとに小型動力ポンプとともに整備してまいりました。
○消防長(須賀基文) 100立方メートルの耐震性貯水槽については、昭和52年度から大規模地震発生時に予測される同時多発火災への対処として、消防団や自主防災会などの地域住民による消火活動も想定し、旧豊田市内の中学校区ごとに小型動力ポンプとともに整備してまいりました。
しかし、昭和43年10月に、西日本を中心に広域に発生した米ぬか油による食中毒事件をきっかけとして、食物連鎖などで生物の体内に蓄積して、健康被害を起こしやすいことや、環境中で分解されにくいため、長距離を移動して地球規模での環境への影響があることなどが明らかになり、日本では昭和47年に製造が中止されました。
建築は昭和52年で、40年以上経過しております。 次に、障害者自立支援給付についてですが、介護保険に移行した方からの相談については、ケアマネジャーや相談員を通じていただくことがございます。移行した場合にでも、介護保険にない障害特有のサービスは御利用いただけます。また、障害があるために、介護保険サービスで補えない場合は、個別の状況など、必要に応じて対応をしております。
本市においては、昭和57年より後退用地に関する指導要領に基づき、先進的に取組を実施し、制度の周知が図られ浸透していると感じる一方、市民からは道路後退をしたのになかなか整備が進まないといった声も聞こえてきます。 狭隘道路の多くは市民の生活道路であり、整備を進めるのは自治体の重要な責務です。
本市においては、昭和57年より後退用地に関する指導要領に基づき、先進的に取組を実施し、制度の周知が図られ浸透していると感じる一方、市民からは道路後退をしたのになかなか整備が進まないといった声も聞こえてきます。 狭隘道路の多くは市民の生活道路であり、整備を進めるのは自治体の重要な責務です。