岡崎市議会 1981-04-01 03月10日-03号
次に、夢と希望に満ち、豊かで香り高い文化を持ち、快適で住みよく、活力と調和に富み、あすの都市岡崎をつくるために無限の可能性と将来性を持つテクノポリス構想、夢と希望と幸せいっぱいの2大ゾーン計画、オリンピックへの参加等、市民合意のうちにこれら大事業が進んでいくならば、21世紀に向けての近代都市、産業と福祉、文化都市岡崎の誕生は間違いないと市長はおっしゃっております。
次に、夢と希望に満ち、豊かで香り高い文化を持ち、快適で住みよく、活力と調和に富み、あすの都市岡崎をつくるために無限の可能性と将来性を持つテクノポリス構想、夢と希望と幸せいっぱいの2大ゾーン計画、オリンピックへの参加等、市民合意のうちにこれら大事業が進んでいくならば、21世紀に向けての近代都市、産業と福祉、文化都市岡崎の誕生は間違いないと市長はおっしゃっております。
これは申し上げるまでもございませんが、いわゆる縦型集水制度等におきましては甘く見れば1万2,000トン、辛く見ましても8,000トン、こういう可能性というものがまさに私もある程度のデータを通じながら自信を持ちつつこの執行に踏み切りたいと存じ上げておる次第でございます。
けるということよりも、受けたい受けたいという態度は見せながらも、やはり国、県等の関係とかみ合わしてということがあるんではないかと、そういうことを考え合わせながら各市がいまの段階においては名のりを上げておらんのじゃないかと思いますですが、しかし、これもほどなく全愛知県下、あるいは東海に対しまして、各市とも、もうこれは市長会等も考え合わせながら、この誘致関係のしかるべき方法、運動というものは、徹底して展開されてくる可能性
せっかくの家康館もそしてその城跡公園の遠大な理想も、この受け入れ態勢を確立しなければ、宝の持ち腐れとなってしまう可能性が非常に大きいと思います。いまこそ実効ある市政を遂行する政治姿勢が必要であろうかと思いますが、市長のお考えをお伺いさしていただきます。以上で市長関係は終わります。 次に明るい暮らし、住みよい暮らしに関連いたしまして、街路灯の見直しについてお伺いをさしていただきます。
この見直しは、いまの八田議員のお話のように、場合によりますればもっと大きな計画が生まれてくる可能性もあれば、もう少し計画を縮小する可能性もある。
12月議会では、請願は不必要になる可能性もあると発言もありましたが、いまだに良識ある態度はとられておりません。愛知県議会12月定例会で中根薫県議会議員の辞職勧告の請願が採択されなかったことをもって、岡崎市議会も保留ということでありますが、私たちは、岡崎市民に責任を負う岡崎市議会として毅然とした態度を明らかにする必要があると思います。
さて、7月10日の朝日新聞では、「矢作北中工事は刑事事件になる可能性」と見出しがありましたし、聞き及ぶに一方の落札者は数億円の粉飾決算があるというようなことも聞き及んでおります。また家康館建設は財源のやり繰りが非常に不明確で、地方債をよりふやさなければならないような状況も起こり得る。以上のような実情もあり、この11議案は慎重に対処しなければそれこそ議会の真意を市民に問われることは必至です。
そうするとこれ2つあると、あの、一緒に受ける落札される可能性というのはあるわけですね。それがどういうことなのか、先ほどの御答弁と矛盾しているということですね。それから、大きい会社か、大きくない会社かっていうのは、ま全体がわかりませんですけども、たとえば小原建設よりも、鶴田工務店の方が、力があると、そういうことで2回入れられたのかどうか、それを伺ってるわけです。 その2点です。
設計日数も6月議会に御承認を得なきゃなりませんので、やや不足しておりますし、それから北棟の階数予定としましては4階建てを予定してあったわけでございますが、一応その階数につきましてもまだ未整理でございまして、それと当時変更の可能性もあるということ等を考えました結果、教室部分と管理部門を分割いたしまして北棟は管理部門に含めて設計をいたしました。
共産党は、これからも真相解明のためにいろんな可能性を追求していきたい、このように考えておることも付け加えて、私からの提案の説明とさしていただきます。 (12番 尾藤輝夫君 降壇) ○仮議長(渡辺五郎君) 次、13番、岡村秀夫君。 (13番 岡村秀夫君 登壇) ◆13番(岡村秀夫君) ただいま議題となっております「行政執行実情調査に関する動議」についての提案をさしていただきます。
指導者や経費の点から活動がしぼられているということであれば、子供会の発展の可能性もあるわけで、活動を通して内容もより充実されるものと思われます。 しかし、認識不足や指導の助言の不足から活動が単一化されてきているとなれば、子供会の発展は望めないし、存在意義すら薄らいでしまうのではないかと。